第4楽章 理性と欲望のクレッシェンド
「信じられないわ」
アイリーン・ネルソンは、彼女らしくもなく、落ち着きをなくしていた。
ついさきほど、キオは、イヴと共に屋敷を出て行った。
小娘のオトモダチを連れ去った憲兵隊について情報を集め、できれば彼女たちを助けてあげたいらしい。単純で、お人好しなキオの捻りのない案。勿論、ここまでは、アイリーンの予想通りだ。
だから、手伝ってほしいと願い出たキオを、アイリーンは無下に断った。
いつもなら頼まれなくても参加するだろうディーンや、ペーズリーでさえ、キオの声に姿を見せない。つまりは、みんなイヴの手助けをすることを、暗に拒否しているのだ。
「どうしても、ダメですか?僕、放っておけないんです」
必死に訴えるキオを、若干見下ろしながら、アイリーンは憮然とした顔を崩さない。
「アンタが放っておけないんでしょ?なら、自分でなんとかすれば?」
「……わかりました」
キオの硬い声に、高飛車な姿勢を崩すアイリーン。
「なら、僕とイヴだけで、行ってきます」
――これは、予想外だった。
だって、たった2回しか頼んでないのに、どうしてそんなにさっさと諦めるわけ?
だから、つい口走ってしまった。
『よく言うわ。アタシたちがいないと、なにもできないくせに』
ところが、せせら笑ったアイリーンに、キオは表情も変えず答えたのだ。
『それは、そっちも同じでしょう?』 と。
「信じられない」
アイリーンは、再び部屋をぐるぐる回りだした。
あんなに可愛くないキオ、初めて見たわ。
他の連中はどうしているんだろうと、アイリーンは、無人の談話室を見渡した。しかし、すぐ思い直す。なんで、奴らの意見なんか、聞きたいと思ったのかしら。
こういうときに限って、姿が見えないジルや、リジーを罵倒しつつ、アイリーンはソファのひとつに腰を沈めた。背を丸めたまま、爪を噛む。
「あんな言い方ないじゃない……アタシが何したっていうのよ」
非難がましいキオの目を思い出して、苛立たしく床を踏みつけると、その床に、大きな影がかぶさった。直後、もさ、と頭の上に何かが乗る。
「なによ」
グランの大きな手が、アイリーンの髪を撫でている。
グランの顔を見上げると、相変わらず、なにを考えているのか分からない目がゆっくり瞬いた。なでなで、と繰り返し往復する掌は、包帯越しだからか、あまり温かみが感じられない。
「怒ってないわよ、別に」
グランは、勿論なにも答えない。
「ただ、ちょっとムカついただけ」
ブツブツと文句を言い続けるアイリーンの頭を、大男は無言で撫で続ける。壁に話した方がマシね、と苦し紛れに吐き捨てた言葉を、黙って受け入れて。
あぁ、クソ。よく考えたら、おかしい。つか、腹たってきた。
あんな小娘相手に、なんで敗北感を感じる必要があるんだろう。キオもキオでしょ、あんなに信用するなんて、どうかしてる。しかも、なに?なんにもできないのは、こっちも同じですって?はぁ?どれだけ、アタシたちに助けられたと思ってるんだろう、あのガキ。
「なにを、どう勘違いしてるのかしら」
尻尾振って、しつこくお願いしてくるのかと思ったら、あの態度!
もし、いつもみたいに「アイリーンさんにしか、頼めませんよぉ」とか言うんだったら、散々文句言ったあと、手伝ってあげたかもしれないのに。
「なんで、こっちの話を聞かないのよ」
嫌味ひとつ、皮肉ひとかけ、当てこすり一片も言えなかった。あんなに、さっさと出て行かれたんじゃあ、張り合いがなくってしょうがないわ。
アイリーンは長く息を吐いた。
どうせ、泣いて帰ってくるに、決まってる。だって、相手はキオだもの。アタシたち無しじゃ、なにもできないってことを、痛感してくればいい。ついでに、あの小娘を、どっかに捨ててきてくれたら、嬉しいんだけど。いや、キオの無力なところを見れば、あの小娘もさっさと別の男を頼るだろう。そうなったときは、キオを慰めてやればいい。
ほら、やっぱり、アタシたちがいないとダメなのは、キオの方じゃな――
アイリーンはそこで気がついた。自分の願望に。
キオに、泣いて帰ってきてほしい。
自分たちが必要だと、すがってほしい願望に。
アイリーンは、苦々しく舌打ちした。
「……やられた」
リジーが、キオは案外食えないとかなんとか、言っていたっけ。
こっちに言わせる気だ……『アタシたちには、キオが必要だ』と。
これは、立場がイーヴンだという、キオなりの確認であり、挑発ではないだろうか。キオは、自分たちが追いかけてくるかどうかに、賭けている。追いかけてきて欲しいのが、本音だ。キオは、自分の力量を見誤ったりしない。
アイリーンは、しばらく唇を尖らせていたが、ふっとそれを緩めた。知らぬ間に、かすかな笑みも浮かんでいる。
あれが、せいいっぱいの虚勢?そういうことなら、後で思いっきり感謝させてやろう。そのうえで、子供じみた意地と、ささやかな仕返しを、鼻先で笑ってやればいい。
ふふん、ざまーみなさい。
「やっぱり、あの小娘より、アタシの方がイイ女だわ」
顔を上げた彼女は、いつものアイリーン・ネルソンだった。
「子供のワガママを、あえて甘受するほどにね」
彼女は、グランの手に軽く口付け、妖艶に微笑む。
「今まで気付かなかったけど、アンタも結構イイ男よ」
「お前はどうするんだ」
「どうって?」
「大好きなキオが、ピンチかもしれないのに、放っておくのかと思ってね」
帽子の下から、眩い金目が覗く。気だるげに、手すりに背を預けたディーンは、純白と漆黒で模られた市松模様の大理石を見下ろした。
「あんなの心配してるキオは、好きじゃない」
子供っぽい独占欲を隠そうともしない。
「そっちこそ、どーすんの」
「さぁて、どうしようかねぇ」
ジルもディーンに並んで、手すりに寄りかかる。
「ジルは、イヤじゃないの。あんなのにとられちゃって」
キオ、オイラたちのこと呼びもしなかったよ?
キオの声がしたら飛んでいくのに、いないことを変だと思われなかったんだよ?
わざわざ隠れてたのに、探しに来てくれなかったよ?
「さぁね」
言っとくけど、オイラにだって分かるからね。さっきから、やけに自分の爪を気にしてるけど、なんともないんでしょ?ジルだって、キオがさっさと行っちゃったこと、しっかり驚いてるくせに。とられちゃって、ホントはジルもイヤなくせに。
爪を見ていたジルが、ふと顔を上げる。澄んだ青の瞳が、三日月の形に歪む。考えが読まれたようなタイミングに、ディーンは少し肩を揺らした。
「そんなに大事なら、首だけにして後生大事に取っておけばどうだ?」
低い声の誘惑に、ディーンは、口を噤んだ。
実のところ、それは先程まで、ディーンが考えていた案そのものだった。ああいう邪魔者を近付けないためには、自分だけを見ていてもらうためには、今のままじゃダメ。
もっと言うなら、生きている間は、ダメなのだ。
だが、ディーンは、自らそれを却下した。
「ジル、オイラは、キオに死んで欲しいわけじゃない」
手すりに軽く腰掛けたディーンの後を、虹色の羽飾りがシャラシャラと追う。
「ただ、ずぅっと側にいてほしいだけだよ」
「キオの意見は無視してか?」
嘲笑うような調子に、ディーンは、帽子の下で一瞬泣きそうな顔をした。
「ダキョーする」
キオのやりたいこと、ちゃんとやらしてあげることにする。
そうしないと、いなくなっちゃうかもしれないし。
静かになったディーンの隣で、ジルは肩にかかる金髪を、一房つまみあげ、そのまま払った。
枝毛のチェックは、キオを迎えに行った後にしよう。
「さっきの話な、きっとお前だけが考えたわけじゃない」
手すりから身を起こし、階段を降りるジルに、ディーンは首を傾げた。
さっきの話。
「猟奇殺人鬼は、お互い、考えることが似ているらしい」
底冷えのする碧眼が、振り向きざま、笑みを浮かべた。
普段のキオは、あんなことをしないし、言わない。あんな挑発的で、突き放すような言い草――それに、キオは勘がいい。連中がイヴを快く思っていないことを、なんとなく感じていたはずだ。なのに、何故わざわざ逆撫でするような態度をとったのか。
もし、あのままキオが、低姿勢で頼み続けていたら、どうなっていただろう。
きっと、誰もが、なかなか首を縦に降らなかったはずである。キオに、そこまでさせる小娘を、ますます疎ましく感じるからだ。そこで、キオは、猟奇殺人鬼たちの意見を聞かず、ついてくるか否か、完全にこちらに委ね、出て行った。
当然、こちらに不満が残る――自分たちが、舞台から放り出された不満だ。
「習性を読まれている気分だな」
まぁいいかと、ジルはコートを引っ掛け、ステッキを持つ。
もう少し、その手の中で踊っていてやろう。
キッチンの、テーブルに腰掛け、リジーは足をぶらつかせていた。足元には、お菓子の袋が、大量に散らばっている。
「困ったもんだねぇ、そう思わない、ペーズリー?」
テーブルの足元にうずくまっているペーズリーは、軽く鼻を鳴らした。
本当は、ペーズリーだって、あんな女の子嫌いだ。キオがキッチンに入って来たとき、褒めてもらおうと皿洗いをしていたのに、キオは気付きもしなかった
それどころか、キオは女の子を追っかけて、どこかへ行ってしまったのだ。
「にゃーん」
もう、キオは、ペーズリーたちを追いかけてこないつもりなんだろうか。
あの女の子を追いかけるつもりなんだろうか。
「ん、誰か出て行ったな、青髭か」
ホールの音に耳を傾けていたリジーは、床を軽く打つステッキの音に、喉を鳴らして笑った。その後を、騒がしい足音が追う。窓から出て行ったな、あれは笛吹き男だ。
みんな、結局あの子供を見捨てられない。冷たくあしらったくせに、気になって気になってしょうがない。だったら、最初から協力すればいいのにね。
教えてあげようか。それが、どんなに恐ろしいことか、教えてあげようか。
歌うような調子で、リジーは囁く。
「これじゃあ、前の二の舞だね。フランチャコルタのときとさ」
持っているマグを、ゆっくり回すと、中のミルクが揺らめいた。
「あのときとの違いは、相手が悪いってことだ」
ギルシア国家憲兵隊クロムニーチェ・ブランカ。
「すこーし、マジメにやろうか」
リジーは、持っていたマグを床に叩き落す。マグは白い陶器を撒き散らし、粉々に砕けた。
「狼退治には、赤ずきんがいるだろう?」
「怒ってたなぁ……あれは、ちょっと、まずかったかなぁ……」
キオは、イヴを連れていることも忘れ、思案モードに突入している。
はっきりいって、うまくいったかどうか、分からない。
部屋で思いついたときは、これこそ彼らの内面にだけ向いているベクトルを、少しずつ外に向けていく切っ掛けになるんじゃないかと思ったが。
「どうだろう、これ……追いかけてきてくれなかったら、またゼロから愛情指導やり直しだよなぁ」
猟奇殺人鬼の内面世界に取り込まれているだけ、つまり仲間だと認識されているだけでは、ダメだとキオは感じている。
キオは、彼らに、他者を他者として受け止めて欲しいのだ。
しかし、自分の世界にこもっている人間の意識を、外に向けさせるのは難しい。そこで、彼らの目線を少しずつ移動させることにした。最初は、自分自身しか見てない目線を、仲間ではない「他者としてのキオ」に移し、そこから全く知らない人間に対する興味へと、幅を広げていく。
それが、根本的な解決の足掛かりとなる予定であり、キオの目指す「善い方向」の第一歩でもある。
とりあえず、今のまま、あそこにいてもダメだ。ご機嫌をとっているだけでもダメ。
今度は、僕が先手を打とう。
霧雨は、霙に変わっていた。