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第4楽章 霧雨のグラーヴェ2番

化粧のほとんどは涙と雨で流れ落ち、薄い安物のドレスは破れ、細い膝は擦りむけて、イヴはひどい格好だった。さっき会った女の人は、すごく綺麗で――こんな姿で押しかけてきた自分を恥ずかしく思ってしまう。それどころじゃないと、自覚しているのに。


バスルームの湯煙に身を浸し、イヴは思いきり音を立てて、顔を洗った。


冷たい指先に、小さな(とげ)が刺さっている。


きっと、あの時計の木屑だ。


棘を抜くと、小さな血の玉が浮かぶ。


「ポーラ……」








ポーラが出かけて、どれくらいたったか、イヴはベッドでうたた寝をしてしまっていた。


空腹で目を覚ますと、薄い壁越しに、誰かが階段を上がってくる音。木の板が盛大にきしむ程、慌てている足音がした。少し身構えたイヴだが、入ってきたのは、部屋を貸してくれている女主人だった。


「ちょっと、起きとくれ!マズイよ、向かいのアザの店が憲兵隊のガサ入れにあってるんだ。ここにも来るかもしれない」


本来、北方貧民に宿を貸すことは、申請がなければ許されない。同じギルシアに住んでいるというのに、北と南というだけで、扱いが分けられるのだ。しかし、申請すれば、面倒な手続きがあるし、なにより貧民も家主も余分な税金を納めさせられる。それで無許可・無届の期間限定宿泊施設が、結構あり、今イヴがいる宿もそのひとつだった。


店が危なくなると、警察の前に貧民を放り出す家主もいるようだが、幸い彼女は違った。


「だからさ、あんたも隠れておいで。まさか、中まで点検しないと思うけど、念のため」


そう言うと、女主人はイヴを廊下に連れ出した。細い廊下の突き当たりには、大きな振り子時計が、ぼんやりと立っている。女主人は、時計のガラス戸を開け、振り子をずらした。イヴが恐る恐る、中を覗き込むと、底板が外れ、ひと一人が座れる程度の隙間が出来ている。


「こんなか入ってな。最初は自分のために作ったんだけど、尻が入らなくてさ。アンタなら小さいから入れるだろ?」


そういって陽気に笑う家主は、確かにふくよかを過ぎている。


「憲兵隊が、来たら声を出すんじゃないよ。いなくなったら教えてやるから」


階段を降りていく女に礼を言い、イヴは、時計のなかに身を滑り込ませた。


埃っぽいけど、ゼイタクは言っていられない。それにしても、なんでこんなに北方貧民を警戒するようになったんだろう。


すきっ腹を抱えたまま、イヴは座り込んだ。顔を上げると、壊れて動かない振り子の間から、ガラス戸越しに廊下が見える。まだ眠気のさめないイヴは、もう一眠りしようと、膝をまるめ――


――女の怒鳴り声で目が覚めた。



入り込んでくる光が弱い。ひょっとして、結構眠ってしまったのだろうか。


イヴがそろそろと、ガラス戸の外を覗くと、憲兵隊と若い女が言い争っているのが見えた。


ポーラだ。


彼女は、部屋の前に立ちふさがって、憲兵隊の行く手を遮ろうとしている。その部屋は、イヴたちが借りている部屋――ポーラは、まだ中にイヴがいると思っているのだ。


強引に押しのけようとする憲兵に、長い爪でひっかきかかったが、次の瞬間、床に殴り倒されていた。鼻から、血が滴り落ちる。


ポーラ!


思わず身を乗り出しそうになり、足元の床が不吉な音をたてた。


「……ッ」


まさか、そんな小さな音が聞こえたわけがないのに、さっと黒髪の憲兵が振り向く。顔が整っているだけに、ひどく冷たい印象の男だ。


「部屋には誰もいねぇぞ、これで全部じゃねぇ?」


ぐったりしたポーラの腕を掴み、引き上げながら、別の憲兵が言う。たてがみのような頭が荒々しく、お世辞にも良いとはいえない目つき。まるで、物を扱うような所作でポーラを、背後の憲兵に押し付ける。


「なんだよ、フェンリル」


「……いや、なんでもない」


黒髪の男が、頭を振ると、たてがみ男は、溜息をついた。


「……ここも、ハズレかよ。何件目だと思ってんだ」


「9件目だ」


「ご親切に、どーも……オイ、オレらは、このまま別の店に行く。『ここにも、いませんでしたぁ』っつって大佐に報告しとけ」


ポーラを抱きかかえた憲兵は、先を降りる二人を目で追い、頷いている。視界を外れた階段の影から、たてがみ男の声だけが届いた。


「あぁ、めんどくせぇ……ホントに、この辺にいんのか、白雪姫サマはよ」


イヴは、狼たちが出ていっても、しばらく古時計に隠れていた。あの家主から合図があるまでじっとしておくよう言いつけられたからだ。しかし、いつになっても家主は来ない。


不安になったイヴが、外に出た頃には、もう夜は明け、暗い朝となっていた。








混乱した頭を整理しおえ、シャワールームを出る。


椅子に腰掛け、本を読んでいる後姿が見え、イヴはひどく安心した。


「キオ」


呼びかけた途端、バネ仕掛けの人形よろしく、キオが椅子から飛び上がる。持っていた本が音を立てて落ちた。


「ご、ごめん、急に呼んで」


狐に襲われたウズラのごとく、バタつくキオに、慌てて謝る。キオは、修道服の端を、無意味に手でのばしながら、こちらを振り向かず、ベッドを示した。


「そ、そこに服ありますから、適当に着てください!」


「あ、うん、ありがとう」


本当に適当に持ってきたらしい。ベッドの上に積まれた服は、季節も揃え方もバラバラだ。


キオが慌ててかき集めたのかと思うと、申し訳ないような、微笑ましいような気持ちになる。一方キオは、衣擦れの音ひとつに、どぎまぎし、間を持たせる話題を必死に考えていた。


「あ、そ、そうだ!憲兵隊が踏み込んで、連れて行ったって、なにか、その心当たりとかないですか?」


イヴは、白いセーターを着込みながら、去年のダリを思い出す。


「……北方貧民の売春婦だからじゃないのかな……でも、今までは、こんなことなかったんだよ。警察相手だと、1月中は、いても目をつぶってもらえたんだけど……」


聞き方が無遠慮だった。しかも話題が重い。


キオが、自分の失敗に頭を抱えたくなったとき、イヴが言い出した。


「――ねぇ、白雪姫って、なにか分かる?」


「白雪姫?」


「憲兵隊が言ってたんだ……『白雪姫が、ここにもいない』って。最初は、そういう名前を使ってる、お仲間のことかと思ったんだけど……」


着替え終えたイヴに、ようやく落ち着きを取り戻したキオ。白磁のポットから、熱い紅茶を注ぎ、イヴに手渡す。


「キオ、ごめんね、急にこんなところまで来ちゃって……他に頼れそうな人がいなくて……友達も、きっと、大丈夫だと思う。いくら憲兵隊が、あんなのばっかりでも、あたしたちみたいなの捕まえたって、しょうがないもん……うん」


ほとんど自分に言い聞かせるように、頷くイヴ。


まだ乾ききっていない髪が、額を隠しているからか、両手でカップを持っているからか、イヴは随分幼く見えた。紅茶をすする音だけが響くのに耐えかね、キオはそっと切り出した。


「……あの、話したくないならいいんですけど……イヴはどうして、その」


「こんなことしてるかって?」


不機嫌になるのを覚悟して尋ねたが、意外にもイヴは笑った。


「あたしさ、元々は中流市民だったの。パパが貿易商やってて、わりかしお金持ちだったんだよ。なんだろ、香辛料とかそういうの扱ってたかな」


カップに口をつけ、紅茶を一口。


「でも、うーん……小さかったし、あんまり難しいことは分からないけどさ。パパが仕事に失敗したみたい。で、あれよあれよと言う間に借金地獄。わたしも、学校辞めて働いたんだけど、追いつかなくてさ。子供なんて、ちゃんと雇ってもらえないし」


キオは、なにも言わない。


一番重要なことを、あえて聞かずにいてくれている。


「パパとママは、死んじゃったよ。いわゆる自殺」


だから、自分から話した。


「ああいうときってさ、なんにも見えなくなるんだよね。もっと方法があると思うのに、死んじゃうんだよ。だから、あたしは、すぐ目の前のことだけじゃなくて、もっと先のことも見ておくの。足元ばっか見てたら、道を間違えないかわり、どこに向かってるのか分からなくなるから」


自分らしくもなく、熱く語ってしまったのが恥ずかしいのか、なんちゃって!とイヴは締めくくった。


「もっと先のこと……音楽学校と歌劇団ですね」


「そうそう!覚えててくれたんだ。叶わないだろうけど夢とか持ってたら、なんか、まだ大丈夫っていうか、自分にも未来があるような気になるじゃない?あたしは、世界一の歌姫になります、みたいな」


昔、明日の食事の心配をしなくてよかった頃、毎年家族で、マルゴールへ出かけた。クリスマスから年越し祭へ、更に新年祭となる期間の、ほんの数日間、ペドラ・プレシオーザ歌劇団のオペラッタが上演されるからだ。


『ネリエッラ嬢の婿選び』『春の夜の夢』『奇妙な晩餐』……時間を忘れるような、華やかな演目の数々。いつか、あんなふうに舞台に立ちたいと、小さな頃から夢見ていた。まさか、そんな子供じみた夢が、今でも自分を支えているなんて、笑ってしまう。


「ねぇ、キオは?」


ベッドの隣に座っているキオに、心持ち肩を当て、顔を覗き込む。


「キオの夢は何?今じゃなくてもさ、子供の頃とか」


キオは、しばらく考えたあと、苦笑した。


「そうですねぇ……僕は昔、神様になりたかったです」


思っても見なかった答えに、イヴは目を丸くする。


「そうすれば、世界中から病気を失くして、毎日金貨を降らせようって思ってたんです」


「ステキじゃん」


そういう意味か、とイヴは微笑んだ。純粋にキオらしいと思ったから。


しかし、キオは、力なくうなだれ、首を振った。


「いえ、こんなの子供っぽい自己満足です。僕はいつも現実を見てない。知らない振りばっかりで、最後まで責任もとれないくせに、軽々しく泣いて同情して……分かってるんですよ、本当は」


ぽつんと呟く。


「僕は、なんにもできてません」


否定しようとするイヴに、キオは淋しそうに笑う。


「できませんっていうと本当にできなくなるんで、そうは言いませんけどね」


時折、無力感に押しつぶされそうになるときがある。本当にこのままで、女神様の啓示を全うできるのか不安で、眠れなくなる。自分には、どう考えても重荷で。


宙に目を向け、ぼんやりと思案していたキオが、ふいに膝を叩いた。


「切り替えましょう!」


そのまま、立ち上がる。


「な、なにが?」


「こんな、もそもそ考え込んでたって、埒あきません!」


イヴは、急に活発になったキオを、ぽかんとしたまま見つめている。


「友達を放っておけません!なんとかしましょう!」


「な、なんとかって……助けに行くってこと?そんなの……無理だよ、キオ」


肩を落としたイヴが、消え入りそうな声でつぶやく。


「強力な助っ人でもいるなら、別だけどさ」


「僕、心当りがあります」


「なにに?」


「とっても強力な助っ人に、です」


ただし、うんと言ってくれるかどうか。



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