カワウソ
りん子が川沿いを歩いていると、浅瀬を動き回っている生き物がいた。カワウソだった。
カワウソは人間の子供くらいの大きさで、二本足で立っていた。薄茶色の毛を濡らし、両手で水をバシャバシャかき分けている。
りん子はカメラを出して、カワウソを撮った。シャッターの音に驚いたのか、カワウソは尻尾をぴんと立てて振り向いた。りん子を見ると、斜面を上って近づいてきた。
「どうしてくれるんだ! 魚が逃げちゃったじゃないか」
どうやら口がきけるらしい。
りん子は川を覗き込んだ。小さくて緩やかな川だ。
「魚なんていないんじゃないかしら」
「そうだ、人間が汚してばかりいるから、最近は鮭もブリもめっきり見なくなった」
「季節じゃないからよ」
カワウソは豆粒のような目をつり上げた。
「とにかく、お前のせいで逃げられたんだ。きっちり賠償してもらうぞ」
「賠償って何よ」
「金銀財宝だ。俺の体がすっぽり隠れるくらい頼む」
りん子は肩をすくめた。飴色の髪飾りも、ビーズで作ったブレスレットも、話にならないだろう。それに何より、こんなカワウソにやってしまうのは惜しい。
「財宝は持ってないけど、鮭なら簡単に手に入るわ」
「本当か?」
カワウソは途端に目を輝かせた。しまった、とりん子は思ったが、もう遅かった。
「今すぐ出してくれ。いい具合に焼いて、大根おろしもあるとなお良い」
「今は無理よ、明日スーパーで買ってきてあげるから」
「いや、人間は信用ならないからな。そのスーパーとやらに連れていけ」
捕食者の貌になったカワウソは、聞く耳を持たなかった。りん子は仕方なくリュックにカワウソを入れ、鮭を買いに行くことにした。
カワウソはリュックの口から頭を出し、歩くのが遅い、前が見えないと文句を言った。
「人前で喋るんじゃないわよ」
アニメや漫画でさんざん聞いたこの台詞を、まさか自分が言うことになるとは、さすがのりん子も予想していなかった。
スーパーへ行くと、カワウソは冷たい空気に喜んで出てこようとした。りん子はそれを押し返し、リュックの底にしまい込むと、鮭の切り身とおろしポン酢、出来合いの総菜をいくつか、それに菓子パンとアイスを買った。
「ずいぶん小さいメロンだな」
「メロンパンよ。こっちはアイスの容器がメロンの形してるだけ。ていうか何、顔出してるのよ」
すれ違った子どもが、かわいいリュック、と言って指さしている。りん子は再びカワウソを押し込み、そそくさとスーパーを後にした。
りん子の部屋はアパートの二階で、大きな窓からは西日が差し込む。暑い暑い、とカワウソは言い、フローリングの上を転がり回った。
りん子が夕飯の支度をしていると、カワウソは急に大人しくなった。部屋の隅で何かを見つけたらしい。目の端で確かめると、丸いプラスチックのキーホルダーだった。銀のラメを散りばめた水の中に、魚のマスコットが浮かんでいる。
りん子は二人分の焼き鮭に大根おろしを乗せて運んだ。カワウソはキーホルダーを眺めながら、美味しそうに鮭を食べた。水かきのついた手で、上手に箸を使った。
りん子が鮭をほぐし、白飯に混ぜている間に、カワウソは冷や奴も筑前煮も全部食べてしまった。
「ちょっと、少しは遠慮しなさいよ」
「旨かった。実に旨かった」
カワウソはりん子の脇をするりと抜け、冷凍庫からメロンアイスを出すと、これもぺろりと平らげてしまった。台所を片付けて風呂を沸かそうとすると、すでにカワウソが湯船を占領していて、いつの間に見つけたのか薔薇の入浴剤までなみなみと使っていた。
りん子は頭に来て、設定温度を四十五度にした。
熱い湯気が漂い始めても、カワウソは平然としていた。傍らに置いたキーホルダーを見て、やっぱり光るんだな、とつぶやいた。
カワウソは風呂場を寝床にすると言ったので、りん子は一人で寝室へ行った。
「ベッドまで取られなくて良かったわ。そう、これで良かったのよ」
自分に言い聞かせ、眠りにつこうとした。悔しさがようやく収まると、今度はあのキーホルダーが気にかかった。どこで買ったのか、ずいぶん古いものだから忘れてしまった。友達のお土産だったかもしれない。目を閉じると、光をくぐって泳ぐ魚の姿が見えた。ふと、風呂場で寝たら溺れないだろうかと思ったが、もう眠気のほうが勝っていた。
次の朝、こんがりと美味しそうなにおいでりん子は目覚めた。バタートーストにハムときゅうりを乗せ、ポタージュスープを添えてカワウソが食卓についていた。
「食パン全部使っちゃったの? ハムも……」
カワウソは口元の毛にパン屑をつけたまま、にやっと笑った。その表情が世界一憎らしく思えて、りん子はフライ返しを手に取り、振り上げた。
「おい、乱暴はよせ」
「さっさと出てってよ! あんたみたいな図々しい奴見たことないわ」
フライ返しを叩きつけようとすると、カワウソは口を開けたまま飛びついてきた。へら部分をばっくりとくわえ、そのままりん子を引きずって走り出した。りん子は手を放そうとしたが、魔法にかかったように離れなかった。
「痛っ、いたたたたっ、ちょっと」
「たらふく食ったからな。今なら飛べそうだ」
「飛ぶって、ちょっと、窓……」
カワウソは短い後ろ足で床を蹴った。それは驚くほどの力で、フライ返しにりん子をぶら下げて、いとも簡単に窓を突き抜けて飛び出した。
りん子は自分の体が風を切るのを感じた。飛んでる、と口に出す暇もなく、二階の窓から上へ、さらに上へと突き進んでいく。
パジャマを着たままだったので、たっぷりとした裾に風が入って気球のように膨らんだ。カワウソがりん子を飛ばせているのか、りん子がカワウソを飛ばせているのか、だんだんわからなくなった。
りん子は下を覗き込んだ。どこまで飛んできたのか、眼下には川が流れていた。太陽の光を受けて、水が光っている。
上を見ると、空は雲に覆われていた。あれ、と思って下を見ると、やっぱり水は光っていた。
「ねえ、ここ、どこ……?」
カワウソはフライ返しをくわえたまま飛んでいく。蹴伸びをするような姿勢で、すいすいと進んでいく。やがて下は一面の水になった。水はまばゆい光を放っていた。
「どうして光ってるの?」
カワウソはちらっと振り向いたが、何も言わなかった。フライ返しを放したら、二人とも落ちてしまうのだろうか。りん子は両手で柄を握り、行く先に目を凝らした。
パジャマの中を通っていく風が、気がつくと弱まり、感じなくなった。それでも二人は飛び続けていた。カワウソの毛が柔らかくなびき、細かい光の粒がいくつもついては離れていく。
「水の……泡?」
りん子の周りにも、光は漂っていた。何色ともいえない小さな光が、後から後から流れてくる。泡のような、魚のような、星のような光だ。
空と海がひっくり返ったような感覚だった。上る前の太陽は水の中にあるのだったかしら、とりん子は思った。それとも、水の底には知らない星がたくさん隠れているのだろうか。
光に当たると、胸が弾けるような、体が少しずつ生まれ変わっていくような気がした。
生きてるんだよ、とカワウソが言った。実際にはフライ返しをしっかりくわえていたが、確かに聞こえた。そうか、と思い、りん子は目を閉じた。
もしかしたら、雲の中を泳いでいたのかもしれない。そう思い当たったのは、部屋に戻ってからだった。
「もっと見たかったのに」
りん子はテーブルに頬杖をついて言った。カワウソは水かきの指を振り、もったいぶった笑みを浮かべた。
「足りないぐらいがちょうどいい。人間は欲張りだからな」
「あんたにだけは言われたくないわ」
りん子は立ち上がり、伸びをした。思い切り体操をした後のように体が軽かった。
カワウソはカップに残っていたポタージュの残りを舐め、さっと椅子から降りた。玄関のほうへ行こうとしたので、りん子は呼び止めた。
「はい、これ」
水の入ったキーホルダーを渡すと、カワウソは当たり前のように受け取った。
「一人で帰れるの?」
「ああ。道は一回で覚えるからな」
じゃあまた来るってことか、と思うと、りん子は複雑な気分になった。
ドアを開けると、カワウソは二本足で歩いて出ていった。ようやく晴れた空に、キーホルダーをかざして見ている。
「次はブリを用意しておけよ。照り焼きにして、玉ねぎを添えてくれ」
断る、とりん子は言い、ばたんとドアを閉めた。
足音が遠ざかっていくのを確かめてから、台所の戸棚を開けた。なぜかメロンパンだけが、無事に残っていた。りん子は夢中で袋を開け、むしゃぶりついた。
「うーん、おいしい」
さりさりとした砂糖は、水の中の光にも似て、甘く軽くりん子を満たしていった。