死の足音 一-4
(―――?)
一瞬見せた気まずさが、判らなかった。
目を瞬かせるはるかの前でおもむろに立ち上がり、背中を向けるヴェルフェン。黄昏の広がる部屋の中、背負う大鎌の向こうで彼は、隠しきれない逡巡を見せている。
彼のことはよく知らないけれど、らしくないと、思った。
「どうして? なんであたしだけ」
「このまま、終わらせたくなかった、んだ」
問いを重ねると、長い沈黙を挟んで、ヴェルフェンはそうこぼした。なにをためらっているのか、歯切れが悪い。声もどこか不安げで、はるかの気持ちを波立たせる。
「『このまま』?」
「魂のあの輝きを、もう一度、見たくて」
はるかは言われた言葉を噛み砕くように、まばたきを数度繰り返す。
魂の、あの輝き?
いきなり斜め上方向からの単語が出てきて面食らい、きょとんと反応を忘れてしまう。
―――が、静かに身体をこちらに返したヴェルフェンの深い眼差しに、なんとなく居心地の悪さを覚えて、もぞもぞとベッドに居住まいを正した。
「お前の魂は、眩しいくらいに輝いてたんだ」
大真面目に語られる言葉。けれどはるかの頭は、やはりついていけない。
「……。……、……あの、なんの……?」
なんの、話?
よく、判らなかった。魂とか輝きとか、全然関係のない単語が降ってきて理解が追いつけない。いままでの話の流れからそれている気がするのだけれど。
固まるはるかに、そうだったな、と、ヴェルフェンは自嘲気味に顔を歪めた。
「おれがはるかを知ったもともとのきっかけは、魂の輝きだったんだ」
「その。あたし、の……?」
「ああ。はるかの魂が、おれを呼び寄せた」
「……」
大仰な表現に、まともに受け止めていいものか怪しさは正直あるけれど、自分にだけ命の期限を伝えた理由に繋がっているのだ。そのせいで、死への恐怖に直面せざるをえなくなった。ヴェルフェンは真摯な表情を湛えているし、莫迦げた話で誤魔化すつもりでは、きっとない。
はるかがおとなしくしているのを見て、苦しげな顔で彼は、そもそもの始まりから話そうか、と口を開いた。
「どれくらい前だったかな、それまで感じたことのない輝きを感じたことがあった。白くて、透明で。気のせいだって見過ごせないくらい清冽で。抗いきれなくて、強烈に惹きつけられた。辿っていくと、生まれたばかりのお前がいた。お前の魂が、眩しくて真っ白な輝きを放っていたんだ」
「……」
「初めてこの目で見たとき、得体が知れなくて背筋が震えた。人間の魂が輝いて見えたことなんてなかったから、わけが判らなくて、怖くて、混乱した」
自分の両手に目を落としてみるはるか。
(……光ってない、よね?)
腕や身体を見ても、輝きなど見えない。それ以前に、光ってる人間なんて、見たことも聞いたこともない。そんなはるかにじっと視線をとめ、ヴェルフェンは続ける。
「どういうことかまったく判らなくて、仲間にも見てもらったんだ。でも、誰も判らなかった。見えなかったんだ。輝きが見えるのはおれだけだった。上位のヴァルドウに見てもらっても同じだった。誰も見えないし、魂の輝きを見たヴァルドウ自体、いまだかつて存在したことがないとすら言われた。おかしいのはこっちじゃないかって、おれ自身も調べられた。でも原因は全然判らなくて、異常も、見つからなかった」
当時のことを思い出しているのか、ヴェルフェンの眼ははるかに留められてはいるものの、その向こう、彼女ではないなにかを見つめていた。
死神には超然としたイメージがあったから、ヴェルフェンの遠い表情に、死神が困惑したり悩んだりするなんて人間じみてて不思議だと、話を聞きながらも気持ちのどこかで妙に冷静になっている自分がいる。
「気になって仕方がなくなった。気になって気になって。気がつくと、お前を探すようになってた。輝きが見えないと落ち着かなくて、お前を見つけるたび、ほっとした」
意識の内側をさまよっていたヴェルフェンの目が、はるかの上に戻る。想いのこめられたその眼差しに、不謹慎にも胸は鼓動するごと潤んだ熱をはらみだす。
まるで、誤解してしまいそうになる眼差しだった。
はるかを見つめるそんなヴェルフェンの瞳に、苦い色が浮かび上がる。
「でもいつの頃からか、輝きが鈍りだしてきたんだ。くすむようになって、淀んでいった」
「え」
魂の輝きが淀むなど、相手の不安を煽って金儲けをする似非宗教屋くらいしか言わないのでは?
宗教屋なら頭から疑えたが、身体が半透明なヴェルフェンの言葉は、残念ながら真実なのだろう。
「どうしてだかは判らない。人間の魂は元々そういう……、年を重ねるにつれて、輝きが消えていくものなのかもしれない。輝きが無くなっていくのはすごく、……身を引き裂かれるような感じで。苦しかった。自分が削ぎ落されていく気がして。どうにかして止めたかった。けど、止める手段をおれは知らなくて。ただ見ているしかできなかった」
「いつから、なんですか? その、淀みだしたっていうのは」
生まれたときから自分の人生を死神に見られていただなんて、恥ずかしさももちろんあるが、そこに潜んでいる執念のような思いに気味の悪さを感じる。けれど、死神に「身を引き裂かれる」と言わせるほど淀んだという魂の輝きの問題のほうがずっと重大で、含まれている意味合いは、それとは比較にならないくらい空恐ろしい。
魂の輝きがなくなるとき、命もなくなってしまうのだろうか。
「そうだな。五……年ほど前か。……もっと最近かもしれんが」
「五年、前……」
そんな昔から。
はるかは五年ほど前の自分を思い起こす。
十三歳の頃だ。中学一年生。そのときなにかあっただろうか? 記憶を探ってみるが、これといった出来事はない。
もっと最近かもしれないというヴェルフェンの言葉に、そこから時間を追いかけてみる。
(―――あ!)
思い当たる出来事が、ひとつあった。
「おばあちゃんが、死んじゃった、から? 中三のときだから、えっと、三年前」
あのときの母親の取り乱しようと、棺の中で人形のように硬く眠る祖母の姿を覚えている。一緒には住んでおらず、どちらかというと祖母は気難しくて苦手だった。それでも人生で最初に接した死だったから、受けた衝撃は大きい。魂の輝きが淀みだしたのはその影響なのだろうか?
「人間の時間の感覚は、おれには難しい」
どこか寂しそうに、ヴェルフェン。
「あの、そうなんですか? おばあちゃんが死んじゃったってことが、関係してるんですか?」
「判らない。身近な人間の死がなんらかの影響を与えた、というのはありうるだろうが、おれ以外誰も魂の輝きを目にしてないから、本当のことは判らないとしか言いようがない」
原因がなんであれ、はるかの魂から輝きが消えていくことのほうが、おれには重要だった。そうヴェルフェンは続けた。
「ただ見ているしかできなかったけど、お前のもとに来ずにはいられなかった。なにをするわけでもなにができるわけでも、止められるわけでもないのに。なにかを期待してのことじゃなく、ただ、―――逢いたくて」
言ってから、困ったように小さな笑みを口元に浮かべるヴェルフェン。それがとても人間めいていて、不覚にも気持ちの奥が、また震えてしまう。
「……」
どう、反応すればいいのだろう。死神だとはいえ、「逢いたくて」と言われて平気でいられるはずがない。ヴェルフェンにそんなつもりはないのだとしても、胸はときめいてしまう。
ずるいと、思った。
見た目が整っていると、どんなに重たくて重大な話をしていても、ふとした瞬間に心が持っていかれて本題が惑わされるからいけない。
胸を密かにどきどきさせながら、気をつけなくてはと自分に言い聞かせる。
そんなとき、と重たい口調のままヴェルフェンは続けた。
「死のリストに、はるかを見つけた。輝きの変化と関係があるのか判らないけど、まさかと目を疑った」
死の、リスト。
淡いときめきが胸に広がっていたそばから飛び込んできた単語に、冷水を浴びせられる。逃れられない運命を、現実を、不意をついて突きつけられて、背筋がぞわりと震えた。自分の足元に開いていた暗くて深い穴の存在を思い知らせる、容赦のない言葉だった。せっかく死への恐怖に蓋をして、目をそらせられたかと思ったのに。
隣にいるこの青年は、死神なのだ。幽霊でも悪魔でもなく、一年後に自分の命を奪いに来る、死神。姿かたちなど関係ない、死の遣い。
だからこそ彼の身体は透けているのだ。
「その輝きって、まだあるんですか?」
恐怖の深みにはまりそうになるのを堪えながら訊く。ヴェルフェンは軽く目を眇めてはるかを見つめた。
「ある。すごく、か細くなってきてるけど」
まだ、ある。
唇が、小さくわなないた。
「輝いてるのが消えちゃったら、あたし、死んじゃうんですか? 一年後に、消えちゃうから死んじゃうんですか?」
なにかで聞いたことがある。天国だか地獄だかに命の蝋燭があって、その炎が消えると、蝋燭の持ち主であるひとは死んでしまうのだ、と。
ヴェルフェンが見えるという魂の輝きとやらが、同じものだとしたら?
輝きが消えてしまったときに、すべて根こそぎ奪われてしまうのか。すべてが、無へと還ってしまうのか。
「どうすればいいんですか。なんでもする、お願い。助けて。ヴェルフェンしか望みはないんでしょ? どうすればいいんですか。なんだってするから教えて」
「どうすることもできないんだ。受け入れるしかない」
「そんな」
「おれだって。―――おれだってどうにかしたい。できることなら、なんとかしたいさ」
静かな口調だったが、まるで、血を吐くように聞こえた。胸が痛くなるほど、苦しげな声。
「長い間、命の最期に関わってきた。人間の死になにかを感じたことなんてなかった。でもお前だけは、はるかだけは失いたくない。このおれの手で魂を取りあげるなんて、信じたくもない。なにかの冗談であって欲しいと、いまでも思ってる」
死神らしくない声音で切々と語られる思いだった。
「いつかは誰かが魂を貰い受けると判ってはいた。まさかこんな早くなんて。一年だ。一年しかないんだ。運命を呪ったよ。逃れる道があるならと探した。でも、だめなんだ。死のリストに載ったら、おれたちにはどうすることもできないんだ」
苦悩を吐露する彼に圧倒されて、言葉が出なかった。
死のリストに見たはるかの存在に、ヴェルフェンが足掻いてくれた。
意外だった。そうして、同時に嬉しくもあり、死神でもどうすることのできない現実に、救いようのない落胆を覚えた。
「―――でも、気付いたんだ」
難しい顔をしていたヴェルフェンの表情が、まるで泣くかのように一瞬歪む。
「命を貰い受けるのがおれでよかったと。はるかに最後に接するのがおれでよかったと。他の誰にも、渡したくなかったから」
ヴェルフェンはひと呼吸を置いて眼差しを甘くさせ、はるかを捉える。
「お前に関わるのは、おれだけでありたかった。おれだけで」
彼の暗い色の瞳に、はるかの姿が映っている。
(不思議)
半透明な死神の目にもひとの姿は映り込むのかと、他人事のようにぼんやり思うはるか。
ヴェルフェンはいったん視線を外し、数瞬ためらったあと、はるかへと目を戻した。覚悟を決めたような強い眼差しだった。
「お前が好きだから。はるか。お前を愛してる」
「……」
ヴェルフェンの唇からこぼれる言葉は、なんとなく予想はついていた。けれど、まさかという予感が現実となって押し寄せてきて、はいそうですかと簡単には受け止めきれない。
「はるかは、ずっとおれの拠り所だった。なにかあるたびに足を運んで。お前の笑顔を見ると、苦しいことも乗り越えられた。おかしいだろ? どんな人生を送っていくのだろうって、楽しみでもあったんだ。―――ただ見守るだけのつもりだったのに、いつの間にか、お前に惹かれてた」
「あああのでも、ヴェルフェン、死神、ですよね……?」
「ああ。そうだな」
観念したように笑むヴェルフェン。死神なのに顔をくしゃりとさせて無防備に笑うのは、反則だ。
「そんな、好きになるとかそんなの、だって、普通、考えられないでしょ?」
「普通ならな」
気持ちを告白したためか、仄かな笑みを湛えるヴェルフェンからは、張り詰めたものが消えていた。ただじっと、穏やかにこちらを見つめてくる。そんな眼差しに晒されて、平気でいられるはずがない。
人間だったら、恋に落ちてしまうだろう。
人間だったら。
でも、ヴェルフェンは―――。
彼は身体を半分透かせたまま、はるかの答えを待っている。
「ありえないよ。そんなの、おかしい」
「なにが?」
「ヴェルフェンが、あたしのことを、その……好……ぅ……」
突然現れた欧米人めいた異性――しかも半透明な死神――が凡庸な女子に好意を抱くシチュエーション。そんな夢みたいに羨ましくて荒唐無稽なこと、マンガか小説の中でしかありえない。卑下するわけではないけれど、悲しいかな実際問題として自分がそんな魅力のある女子だとは、思えない。
ダメ押しされるように、鬱陶しいよと言った元彼の声が、頭によみがえってきた。
「ありえないって……」
自分がヴェルフェンのような大人に好かれるだなんて、どうあっても考えられない。落胆まじりの溜息がこぼれてしまう。
死神は人間とは相容れない存在。そんな立場の垣根も取り払って、なおかつ普通だったらもっとレベルが上の女のひと――〝ひと〟でいいのかはこの際置いといて――を選べる容姿のヴェルフェンだ。死の宣告同様に、彼から好かれるだなんてこと、いろんな意味であまりにもありえなさすぎる。
なにか裏があって、騙そうとしているのでは? そうとしか思えない。
はるかのそんな疑心に、ヴェルフェンは困ったような顔になる。
「人間に心を奪われるヴァルドウなんて、おれだって聞いたこともない。でも、どうしようもないだろう? ヴァルドウだ人間だ、じゃない。はるかだから、惹かれたんだ」
「……」
(ホントに? ……。ホントの本気、なわけ……?)
同じ人間ではなく、命を取りに来る〝死神〟に好かれるような、そういう人間だったのか、自分は。
深い意味もなくなんとなくそう残念に思う一方で、彼氏から別れを告げられたのは一ヵ月ほど前のこと。まだそれだけしか経っていないのに、嫌な思いがしない自分がいる。見た目に浮かれているだけだと判るけれど、嬉しささえある。
わけが判らない。この男は、自分を殺しに来る張本人だというのに。忌むべき存在なのに、胸がどきどきするだなんて。
―――いけない。
(ダメよ)
用心しなくては。絆されてはいけない。
どれだけかっこよくても、ヴェルフェンは死神だ。外見は重要ポイントだけれど、元彼のようにふらふらと惑わされていい相手ではないし、第一、想いを告げられてもどうすることもできない相手だ。
落ち着け。冷静になれ冷静になれと、はるかは自分に言い聞かせる。
そんなはるかに、表情を引き締めたヴェルフェンの声がかぶさる。
「伝えようと思ったんだ。どんな時間の使い方をしてもなにをしても、人間は後悔をして死んでいく。残る時間を知ることで少しでも後悔をしない選択ができれば、あの輝きが戻ってくるんじゃないか、って。もう一度見ることができるんじゃないかって、そう思った。くすませたまま、終わって欲しくなかったから」
「……」
はるかの中で、一瞬のタイムラグがあった。
(……輝きが戻ってくる……? もう一度見ることができ、る?)
懸命に気持ちを落ち着かせようとしていたからか、ヴェルフェンの言葉が胸の奥にひっかかった。
そうして見えてきたものに、かき乱された熱っぽい思いが一気にすとんと醒めた。