冷夜の熱
新たなる始まりに、希望を願う。
願わずにはいられない。 ―――どうかいつまでも、いつまでもそばに。
***
それはもう、その年が終わろうとしている日。
「あら……もうこんな時間」
開いていた本を閉じて、クランベリーは顔を上げた。
窓から見上げる空はすでに薄暗く、灯りをつけようと立ち上がって――よろけた。
「え」
ぐらりと反転した視界が一瞬真っ白に瞬き、次に見たのは自分のボディーガードの漆黒の瞳だった。
傍にいたヘキに支えられたことに気づくのに、なぜかいつもよりも時間がかかる。
「姫、いかがされましたか」
「え……、どうしたって」
立ち上がったら、立ちくらみがしてしまった。
長い間座っていたからだろうか。
考え込むクランベリーを受け止めたまま、ヘキはしばらく黙って彼女の顔を見つめていた。
それからおもむろに、先ほどまで彼女が座っていた椅子にクランベリーを促した。
「ちょ……ヘキ? どうしたの?」
「失礼」
戸惑う王女を気にせず、ヘキは手を伸ばした。
両手はクランベリーの首筋を覆うようにして首を支え、額をあわせる。
「え、え? 何?」
突然縮まった距離にわずかに頬を染め、クランベリーはあわててヘキを引き剥がした。
数年前に比べれば、随分な譲歩である。以前なら引き剥がすどころか頬を張っていただろう。
妙なことを考えている時点でおかしいことに気づくべきなのだが、クランベリーはそちらにも気が回らない。
「姫」
「だから、何なのさっきから」
「熱いです」
「……は?」
ヘキの言葉が要領を得ないというか、端的なのはいつものことだが。
「どういうこと?」
「熱があります。風邪を召されたのではありませんか」
「最初にそれを言ってもらえれば助かるんだけど」
「は」
つまりは、とクランベリーは考える。
自分の思考がどうも冴えないのは、熱のせいなのか。
自慢ではないが、ここ数年は大きく体調を崩したこともなければ、熱を出して寝込んだこともない。
何か感染症でも流行っていただろうかと思い起こすが、心当たりは無い。
「申し訳ございません」
「もういいわよ。言いたいことは一息に言ってもらえると助かるだけ」
「ではなく」
そこで、クランベリーは気づく。
目の前で膝立ちになり、椅子に座る自分の顔に手を添えている男。
ヘキの言葉は、危うい。
「昨夜は冷え込みましたゆえ、お体を冷やされたのは私の所為かと」
「もういいから! そうね! そうかもしれないわね!」
慌ててその口を塞ぐも、時すでに遅かった。
「………碧様? あれほど姫に無理をさせるなと私、言いませんでした……?」
部屋の隅では、レイが花瓶に花を活けていた。
先ほどまでのやり取りは見て見ぬ振りをしていたようだが、ここを無視することはできなかったらしい。
背後に漂うオーラに、クランベリーは息を呑んだ。
「無理などさせておりませんが」
「その言い訳は聞き飽きました。まったく、姫も姫ですよ! あれほど碧様に気を許さないように申し上げましたのに!」
「……何のことかしら」
「それも聞き飽きました! いいですか、大体………、姫? ちょ、姫!」
「姫!」
レイの説教が次第に遠ざかる。ヘキが呼ぶ声も、薄らいでいく。
ぼんやりとしていた思考にさらに霧が掛かり、クランベリーは身を預けていた椅子に凭れた。
そのまま意識までが薄くなる。
その先のことを、余りよく覚えていない。
初めに目に入ったのは、視界の端を陣取る黒い色彩だった。
あまりにも見慣れすぎたその色は、クランベリーに覚醒を促す。
「う……」
はっとしたように影が動いて、クランベリーが重い瞼を押し開けた時には、目の前にヘキの顔があった。
いつもの無表情がどこか翳って見えるのは、気のせいだろうか。
そういえば、ヘキが来てからはあまり重い病についたことが無かった気がする。
「姫、どこか痛むところは」
「……ない、わ」
「苦しいなどは」
「……すこしだけ」
起き掛けなのになぜか質問攻めに遭い、クランベリーは内心で首を傾げた。
ヘキは、ここまで饒舌だっただろうか。
時によってはよく話す男だが、あまりこちらの領域を侵そうとはしてこない。
そこまでぼんやりと認識してから、クランベリーはある考えにいきついた。
(まさか)
心配、しているのだろうか。
彼が今まで生きてきた環境を、直接本人に聞いたことは無い。
けれど、想像することは幼いながらも聡かったクランベリーには容易かった。
人の死を、当たり前に見てきた瞳。
戦の中を、生きてきた独特の空気。
傷による高熱で死した者もいただろう。重い病に倒れた者も、いただろう。
過去を探ろうとは思わないが、その中でヘキが近しい者の弱る姿を見たことがなかったとしたら。
ただ、その消えゆくものと隣り合わせに生きていたのだとしたら。
たった、独りだったとしたら。
「姫」
「大丈夫、だから」
手を伸ばす。
身動きしない男の頬に、掌を添える。
ぬくもりを、伝えるように。
生きているのだと、伝えたかった。
「ね、大丈夫。………こんな熱に、負けないわ」
悪戯っぽく笑って見せると、ヘキはやっと表情を改めた。
どこかほっとしたようなそれに、クランベリー自身も安心した。
壊れてしまいそうな男を、見ているのは嫌だった。
「は。それでは、医師を呼んで参ります」
身を起こす前に一瞬クランベリーの額を唇が掠めて、声が遠ざかる。
相変わらず気障な男だ、と苦笑して、クランベリーはもう一度瞳を閉じた。
「姫。姫は、羨ましいくらいに愛されておられるのですね」
レイの声が聞こえて、もう一度ゆっくり目を開ける。
ベッドの端に座る気配がして、冷たい手が瞼を閉じさせた。
「眠っていてください。これは、わたしの独り言です」
「………?」
「碧様、今までにないくらい慌てていらっしゃいました。あの人の表情が変わるなんて、初めて見ましたわ」
「姫が意識を失った瞬間に血相を変えて、死ぬのかと聞くのですもの。失礼ながら、笑ってしまいました」
「敬語まで忘れてしまうくらい、姫のことしか頭に無かったのでしょうね」
「姫、どうか、いつまでも二人ご一緒に………」
瞼に触れる手の冷たさが、火照った肌にひどく心地よくて。
その先の言葉を、クランベリーは知らない。
厳かな鐘が、城下に響く。
旧年の終焉と、新たな年の境界を示す音色は、静かな夜のとばりに落ちた。
その鐘に願う者を、包み込むように。