第4楽章 街道のアダージョ
司祭に宛てた手紙を投函した帰り、キオはぶらぶら小道を巡っていた。
家を空けていても心配はない。もう以前のようにつきっきりで見張っていなくとも、猟奇殺人鬼たちはおとなしくしているからだ。
ぶっ倒れてから、3日後。
今日になって、ようやくキオは部屋から出してもらえた。本当のところ、翌日には全快していたと思うのだが、せっかくだからゆっくりしろと、みんなから言われ、その厚意に甘えさせてもらっていたのである。
終始、なにかを引っくり返す音や、騒ぐ声が聞こえるものだから、あまりゆっくりとは出来なかったが、それでも至れり尽くせりの看護だったわけで、改めて風邪の効果を思い知った。
「あんなに心配してもらえるなんて、なんか感激だなぁ……」
アイリーンは、いろいろと世話を焼いてくれたし、ディーンやリジーでさえ、極力廊下をバタバタ走らないよう気をつけていたらしい。去年なら考えられないことだ。なんだか、忘れがちになる愛情教示任務も、すんなりとクリアできそうな気がしてくる。
「僕も、受け入れられてるってことなのか、な……」
もし、そうなら。
「……嬉しいな」
キオは、花屋で立ち止まったり、ガラス細工のショーケースを眺めたり、革表紙の本が積まれた古書店を覗いたりと、久しぶりにゆったりした気分を味わっていた。
どこかから、パンの焼ける匂いがする。今は、昼過ぎの時間帯。きっと、昼食の分を売り切った店主が、焼きたてのパンを並べているのに違いない。
「みんなのお土産にしようかな」
匂いを追って、キオはパンの看板が下がる店に入っていった。
「あぁ、おなかすいたぁ」
イヴは疲れきった足を引きずり、路地を徘徊していた。
昨日から、お酒しか飲んでいない。
こうばしい匂いに誘われ、思わずウィンドウに張り付くと、焼きたてのパンがほんわりと湯気をあげ、トレイに順序良く乗せられているのが見えた。つい、いつもの癖で、一番いいやつを探す。安くて、おなかに溜まりそうなやつを。
ハムと卵がたっぷり挟まれたパンに、うっとり目を注いでいて、店内にいた客と目が合った。
「あ」
寝癖のついた茶色い頭、先が尖った鼻とそばかす、人の良さそうな、悪く言えば少しとろそうな顔。向こうも口を「あ」の形に開いている。
「あのときのトイレットペーパー修道……え、なに?」
なにか話しかけてきているようだが、ガラスに遮られて、全く聞こえない。修道士は「ちょっと、そこで待っててください」というジェスチャーをし、会計に向かった。
濃い化粧が落ちているため、分からなかった。
会ってどうする、ということなど考えていないキオは、なんとはなしに浮かれている自分に、気がついていない。
「あんな格好してるから、修道士かと思ったけど、どっかの使用人だったのか」
並んで歩く少女は、昼間見るからだろうか、はじめて会ったときよりも、柔らかい印象を受けた。口調もくだけているが、乱暴ではない。
「あ、そっか。使用人に見えるんですね」
今のキオは、濃いブラウンのピーコートに、同系色でまとめたチェックのズボン。
安い品物でもないと思うが、言われてみると少し背伸びした使用人に見えなくもない。無論、どちらもジルの衣裳部屋から引っ張り出してきたもの。修道服は少しも暖かくない!風邪がぶり返す!というアイリーンの文句とともに用意された服である。
自分の背丈にあうということは、ジルの子供の頃の服だろうか。
きゅうぅ、と小動物の鳴き声にも似た音がして、キオは顔をあげた。
「よければ、食べる?」
紙袋に入ったパンを示すと、少女の目は輝き……しかし、すぐにすねたような顔に戻る。
「かわいそーだから、恵んでくれるってことかよ。パン買う金くらいあるぞ」
「そうじゃなくて……僕も、日当たりがいいとこで、食べようと思ってたから、一緒にどうかなって。ピクニック日和だし」
へら、とキオが笑うと、彼女は、うむぅと唸った。
昼代が、まるまる浮くという誘いは、非常に魅力的である。
「……ホントにいいの?」
「どうせ、持って帰るまでに冷めちゃいますから。それだったら、今焼きたてを食べたほうがいいし」
悪意のない顔。
イヴはお言葉に甘え、ご馳走になることにした。
歩きながら食べるのは、行儀が悪い。ふたりは、パン屋前のベンチに腰を下ろした。まだ熱いパンを裂き、籠に盛られて売っていたバターをのせ、かぶりつく。
「んん〜ん、おいしぃ」
少女は、一心にパンを頬張り続けている。ひとつ、ふたつと食べ進め、それでも速度が落ちない。すごいなぁ、と見ているキオに気付き、少女が開けていた大口を閉じる。
ちょっと咳払いして、それでさ、と切り出した。
「あんた、どこに住んでんの?」
「えぇと、ルベルコンティです。ブルノーさんて、お屋敷の」
「ルベルコンティ!すごいじゃん!あんたの主人って、偉い貴族なの?」
「偉いのかなぁ……」
キオの脳裏に、セーラー服を嬉々として、プレゼントしてくるジルが浮かぶ。
「貴族って好きじゃないけどね。メイドとかも感じ悪いんだよな。使用人のくせに澄ましてて……まぁ、あんたはそんなことないけど」
ぼそっと言われ、キオはほんの少し頬を赤らめた。よく考えたら、同年代の女の子と二人で話したことなんて、これまでなかったかもしれない。アイリーンやリジーと話すような感じでいいんだろうか。
手についたパンくずを払い落としながら、イヴが立ち上がる。
「なぁ、あんた、今からヒマ?せっかく、こんな都会に来たから、少し遊んでみたいんだけど、こっちで知り合いっていないんだ……よかったら、案内してよ」
「うえぇ!?」
これは、大変だ。意識した途端に、こんな申し出なんて。
「なに、イヤなの?」
憮然とした顔を近づけてくる少女に、キオはぶんぶんと首を振った。
「違います、イヤじゃないです!あんまり詳しくはないですけど、僕でよかったら。えーと……」
「イヴァンナ・キール」
言いながら手を差し伸べられ、キオはその手をそっと取って立った。
「イヴァンナさんですね。僕は、キオです」
もう知ってる、と言いそうになったのを、イヴは慌てて押し留めた。
買い物以外でダリを回ったことのないキオは、とりあえずイヴを「水の広場」へ案内した。
ダリの中心にほど近いここは、毎日のように大道芸人がいるし、周辺にお洒落な店も多い。
はっきり言って、案内できそうな場所を、ここしか知らなかったキオ。若い女の子がどういう場所に興味を持つのか、ジルに聞いておけばよかったと、キオは少し後悔した。
噴水近くでは、若い画家たちが絵筆を走らせていた。修行中の芸術家たちが、絵を並べ、簡易美術展を開いているのだ。絵を眺めていると、影絵きりが寄ってきて、ふたりの影絵を切り始めた。昼間は、いつも眠ってばかりで、外を見て回る機会がなかったイヴは、いちいち面白がっている。
それを横目に、キオはほっと一息ついた。
小物を売る店で1時間近くも迷ったすえ、結局なにも買わなかったイヴとともに、キオは適当なカフェに入った。自分で払うと言いはるイヴが、硬貨を出すのを手伝い、テーブル席に腰を落ち着ける。
メロンソーダにのったバニラアイスを、慎重に崩しながら、イヴは買うのを悩んだぬいぐるみの可愛さについて話している。当初の大人びた影が薄れ、年相応のなつっこさが、見え隠れしており、キオはなんとなく安心した。
「ん、この歌知ってる」
と、唐突に、イヴ。
店の雰囲気と合わせた古い蓄音機から、細く、透き通るような声が、ピアノ伴奏と共に流れている。
「ラウンドの、なんとかって歌姫なんだよ」
あまり歌に詳しくないキオも、綺麗な曲だな、ということくらい分かる。でも、口に出すと、なにやらキザったらしい感じがするので、キオはふぅんとだけ言っておいた。
「あたし、いつかラウンドの音楽学校に入るんだ。で、歌を勉強して、歌劇団に入るの」
いつか、だけどね。
イヴは、そのまま目を閉じて、しばらく音の波に酔った。
広場のオルゴール時計が、5つの鐘を打ち、「雨降りドランジャック」を演奏する。
キオは「あ」と声に出し、一気にココアを飲みほした。
「なに、どうしたの」
教会寄宿舎での門限は5時。キオは律儀に、それを守り続けており、ここでもまた守ろうとしていたのである。キオの答えに「今時門限が5時って!」と、ひとしきり笑ったイヴは、強く引きとめもせず「近くまで、送ってく」と席を立った。
そして、ルベルコンティに続くレイニー街道まで、二人は並んで歩いた。普通は、男性が女性を送り届けるものだが、キオは、そこまで頭が回らない。口数少なく、微妙な距離を開け、ゆっくり歩く二人を、ガス灯がやんわりと照らす。
従来の四角いガス灯が、名の知れた建築家によりデザインされた球体のものに変わるあたりが、ダリと街道の境目だ。
じゃあ、このへんで、とキオが振り向くと、イヴが言いにくそうに、つぶやいた。
「……あ、あのさ、前にマフラー借りたでしょ?そのマフラーさ、今度返すってことでいい……?つまり、次会ったときってこと、だけど……」
言い終えると、照れ隠しのように、ふわふわした赤毛の頭を引っ掻き回す。
また会いたい、という彼女なりの表現なのだ。
「え!?あ、いつでも……どうぞ」
その真意を受け取ったのか、受け取り損ねたのか、いまいち分からないが、キオは笑顔で応じた。
イヴは、一瞬顔を上げ、すぐ俯く。
「うん、じゃあ!また、な!」
やけに大ぶりの動作で手を上げると、なぜか全力疾走で、走っていくイヴ。
それをポカンと目で追っていると、背中はすごい勢いで角を曲がっていってしまった。
なんだか、出会ってから、イヴの背中ばっかり見てる気がするなぁ。
知らず口元が綻ぶ。
さて、帰ったら聖典の宿題を見なくちゃ、と大きく息を吸い、そのままルベルコンティへ歩き出し――。
背後で、少女の悲鳴が聞こえた。