水面に棘
届いたのは、大輪の薔薇が300ほど。
***
ずっしりと重そうな花束を抱えて、男は頑丈なドアをノックした。
無駄なく筋肉の付いた長身に靡くのは漆黒の髪、鋭いのは漆黒の瞳。
今年18になるこの国の王女、クランベリー・R・リアレスト。
麗しき姫のボディーガードを勤める、ただ一人の男。
名を、ヘキ。
異国の文字で、「碧」と書く。
「……だれ?」
かすかに聞こえた主の声に答えて、男は一言「私です」と呟く。
その声に反応するように、「いいわよ」と部屋から声がした。
鈴を転がすようでも、ハスキーな声色でもない。
ただどこまでも透き通った、触れただけで穢れてしまいそうなほどに澄んだ声。
花束を片手に抱え直して、男は重い扉をいとも容易く押し開けた。
「………なに、それ」
「花束です」
「見れば分かるわよ。誰?」
「隣国のヤマト王子からです」
「……今度は何て?」
「97回目のプロポーズだそうです」
部屋に沈黙が満ちる。
元々お互いに口数が多いわけでもないので、こういった沈黙は少なくない。
特にヘキは端的に言葉を発するために、クランベリーはたまに意地で喋り続けることもあるほどなのだ。
けれどもやはり、気まずいものはある。
そもそもなぜボディーガードがここまでしているかというと、他の人材を姫自身が求めないからだ。
一度有能な者を雇ってしまったために、他では物足りなくなった。
取りあえずそういう理由を彼女は通しているが、真相は不明である。
しかし確かに、他の者達は下手に結婚を薦めたり、意見が噛みあわなかったり、つまり自分と意志疎通の出来ない者ばかりなのだ。
彼女は特に婚約を持ちかけてくる王子達を斬ったりはしないが、かといって結婚する気もない。
放っておけばいい、そう思っているだけだ。
「姫」
「なあに」
「お部屋にお飾りしましょうか」
「その薔薇?すごい量ね。……あの男のくれた物なんて飾りたくないんだけど」
ぼそりと本音を漏らして、ヘキを見上げる。
有ったのは、いつもと変わらない無表情。
「お捨てになりますか?」
「それも勿体ないわよね」
うーん、と考え込む。
「では姫」
自分からはいつも喋らないヘキが、珍しく口を開いた。
「提案?」
「はい。妙案かと」
「あら、めずらしい。自信たっぷりね」
いつもは見せない笑みのようなものを僅かに口の端に浮かべて、ヘキはおもむろに薔薇を一本取る。
棘がささったが、訓練を重ねた手は細いようでしかし頑丈なので、出血はない。
真紅の花は、正直クランベリーには似合わない。
シルバーブロンドに、透き通るように深い碧眼。華奢な身体に、真っ白な肌。
真紅は情熱の色だ。
しかし彼女に、それは合わない。
クランベリーは黙ったまま、ヘキの動向を見つめている。
日は傾き、部屋には影が長く落ちた。
無駄のない動作で、ヘキは花を自分の口元に寄せた。
そして、静かに唇を落とす。
愛おしむ様なその動作に、クランベリーはかるく苦笑した。――嫉妬、したかも。
たかが花。
けれども彼の寵愛を受ける、その存在が。
けれども彼を傷つける、その棘が。
「姫」
俯いていたヘキが急に顔を上げたので、2人の視線はぴたりと絡んだ。
「……なんの真似かしら」
「これでこの花は、ヤマト王子からのものではありません」
「は?」
一輪の、愛の花。
「私から、姫へ」
そう呟くように口に乗せて、ヘキは手に持った薔薇をクランベリーの髪に挿した。
耳の真上、丁度こめかみの位置。
「……鏡が無いのが残念ね」
「鏡など見なくとも、充分にお美しいですよ」
「あなた、言っていて歯が浮かない?」
「なぜでしょう」
黙ったクランベリーをそのままに、ヘキは花束を持ったまま窓辺に寄った。
防犯のために、窓の外は湖になっている。
そこに、彼は躊躇なく薔薇の山を放った。
「……思い切ったことするわね」
「一本で充分でしょう」
それに捨てたのではなく、窓の外の景色を飾っただけです。
言葉を綴るヘキに、クランベリーは内心で「それを捨てたと言うのよ」と反論したが――、
「そもそも、姫に差し上げる花から棘をとっておかないなど、それだけで腹立たしい」
めずらしくぼそりと呟かれた本音が聞こえてしまえば、口を閉じて顔を俯けるしかなかった。
窓辺に自分も寄って、水面を覗き込む。
もう日が落ちて、散っている筈の大輪達は輪郭がぼんやりと見えるだけだ。
「見えないじゃない。日が昇らないと……」
言いかけて、クランベリーはふと顔を上げた。
ふわりと、身体を包む熱。
「ヘキ?」
「もう、夜ですから」
「……そうね」
後ろから伸びた長い腕が、静かに窓を閉める。
やがて訪れる宵を予感させる凪いだ瞳が、クランベリーを見つめていた。
次の朝、水面を覗いても、花は一輪も浮いていなかった。
「……片づけたわね」
起きたときに隣に居ないのは常だが、寝ているうちに掃除してしまったらしい。
「まあ、いいか」
呟いて微笑んだ彼女の視線の先には、クリスタルの細身の花瓶に生けられた、一輪の薔薇があった。