第4楽章 霧雨のグラーヴェ
「雨、止まないねぇ」
ディーンが、窓辺で呟いた。
真冬の寒波が逆戻りしてきたような気温のなか、昨夜から霧雨が降っている。バートン山脈の麓に程近い、ルベルコンティの森は、深く冷たい雨のベールに覆われていた。
外にも遊びにいけないし、退屈だなぁ。
雨粒を数えて、気をまぎらわせていたディーンが、ふと曇った窓をこする。
「なんだろアレ」
木立の間を、ピンク色のものが行ったり来たりしている。ディーンは、座ったまま、両足の裏を叩き合わせた。
「ねぇ、キオ!幽霊がいるよ!」
湿っている洗濯物に、アイロンをあてていたキオは、眉を寄せた。
「ちょっと、怖いこと言わないでくださいよ……」
「だって、ほら、あそこにピンクのが、ひらひらしてる」
ディーンに手招きされ、覗いてみると、確かになにかがいる。ちょうど、西側の小さな門のところで、それは不安げに、あっちへひらり、こっちへひらり。
「オンナ ノ ヒト」
「おわぁああ!びっくりした!ペーズリー、また泥遊びしてきたんですか!?」
いつのまにやら、どろんこまみれのペーズリーが、部屋に戻ってきていた。じゅうたんを汚さないよう、ちゃんと新聞紙にくるまっている。
キオは、乾かしたばかりのタオルで、ペーズリーの顔を拭ってやった。
「アレ オンナ ノ コ」
もごもごとタオルの下で、ペーズリー。
「女の子の幽霊だったの!?」
わくわくと目を煌かせるディーンに、ペーズリーは首を振る。
「イキテル ブルノ サガシテル」
ブルノーを探してる女の子?
キオの頭のなかで、淡いピンクのショールが閃いた。
そんな女の子は、ひとりしかいない。
すぐさま部屋を出ると、階段を一段飛びで降り、ホールを駆け、扉を押し開く。雨でけぶる視界に、目指すものは見えないが、キオは庭園を抜け、アーチをくぐり、西門に出た。
震える後姿が、かすかに浮かび上がる。
「イヴァンナ!」
濡れた髪が張り付いた白い顔が、振り返ると、大きな目が驚きに見開かれた。
「キオ!」
そのまま、イヴはキオにすがりついた。
細い肩がガクガクと震え、冷え切った全身に、人間の温かみが伝わってくる。
「よ、よかった……キオまで、いなくなったら、あたし……」
だって、自分の大事な人は、みんないなくなってしまうから。
キオは、自分の服が湿って重くなるのもかまわず、イヴの身体をさすり、抱きしめていてくれた。キオの心音が、お湯みたいに流れ込んでくる。
「イヴ……一体、どうしたんですか」
ようやく呼吸が整ったイヴに、キオは優しく問いかける。それを聞き、彼女は、何故ここに来たか思い出した。泣き腫らした目が、キオをとらえる。
「どうしよう、キオ……みんなが、いなくなっちゃった」
再び、落ち着きをなくしそうなイヴを、キオは屋敷に連れ帰る。
このまま雨に打たれ続けていたら、自分はともかくイヴは肺病にかかるかもしれない。
ホールに入ったところで、緊張の糸が切れたのか、イヴは膝から崩れ落ちた。キオも、その場にしゃがみ、イヴと目線を合わせる。
「イヴ、いなくなったってどういうことですか?」
肌寒いホールのため、白いキオの息が、頬にかかる。
「連れて行かれて……あたし、見てるだけで、だって、なんで」
「友達が連れて行かれんたんですね?誰に?」
できるだけ、ゆっくりと確認すると、イヴは髪をかき乱した。雫がポタポタと、市松模様の大理石に、滴り落ちる。
「憲兵隊が、急に入ってきて……あ、たしだけ助かっても、なんの意味もない」
込み上げる涙を飲み込み、途切れがちになる声を、どうにか絞り出す。そのまま、また泣き出しそうなイヴに、上から声がかかった。
「あらまぁ、びしょ濡れじゃないの」
部屋から出てきたのか、階段の踊り場からアイリーンが顔をのぞかせる。
「ねぇ、とりあえず、その格好をどうにかしたら?」
確かに冷たい床だと、凍えるばかり。
キオは躊躇したのち、自分の部屋へ、イヴを案内した。
普段シャワーは、各部屋にあるものを使っている。別にキオの部屋でなくても、よかったのだが、殺人鬼の部屋以外はまだ綺麗にしていないし、湯が出るかどうかも確かめていないため、一番近い自分の部屋を使おうと思っただけだ。
それ以上の計算は出来ない、まだまだ子供のキオである。
ちなみに、屋敷のどこかに大浴場があるはずなのだが、まだ見つかっていない。
戸の閉まる音を確認し、アイリーンが背後の暗がりに囁いた。
「さて、どう思う?」
現れたのは、ディーンとジル。ホールの騒ぎを聞きつけ、身を潜めたまま様子を伺っていたのである。先ほどまで、キオの友人として笑顔だったアイリーンは、冷めた表情で、ふたりを見返した。
「あの女の子、おかしいよ」
ディーンが、彼らしくない厳しさでもって、切り捨てた。
「トモダチが、ケンペータイに連れて行かれただけじゃん。なにを大騒ぎしてるんだろ」
憲兵隊がなにか、いまいち分かっていない発音だが、彼にしては珍しいほど不愉快を露にしている。ジルが、髪を指先で弄びつつ、手すりに頬杖をついた。
「そもそも、憲兵隊が、たかだか売春婦の取り締まりに、本気になるわけがない。あの娘の仲間を連れて行ったのも、なにか他に目的があるんだろう。どうせマトモなトモダチではないだろうしな」
「でも、取り締まりの目的が、アタシたちってことはない?フランチャコルタの連中は覚えてるかもしれないわ。修道服の子供と、猟奇殺人鬼が関係者だったって。だから、キオと一緒にいた、あのコが、目を付けられたとか」
「あの売春婦とキオが一緒にいて、それを憲兵隊に見られたのは、こっちの知る限り、私が迎えに行ったときだけだ。あの夜、キオは修道服じゃなかったんだぞ。フランチャコルタの修道士とは結びつかないさ。それに、憲兵隊がこっちの動向を知っているとは限らない」
猟奇殺人鬼の中で、最後に単独事件を起こしたのは、リジーとグランだろう。ギルシアに来る客船での騒動のことだ。しかし、被害者は一命を取り留めたというし、なにより殺害(未遂)方法がきわめて雑だ。姿を見られていないなら、リジーとグランがギルシアに入っていることさえ、憲兵隊は把握していないはずである。もちろん、猟奇殺人鬼が6人、勢ぞろいしていることも。
「猟奇殺人鬼が潜伏していると考えているなら、あんなおおっぴらに街を歩いたりしない。警棒だけで、捕まえられる相手じゃないことくらい、いくら連中でも分かるはずだ」
「そうね、フランチャコルタの話で、アンタから辿られたなら、ここへ踏み込んでくるはずだし、なんらかの情報筋で潜伏先がダリ近辺だと知れたなら、もう少し注意するはず。あのコが囮かと思ったんだけど無理があるわね……取り締まりは、アタシたちと無関係か」
しかし、ただの取り締まりにしては、今年に限って、突然すぎるし、横暴。
猟奇殺人鬼が潜伏しているのを見越した、警戒でもないようだ。
憲兵隊のお楽しみを、先日邪魔した意趣返し?それはないか。
「なんにせよ、面倒ごとはごめんだ」
「右に同じ」
「ひょっとしたら、キオが好きだから、嘘ついてるんじゃない?ケンペータイに連れて行かれたって言ったら、キオが優しくしてくれるし」
キオが聞いたら、間違いなく怒るようなことを、3人は淡々と話しているが、彼らに自覚はない。
「なんだか、騒がしいね」
リジーが、アイリーンたちのいる、更に上の踊り場から身を乗り出す。勝手に自分の部屋を3階に移動させていたようだ。今まで眠っていたのか、髪が盛大にはねている。
ジルが、簡単に説明すると、リジーはニヤニヤ笑った。
「はいはい、前ジルが言ってたコね。売春婦だけあって、男に媚びるのが上手いね。部屋にいても丸聞こえだったよ。あの甲高い、哀れっぽい声……ねぇ、キオが出てきたら、なんて言うか当ててあげようか?」
「やめてよ、ムカつくから」
アイリーンが、心底忌々しそうに、リジーを見上げる。
キオがなんて言うか?そんなこと掌にとるように分かる。キオは、あの女と、そのオトモダチを見捨てるなんてできないに違いない。
「あんなの放っておけばいいのに」
ディーンが、拗ねたように呟く。
自分の世界に、「獲物」としてではなく、「他者」として入ってきた人間には、愛着を示すくせに、それ以外の人間に対しての、この冷淡さ。この、他人への理解の欠如。感受性があり、共感意識の高い殺人鬼は、この世にいない。
自分の世界しか見ていない人間は、自分の世界に歩み寄る人間を愛する。キオのような。
だが、イヴは違う。アレは、知らない人間だ。自分たちに歩み寄らない方の「他者」だ。つまり分類では「獲物」に入る。
ようは、キオを取られてしまって、みんな面白くないと感じているのだ。
「あのさぁ……」
ディーンが、手すりに顎を乗せたまま、鼻をすする。
「キオが、オイラ達と一緒にいるのは、女神の呪いのせいだよね。もし、いいことして呪いが消えちゃったら……キオ、いなくなっちゃうのかな」
殺人鬼になってから、他人に愛されることを「獲物狩り」の一端としか感じなかった彼らは、今始めて、唯一の理解者を失う不安を抱えた。
本人たちも、気付かないほど、かすかに。