葛藤
「少年、逃げろ」
「でも」
「その腕でまともに闘って、勝てるわけがない」
確かに、こんな腕じゃ、痛みが伴って勝てる確率はほぼ零に近い。
「僕がやる」
「分かりました」
素直に翔平さんに委ねる。考えれば、こいつを吹っ飛ばせばいいんだ――とりあえず。
しかし。
翔平さんは呆気なく、地に膝をつく。
「あぐぅぅぅぅぅうう」
ゴリラの拳が見事、翔平さんの腹に直撃した。しかも、それを腹から離す気はないようで、
「あああああああっ!」
更に捻じ込む。
「やめろ! やめろ!」
俺は叫んでいた。
『少年は大したことないなぁ? 現にお前を助けに来ないぞ』
「少年逃げ! あああいいいいっ!」
「やめろ! やめろ!」
俺が近づこうとした刹那。
上から何かが降ってきて、ゴリラを蹴った。
ゴリラは目の前に伸びる道路に沿うように吹っ飛んでいく。
暗闇から現れたのは――。
「五十嵐!」
※
「いや、ゴリラを探してたら、翔の姿が偶々目に留まってね」
「本当に助かった。有難う」
「君はそこの倒れている人の看病をしてやれよ。僕はゴリラを追いかけなきゃ」
「そうだな。治ったらすぐに行く」
「すぐに来てくれよ」
五十嵐が遠ざかっていく。
「翔? ふぇぇぇ。怖いよぉぉぉぉ」
上空から声が聞こえる。
「あ、リン! ここだ! ここ」
「あ、翔ぉぉぉぉ。会いたかったぁ」
「おい! 待て、抱き着くな。腕が折れてんだ――どうすれば――うぐっ」
唇に暖かい感触。
マジかよ。
「これで大丈夫だ。正式な付人じゃないから、完璧に治せたかは自信ないけど」
「いや、治せてるよ」
腕を回す。
痛くない。
「この人も頼めるか?」
翔平さんに目を向ける。
「え? 翔はいいのか? 私の唇が――」
「は? 何言ってんだ?」
「ふん、なんでもない――分かったよ」
「いや、大丈夫だ。ゲホゲホ――自分で呼べる」
「大丈夫ですか?」
「ああ。何とか。ゲホゲホ――マイハニー!」
へ?
今、なんて言った。
「はーい♡」
「早いじゃないか」
「翔平ちゃんのために駆け付ける。それがお嫁さんとしての役ですから」
目の前に現れたのは、口紅をばっちりつけて、可愛らしい女性服を着こんだ巨大な男だった。
「ちょっと待ってくれ。マイハニー。キスというのは心の準備が必要だろう?」
「――あ? 俺のキスがいらねえってのか」
「いや、そういうことじゃなくてな! キス一つ一つ大切にしていきたないだろ?」
「ああ、そういうことね! もぅ、ダーリンたらぁ」
※
リンと例の男が帰るのを見届けた途端、
「おえええええええええっ」
翔平さんは溜め込んできた言葉を吐き出すように、大声を上げた。
「なんか、色々大変そうですね」
「ああ、あれは嫌いになることはあっても、慣れることはない」
「でも、こんなところでモタモタしてられませんよ」
「そうだな。さっきの少年のところに早く向かわなくては」
※
「はぁっ! はぁはぁはぁ」
『もう、終わりか? もう倒れるか?』
五十嵐は力のないパンチをゴリラに繰り出している。
ゴリラはそれを軽々と躱して、高笑いする。
笑うゴリラに対して、五十嵐は汗だくであった。
『遅いぜよ。遅いぜよ』
「少年、行くぞ」
「はい」
翔平さんが駆けだす。
俺もついて行こうとしたその時、翔平さんの次の行動に驚愕した。
なんと、翔平さんはゴリラを飛び越えたのである。
翔平さんが丁度、月と重なった。
そういうことか。
意図を理解した俺は、ゴリラに向かって走る。
『ウホッ?』
ゴリラの目は翔平さんに釘付けだ。
「五十嵐伏せろおおおおお!」
俺の言葉に五十嵐は崩れるように、地面に尻餅をついた。
『ウホォ!』
今更、気づいたって遅せえよ。
俺の拳はゴリラの顔の真ん前にある。
「死ねええええええ!」
顔面に拳が直撃し、ゴリラは面白いほどに吹っ飛んだ。
そして、道路の先の暗闇に消えた。
「少年、僕は先に向かう。その少年Bを起こしたら、早く来てくれ」
「はい、分かりました」
翔平さんは眼鏡をくいっと上げると、走り出した。
「五十嵐、大丈夫か?」
「はぁはぁ、特に外傷はないから――はぁはぁ、休めば大丈夫」
「お前の神呼ばなくて大丈夫か?」
「あ、ああ」
「立てるか」
「有難う。情けないよ」
肩を貸して、五十嵐を立ち上がらせる。
「ここで暫く休んでてもいいんだぞ」
「これぐらい、大丈夫だよ」
まあ、本人がこれ程、言うのだから、無理に止める権限は俺にない。
※
「ぐが! あが!」
苦しそうな声。
嘘だろ?
駆け付けると、翔平さんは小さな空き地で闘っていた。
「ああ! あああああっ!」
翔平さんの割れた眼鏡は血に染まっている。翔平さんの叫び声があちこちから聞こえる破壊音に混じった。
翔平さんの両腕はなかった。
『来るのが遅かったな』
ゴリラが不適に笑う。
「翔平さん!」
「少し来るのが遅いんじゃないのか?」
語尾が薄れていって、翔平さんが地面に崩れた。
微量の血が舞い上がる。
『次はなんだ? 弱小チームか?』
「こいつを倒して、そこの人を助けよう」
五十嵐が構える。
目の前のゴリラを見据える。
いや、無理だろ。
翔平さんの腕がなくなったんだぞ?
いや、無理だろ。
昨日なったばかりの俺の倒せるはずがない。
強すぎる。
倒せるだろうか。
俺が。
『これだけで死なないか。死人というのは中々厄介だな』
「お前さえ倒せば! ――翔? 大丈夫か」
五十嵐の声が脳にガツンと響いて、俺は我に返った。
体中が熱い。
「はぁはぁ」
呼吸が荒い。
五十嵐の顔を見る。
なんで? さっきの疲れた顔は何処へ吹き飛んだ?
「はぁはぁ」
俺が吐く息が耳元で聞こえる。いや、頭の中に響いている。
「はぁはぁ」
倒せない。
いや、無理だろ。無理だろ。
そもそも、なんで俺がこんなことをしなければならない。
なんで、みんな神に素直に従っている?
「翔!」
ぶわっと、冷たい風が俺を包み込んだ。
「翔!」
五十嵐の声がやけに遠い。
歪む視界に歪むゴリラの顔。
歪む毛むくじゃらの拳が目の前に見えた。