第3楽章 灰かぶりの夜想曲2番
アタシを 愛してる?
どれくらい 愛してる?
殺されてもいいくらい 愛してる?
――なら 本望でしょう?
宗教は、キライだ。
キリエ共和国の国教、マーロ・ステプト教は、カラード教の大元と同じ流れだが、ひどく戒律の厳しい宗教だった。
男尊女卑をそのまま形にしたような教えで、女は夕方を過ぎると外に出ることもできなかった。女はキャンダと呼ばれる衣服で目元以外を覆い隠し、一生肌を人目に晒さず生活する。
原則的に、女は結婚するまでは親のもの、結婚してからは夫のもの。妻に求められるのは、貞節と従属。連れ合いを亡くした妻は、夫の火葬が行われる際、その炎で殉死すべきだと奨励されていたのは、まだほんの数十年前の話だ。
そして、結婚するまでの姦通罪はご法度で、男は罰金ですむにも関わらず、女は生き埋めにされるのが掟。
生き埋めは、見届け人のみで行われる。相手の男や、親族は来ない。生き埋めは、汚らわしい罰なため、邪気に触れないよう、人は極力遠ざけられる。
長い梯子を降りた先、深い穴の中に小さな部屋がある。粗末なベッドとテーブルだけの部屋には、少しのパンや水、牛乳、ランプが備えてある。
その部屋に、女を閉じ込めて土を被せる。元通りに。
そして、数週間たつと、見届け人が女の死体を確認しにやってくるのだ。
アイリーン・ネルソンは、見届け人を殺し、外界に出た。
死臭のしない空気の甘さに、頭の奥がじんとしびれる。飢えでこけた頬に、豊かな灰髪がかかる。かつての艶のある黒髪は、もう一筋もない。
深い深い蒼闇。
初めて体感した夜の気配。
生きているうちは見ることがないと思っていた、反転世界。
彼女は、穏やかな表情で、夜空を流れる雲や、風の感触を楽しんだあと、穴から持ってきた見届け人のシャベルを抱えあげた。
それから、裏切り者の家へ、歩いていく。
ゆっくり。
ひどく、ゆっくりと。
アイリーンが、顔を上げると、深い緑色の瞳とかちあった。
「……なによ……?」
ペーズリー・ハワード・ゲインがテーブルから顔を半分出している。
相変わらず不審な奴だわ。
夕飯のメニューを考えていたアイリーンは、ペーズリーの目を見返した。
テーブルに乗ったペーズリーの手は、清潔だ。彼は風呂が大嫌いだが、今日は身綺麗にされている。おそらくキオの説得が功を奏したのだろう。長かった爪は切りそろえられ、髪にも櫛が入っている。
「……アンタも料理やりたいの?」
ペーズリーは、じっとアイリーンを見つめるばかり。
「やりたいなら、手を洗ってちょうだい」
ペーズリーは、黙って手を洗った。どうやら、手伝いたいらしい。
アイリーンは、茹でておいたエビをボールに移し、ペーズリーの前に置いた。
「じゃ、とりあえず殻剥いてくれる?」
ペーズリーは、用心深くエビの触覚をつまみあげ、テーブルの上にそろりと置いた。それから、勝手口へ出て行く。アイリーンは、不審に思いながらも、無言でペーズリーが帰ってくるのを待った。数分後、勝手口から、長い棒のようなものが現れた。
高枝切りバサミである。
「ちょっと、ちょっと!ペーズリー、何する気!?」
「タカエダキリバサミ」
「見たら分かるわい!エビの殻は、手で剥くのよ!」
「テ コワイ チクチク コワイ」
エビの触覚が嫌なのか。エビの殻剥きではなく他のことをやらせようと、今度は、ふかしジャガイモを与えた。
「それ、スプーンでつぶして。かなづちはいらないからね」
結構気に入ったのか、ペーズリーはジャガイモを一心につぶしはじめた。なんとなく目をやる。こちらをチラリと見たペーズリーに、ふと、違和感を感じた。
ここのところ、いつも頭を掠めるペーズリーの違和感。
なんなのかは、分からない。
エビの足をちぎりながら、アイリーンは考えを巡らせた。
そういえば、こいつは、アタシのことを覚えているんだろうか。
12番目の恋人と、シオウルに婚前旅行したときだ。初秋の頃だった。
その日は運悪く通り雨がきて、あちこちの道がぬかるんでいた。
アイリーンは、自動車の荷台から恋人を降ろし、雨の匂いを嗅いだ。
彼女のやってきたのは、第三次世界大戦犠牲者の身元不明人が埋葬された、共同墓地である。湿った土の匂いと、ひやりと滑る空気に、アイリーンは表情を和らげた。
自分の背ほどもある十字架や、膝にも届かない墓石の間を歩いていると、腰のあたりに、形容のしがたい震えが走る。
恐怖ではない……快感だ。
しばらく歩いていて、アイリーンは、不快そうに眉を寄せた。
誰かが、いる。
3ブロックほど離れた墓の前に、誰かがしゃがみこんでいる。
名も知らない死体が埋葬された地で、恋人との最後の語らいを、ゆっくり楽しもうと思っていたのに。
アイリーンは、忌々しげに舌打ちした。
自分を支配していた男が冷たくなる瞬間よりも、それをゆっくり片付ける――埋める作業のほうが、アイリーンは好きだった。
優しく愛撫し、思い出を語り、時折泣いたりもする。まるで、その恋人を本当に愛していたかのように。無論、泣くのは自分に酔え、気持ちがいいからだが。
そのお楽しみを邪魔するのは、誰かしら?
「……浮浪者?」
少なくとも、アイリーンにはそう見えた。
ツギだらけの服も、長い前髪のはりついた顔も泥にまみれており、ひどく汚らしい。近寄るだけで臭ってきそうな風体だ。
土の上にしゃがみこんだままの浮浪者は、土を掘る手を休め、じっとこちらを見つめている。正確には、アイリーンの足元のあたりを見ている。
まばたきもせずに。
死体を持った女が現れたというのに、こいつは慌てもしない。
浮浪者の目が、12番目の恋人に注がれる。脇腹から背中にかけて抉られた、内臓のない哀れな恋人。恋人からは、すでに好きな部位を取り除いている。灰漬け保存できないのは残念だが、持ち帰るのも面倒だったのだ。
浮浪者を観察していたアイリーンは、灰色の髪をかきあげた。
「これが、欲しいの?」
死体の腕を掴み、ぐっと持ち上げる。
視線は足元に落ちたままだが、相手に、かすかな反応があった。
「あげてもいいけど」
もう美味しいとこないわよ?
アイリーンが、死体を足で転がすと、浮浪者はさっと飛びついた。近づいたのを見計らいそいつの髪を掴む。強引に上向かせると、グ、と喉の奥で呻き声があがった。
「お話するときは相手の目を見ろって、ママに教わらなかった?」
相手はこっちを見なかった。不自然に瞳をそらせ、しかし大して抵抗もせずにいる。肩のあたりが微妙にゆらいでいた。
こいつ、病気?
アイリーンが、泥でぬめる髪から手を離すと、浮浪者は何事もなかったかのように、しゃがみこんだ。そのまま、死体を掴み、墓地の背後にそびえる森へ向かっていく。
死体を引きずった泥の道に深く、長靴の足跡が残っていた。
それが、ペーズリー・ハワード・ゲインだと、そのときは思い浮かばなかった。
もし、死体を持っていなければ、自分が殺されていただろう、ということに気付いたのも正体を知った後だった。
「オイシイ」
気がつくと、ボールの中のジャガイモは、すべて食べられていた。
「……それ、なんにも味ついてなかったでしょ」
「デモ オイシイ」
ペーズリーは、スプーンをなめている。仮面を被っていても、満足げだと分かる。
ポテトサラダ一品減ったくらい、いいか。
「ツギ コレ タベタイ」
ペーズリーが、こちらを見上げ、剥き終わったエビを指す。
「ペーズリー」
アイリーンは、思わず呼びかけていた。
その瞬間、違和感の正体に気付いたからだ。
ペーズリー・ハワード・ゲインが、生きた人間の目を見て、話をしている。
ペーズリーは、今まで話し手の目を見なかった。自分の世界と死体にしか興味がなかったからだ。なのに、今、ペーズリーはスプーンをくわえたまま、こちらを見ている。呼びかけたアイリーンが何か言うのを待っているのだ。
「アイリーン エビ チョウダイ」
しびれを切らしたペーズリーが、スプーンでテーブルを軽く叩く。
アイリーンは、ふっと笑った。いつもの相手を小馬鹿にしたような、鼻先でのせせら笑いではない、柔らかな笑い方。キオに習った笑い方。
彼女は、ペーズリーの額を、ちょんと突いた。
「夕飯まで、待ってなさい」