第1楽章 ある修道士の災難
「本当に、ここで、あってるのかな……」
ルベルコンティの森は、立ち入る人間を拒む静かな沈黙をもって、キオを迎えた。
どこからともなく薄い霧が流れてきており、周囲は奇妙な静けさに包まれている。
鳥の声もなく、ただただ濡れた空気が、ときおり木々の枝を揺するばかりだ。
キオは、足元の枯れた雑草を踏み分けながら、目的地への石畳を見つけ、それをたどっている途中だった。
歩きながら、今朝早く教会に届いた手紙を開く。
そこには流麗な筆記で、青の教会に修道士の派遣を頼む旨と、派遣を願う場所が書かれている。
指定されたのは、教会のあるデュッセルオーヴの街から、バスで1時間程度。
バートン山脈にほど近い、ルベルコンティと呼ばれる地域のさるお屋敷だった。
場所があっていることを確認したキオは、手紙を裏返す。
封蝋には、ブルノー家の印章が写っている。
ブルノー家とは、たいていの平民でも聞き覚えがある大貴族ロゼの流れをくむ一族らしい。そんな貴族が、なんでよりにもよって猟奇殺人鬼と関係あるのか分からない。
「女神様も、もうちょっと分かりやすい指示をくれればいいのに……」
結局、昨日の啓示で分かったことといえば、手紙の差出人が猟奇殺人鬼の関係者、あるいは猟奇殺人鬼本人であるということと、導き手としてその人をサポートするということだけ。
「いざとなったら助けてやりますから」と言い残し、女神は一方的に消えてしまった。
「名前とか、理由とか、肝心なことが全然分からないままじゃ準備のしようがないよ」
不平をたらしつつも、ちゃんと言うとおりにしてしまう、真面目な性質が悔しい。
さて、ぼやきぼやき、一体どれくらい歩いたものか。
開け放してあった屋敷の門扉を抜け、ほとんど森と変わらないほど荒れ果てた庭園の奥に、ようやく、お屋敷の正面扉が見えてきた。
ずいぶん長い間放置されていたのか、手入れが行き届いていないが、それをさしひいても気後れしてしまうほど立派なお屋敷だ。
ふと目をやった先、薄汚れた石壁に、木々の影が不気味に映り込んでいた。まるで、屋敷全体が、巨大な悪魔の指に包まれているよう。
キオは少し身震いした。
「ムダに大きくて、怪しいなぁ……」
階段を上がった先に構えている、樫の扉は重厚そうで、純金らしいドアノッカーがついていた。
普段なら「あのノッカーひとつで、どれくらいのお値段が」などと考えるだろうが、今はそんな余裕がないキオ。
ここで猟奇殺人鬼に出会うという運命を知っているからか、屋敷全体が非常に恐ろしげに見えて仕方ない。
キオは、恐る恐るドアノッカーをつかみ、意を決して、打ち鳴らした。
しばらく待ってみたものの、反応はない。
「……いないのかな……」
すぐにでも帰りたいが、啓示を無視するわけにもいかない。
キオは、気合を入れ、しかし逃げ腰気味に、扉を細く開いた。
「すいませーん……」
驚くほど広いホールに、弱々しい声が響く。
目だけで様子を窺うと、シャンデリアや調度品に埃除けの布がかけてあるのが見え、本当にこんなところに人が住んでいるのか、とキオはいぶかった。
荒れきった外観もあわせ、まるで廃墟のようだ。
あらゆるものがうっすら埃を被り、湿った冷たい空気が頬を撫でていく。
やっぱり帰ろう、キオが、そう心に決めた矢先。
「あら、なにかご用?」
いきなり至近距離から声をかけられ、哀れな少年は文字通り飛び上がった。
振り返ったキオの背後にいたのは、少なくとも教会では絶対にお目にかかれないような美女だった。
緩く波打つ灰色とも銀色ともつかない髪が、なまめかしい褐色の肌をひきたたせており、露出度の高い服からは、肉感的な胸元やら足やらが、ちらちら見え隠れしている。
女性に免疫のないキオは、それらから慌てて目をそらした。
「えっと、ぼ、僕は、怪しい者では……教会から派遣された修道士で、まだ見習いですけど……その、手紙でこのお屋敷に来るようにって……」
美女は、唇の端に微笑を浮かべた。
「まぁ、ずいぶん可愛らしい修道士さんね。ここに用があるなら、わたしも一緒に声をかけてあげるわ」
外が寒かったからか、女性が入れてくれた紅茶は、キオの緊張をとくのに随分役立ってくれた。
約束の時刻はとうに過ぎたが、屋敷の主ブルノーはいまだ現れない。
でも、こんなキレイな人と一緒だからいいか、なんて本来の目的を忘れかけているキオである。
「あの……ネルソンさんは……」
「イヤだわ、ネルソンさんだなんて。アタシのことは、アイリーンって呼んで」
いちいち、キオの少年心をくすぐってくれる女性である。
潤んだ漆黒の瞳に見つめられ、キオは頬を染め、俯いた。
「えーと……アイリーンさんは、ブルノーさんとはどういう、その……ご関係ですか?」
「彼とは、オトモダチ。同業者なのよ」
少々不躾な質問にも、アイリーンは快く答える。友達なら、ブルノー家を勝手知ったるとばかりに歩いていてもおかしくない。キオは、邪推した己をこっそり恥じた。
「同業者さんですか……アイリーンさんは、どういう仕事をしてらっしゃるんですか?」
アイリーンの灰色の瞳が、いたずらっぽく光る。
「屠殺業みたいなものかしら」
とさつぎょう……こんなにキレイな人が……。
「と、屠殺業って……あの、食用の動物とか殺すやつですよね?豚とか牛とか」
「そうよ。意外?」
えぇ、ものすごく。
「じゃあ、ブルノーさんも、そういう副業を……?」
「さぁ、彼の場合は農場じゃないかしら?メスばかり飼ってるみたいだけどね」
「へぇ……」
乳牛の農場とかかな。
紅茶のカップに口をつけつつ考えていたキオは、ふいに「あ」とつぶやいた。
アイリーンの登場ですっかり忘れていた、青の女神の言っていたことを思い出したのである。
手紙の指定場所で出会う人間が、自分の導く相手であり、猟奇殺人鬼。
キオは、ようやく、その意味がわかった。
女神様は、たとえを使ったのか。
つまり、キオは、青の女神が動物を殺す『屠殺』のことを『猟奇殺人』になぞらえたのだと受け取ったのだ。聖典には、ややこしい例えや詩的な表現がたくさんある。
それと同じ要領で『猟奇殺人』というのは、女神なりの『例え』だったのか、と理解したのだ。
だから、次にキオがつぶやいた言葉に全く他意はなかった。
アイリーンに聞かせるつもりもなかったし、ただ単に自分の心配が杞憂に終わってよかったという安堵からきた独り言だった。
「あぁ、なるほど……それで、猟奇殺人鬼ってことですか」
たっぷり数分の間があった。
「……なんですって……?」
アイリーンから笑顔が消えている。
キオは、自分の無神経な一言が彼女に聞こえたのだと、慌てて弁解した。
「あ、いえ、すいません!屠殺業を猟奇殺人鬼になぞらえた人がいたものですから……!別にあなたのことを猟奇殺人鬼だと思ったわけじゃなくて……」
僕の勘違いなんです、という前に、アイリーンの怒声が飛んだ。
アイリーンの手から落ちたカップが、高い音をたてて砕け散る。
「ジルぅぅうう!さっさと地下室から出てらっしゃい、この変態殺人鬼!アンタ、まさか手紙で『ちなみに、私の職業は、猟奇殺人鬼です★』とか名乗ったの!?」
「……そんなわけないだろう」
気づかぬうちに、客間の入り口に金髪の男が立っていた。
均整のとれた長身、いかにも女性に好まれそうな甘い風貌。
髪をかきあげる仕草も様になる、立ち振る舞いの洗練された美丈夫である。
だが、柔らかな物腰とは対照的に、退廃的とも厭世的ともつかない、どこか酷薄な印象を受ける。
彼の薄い唇や、人を見下すような碧眼のせいだろうか。
場の展開についていきそびれたキオは、「あ、この人がブルノーさんかな」と妙に冷静に思った。
男は、アイリーンの敵意のこもった視線を軽く受け流し、物分りの悪い子供に言い聞かせるよう囁く。
「私は、青の教会から誰か人をよこしてくれと書いただけだよ、アイリーン」
「じゃあ、なんでこの修道士が、こんなこと知ってるのよ!」
男の柳眉が吊り上がる。
「こんなことって?」
アイリーンは、男の胸倉を掴まえ、低く続けた。
「アタシたちが、猟奇殺人鬼だってこと」
アイリーンと男が、キオを見る。
キオもまた、ふたりを見た。
「……え……?」
キオの間抜けな声が、静寂のなかにポトンと落ちた。