死の足音 一-3
突然かけられた声に数瞬身を固まらせ、そっと布団をめくり顔を出すと、ベッドの端に腰掛けるヴェルフェンの姿があった。
「なにがあった?」
こちらを窺う彼の表情は、心配してくれているのか、どこか柔らかい。
自分の命を狩りに来る死神なのに、縋りつきたいと思えてしまうほど優しい気遣いに溢れていた。
「死にたくない。イヤだ。怖い。お願い、助けて。助けて……!」
お門違いであっても、言わずにはいられなかった。死神だからこそ、縋りつきたかったのかもしれない。
少し困った顔を、ヴェルフェンはした。
「どうして。なんで!? どうしてあたしなの? どうしてあたしが!」
嗚咽混じりのはるかに、ヴェルフェンは彼女の心情を察したのか、よりいっそう困惑の眼差しを深くする。
だが、はるかが望む言葉を、その場しのぎで発することはなかった。
「どうしてなんだろうな。おれにも、判らない」
「他人事だと思って!」
はるかは枕を投げつけた。
枕はヴェルフェンの身体をすり抜け、タンスに当たって落ちた。
実体のないヴェルフェンに枕を投げても意味がないことなど、判っていた。
判っていたのに、身に迫る運命をひしひしと思い知らされる。
「ひどいよ。なんで。なんでよ……」
ヴェルフェンは枕の行方を追った眼差しを返し、ただ、じっとはるかを見つめるだけだった。身を切るような苦しげな表情が、かえって彼の言葉に真実味を持たせている。
「嘘、なんですよね? 本当は、全然違ってて。それを教えに来てくれたんですよね?」
懸命にヴェルフェンの表情に期待をこめるものの、彼は求めるものを返してはくれない。
なにも言わないヴェルフェン。まっすぐに突き刺さるばかりの眼差し。
はるかは、力を失くした拳をベッドへと落とした。
「お願い、やめてよ……。全部無くなっちゃうなんて、いや」
「……」
「怖い……、怖いよ……」
目の前にいるのは、自分の命を奪うと宣言した死神。その彼の前で、死にたくないとわめき、ぼろぼろに泣き崩れることしかできない自分。
どうして自分は、ひとは、死に対してなにもできないのだろう。
否応なくやって来る死を、ただ漫然と受け入れるしかないだなんて。
自分が消えてなくなる覚悟なんて、つくはずなどないのに。
「死にたくない。死にたくない……! 絶対にイヤだッ」
考えたくもない恐怖に、顎が痛むほどぎゅっと歯を食いしばっていた。漏れ出でる声は震えるほどに掠れていて、身体はベッドへと崩れていく。
ヴェルフェンの腕が、すっと伸びた。その気配にはるかの肩がはびくりと緊張したが、彼の手は静かに頭へと伸びた。
触れられた感触はなかった。なのに、あたたかく寄り添うように、大きな手のひらで頭を包まれているのが判る。
ほろほろと、心のひだがこぼれていく。
どうして、こんな優しくしてくれるのだろう。優しくしてくれるのだったらいっそ、
「見逃して。お願い。なんでもするから、助けて」
必死に見上げるはるかにヴェルフェンはなにも言わず、ただゆっくりと首を振る。
「せめてもっと先。もっとずっと後じゃダメなんですか? おばあちゃんになってからでいいじゃない。あたしひとりくらい、遅くなったって」
ヴェルフェンは、はるかの頭にやった手をゆるりと動かす。撫でられている。
穏やかなものが伝わってくるけれど、なにも答えないその沈黙が、彼の答えでもあった。
決定は変わらない。ヴェルフェン自身は、はるかの思いを汲んでなんとかしようというつもりはないらしい。
「どうしてもだめなんですか。たとえば忘れてたとか、時期を間違えたとか誤魔化すのもできないんですか?」
「それでも、いつかはやって来る。誰であろうと、命を手放す運命から逃れるすべなんてない」
「誤魔化せられるんですか!?」
ヴェルフェンのもの言いに、僅かな希望をはるかは見出し、ぱっと目を輝かせる。すぐ隣に腰を下ろしたヴェルフェンは、はるかを抱えるようにして腕を伸ばし、その頭を撫で続ける。
「誤魔化せられるわけがないし、そんなつもりもない」
「だっていま否定しなかった」
「人間は、死のリストに抵抗することなんてできないんだ。受け入れることしかできない」
まるで、最後通牒のような残酷な言葉だった。
「いやだよ。あたしは、死にたくないの。これって、……夢、なんだよね? あたし、夢見てるだけなんだよね? 目が覚めたら、死ぬとかそういうの、全然なくて」
「はるか」
「ヴェルフェンも死神なんかじゃなくて、夢に出てきた誰かなだけで」
「はるか」
ヴェルフェンは言い聞かせるように首を振る。
どうして、そんな静かな顔ができるのか。
はるかは唇を噛み締め、顔を歪ませる。
「認めない。あたし、認めないから。絶対に間違いだったって言わせるから。なにがあったって、そんなことにならない! 逃げまわって抵抗して覆してやるから!」
強い口調で反論するものの、胸の内はどうしようもない不安と心細さでいっぱいだった。
頭の奥深く、冷静な場所では、一年後の予言を信じだしてしまっている。だからこそ認めないと意地になって言い張っているだけだと、冷静な自分が諦念を抱いた目で分析をしている。それが判るからこそ、自分の子供じみた頑なな発言がどれだけ虚しいのかをひしひしと感じる。
きっとヴェルフェンにも、それは伝わっているのだろう。
「時間は、まだ、あるからな」
そう言って、再びはるかの頭を撫でだした。
「信じないんだから……」
「いまはまだ、それでいいのかもしれないな。おれも、焦らせすぎた」
「ずっと、絶対信じないから。信じない」
さらりと、ヴェルフェンの手がはるかの頭を滑りゆく。半透明の死神の手は、なにも言わず、何度も何度もはるかの頭を行き来する。
こんなそばにきて、馴れ馴れしくしないで欲しい。優しい態度なんて、見せないで欲しかった。
「……死後の世界って……あるんですか? 来世とか」
しばらくされるがままだったはるかは、気持ちが少し落ち着いてきたこともあって、訊いてみた。
「どうかな」
「知らないんですか?」
「おれは、魂を狩るだけだ。―――嫌か、『狩る』というのは」
はるかの眼差しに怯えが走ったのに気付いたのか、ヴェルフェンは尋ねる。
「獲物じゃないもの」
「気をつける」
いつの間にかはるかの頭を撫でる動きは止まったが、彼の手は、そのままそこに置かれていた。
「いつも……、いついつに死ぬって、相手に教えるんですか?」
「いや」
「ならどうして? どうしてあたしには、教えるんですか?」
そう問うと、ヴェルフェンの表情に動揺が走った。