第二章 死の足音 一-1
一年後に死ぬ。
生まれた以上、人間は必ず死ぬ。
ヴェルフェンの言葉が、耳から離れてくれない。
あまりにも、理解を超えた話だ。
部屋で彼と遭遇した日から、十日ほどが過ぎていた。
学校帰り、早紀と別れ、はるかはひとり自宅へと自転車を走らせていた。
自分がいつか死んでしまう存在だったなんて、そんなの考えたこともなかったし、考えたくもない。
まして、一年後に死ぬだなんて、理解を超えている。
ヴェルフェンが真実死神でも、死の宣告は全然実感がない。真面目に考えろと言うけれど、どうあっても自分は死とは無関係にしか思えない。まったくもって、見事に繋がらない。
信じる信じないではなく、〝死〟については頭の中にストッパーがかかっていて、考えようとしても、そこから先へと考えること自体ができないのだ。
高く厚い壁が思考を閉じ込めている感覚。全身全霊が、無意識ながらも抵抗をしている。
一年後の死。
ありえない。
他人事にしか思えない。
どう考えても、自分のこととは思えない。
十八になったばかりなのに、死ぬわけがないのだ。莫迦げている。
(死神に予言されるなんて)
どんな予言者よりも確実なようで、けれど死神という存在自体が、あまりにも不可思議で信じがたくて。
生まれた以上、人間は死ぬ。
そんなことくらい、判っている。
(判ってる、けど)
死は、あまりにも遠く縁のないものだ。
死に遭遇するのは、まわりの存在だけであって、自分には関係がない。降りかかることもありえない。
死とは、そういうものだ。そういう、ものだ。
ペダルを踏む足に力をこめ、青に変わった信号の先の十字路を左に曲がり、大通りに出る。
(なにかの、勘違いだよ……きっと……)
自分が死ぬなんてこと、起こるはずがない。
なのに、何度も何度も否定しても、死の予言は嫌でも思考を乗っ取ってくる。
ヴェルフェンの、あの真剣な表情。
思考がストッパーに遮られて進まないのはありがたいけれど、答えを出したくない不気味な問題が何度も何度も突き返されて意識にのぼってくるのは、それはそれで拷問でもある。
ひとはいつか死ぬのだという事実は知ってはいる。けれど、自分はその外側にいるのだと、漠然とそう思う。そう、信じている。
死んでいくのは年老いた老人たちで、自分は見送る側。だから、まだまだ関係はない。
真面目に考えろと言われても、どだい無理な話なのだ。どうしても考えられないというのは、まだ考える時期ではないということに決まっている。
絶対に、ヴェルフェンの勘違いだ。
受験生なんだから、混乱させないでもらいたい。
―――と。
「?」
横を通り過ぎた車が、前方でおかしな動きをしているのに気付いた。
どの車も、スピードを緩めて車体を歩道側へと寄せていくのだ。
(なに……?)
危ないと思って前方に目を遣ると、車道の先に、小さななにかが落ちていた。それを避けているらしい。
近付くにつれ、その小さななにかは、次第に形を現わしてくる。
センターラインの近くで動いている、白い、毛むくじゃらなモノ。
―――猫だ。
仔猫が道の真ん中で身をすくませている。おぼつかない足取りだったのか、道を渡りきれなかったらしい。
(なんでこんな大通り渡ろうとするのよ、莫迦ッ!)
どうしようもない憤りを感じるも、助けなければと咄嗟に思った。
自転車を降りて後方を確認するが、無情にも道の向こうにまで車は途切れる様子もなく続いている。
(ええと、とにかく止めなきゃ……)
仔猫は反対車線よりもこちら側にいる。無理に道を渡らせるより、強引に捕まえてひとの手で移動させたほうが安全だろう。
いつもなら、どうしようとまごつくだけだった。助けようと思ったのは、頭の中に〝死〟が沁みついてしまっているからか。
車に知らせなければと思うものの、どうすれば止まってくれるのかなんて判らない。
「あの……、止まってください」
ドライバーに声をかけてみるものの、窓を閉め切った車内にいる彼らには、歩道で女子高生がこちらに目を向けているという認識しかないのか、一向に止まる気配はない。
(どうしよう。あっちからも車来てるし。あぁ、動かないでじっとしてて)
焦るはるかの気持ちを知ってか知らずか、仔猫はうろうろと動きだす。猫だから一瞬の隙を突けば車道から逃げ出せるのだろうが、そのチャンスを摑むよりも怯えのほうが大きいらしい。
何台の車がはるかの前を通っただろうか。
ほとんどの車は直前でうずくまる白い仔猫に気付き、慌てて避けていく。
だが一台が、気付くのに遅れた。
皮肉にも、歩道のはるかに気を取られていて、前方への意識が散漫になっていたのだ。
ぐしゃりと、白い毛皮が音をたてて潰される。
(!?)
喉が鳴った。
撥ねられるわけでもなく、仔猫はただその場に潰され縫いとめられた。
緩い風になびく白い毛は赤く染まり、肉のかけらとともに路面に広がりへばりついている。仔猫の形をぼんやりと残したままで、しかしどう見てもそれは、もはや生命の片鱗すら窺わせない。
はるかは息を止めたまま、動けなかった。
その瞬間を、目にしてしまった。
最後の最後、車を見上げた仔猫の無垢な眼差し。
音が、消えていた。
目の前が、真っ暗になる。
あの、眼差しが。真っ暗になった眼前に、あの眼差しが焼きついている。
どれだけ立ちすくんでいたのだろう。
ぐちゃという音がまた耳に飛び込んできた。
はっと戻ってきた視界に、別の車に更に轢かれて形を変えた仔猫だったモノが映っていた。
心臓が、ぎゅっときつく絞られるように痛んだ。
胸奥深くまで重く貫いた衝撃に、弾けるようにはるかは自転車を引き返し、なりふり構わず逃げ出した。
(やだ)
止まらなかった。止められなかった。
ハンドルを握る指が震えている。自転車をこぐ足に力が入らない。それでもがむしゃらに、あの場から逃げるためにペダルを踏み込む。
あの仔猫の姿が、頭から離れてくれない。
死神からのメッセージに思えた。
死を考えられない自分に対して、目の前にどうだと死を突きつけてきたのだ。
(うそ。やだ、違う……!)
あれは、お前だと。一年後のお前なのだと。
お前もああやって死んでしまうのだ、覚悟はできているのか、と。おれの言葉を無視するな、と。
「ちがう、……!」
声にならない悲鳴が喉を震わせ、思考をかき乱す。
(違う……!)
仔猫が潰された光景が何度も何度もスローモーションでループする。振り払っても振り払っても、あの容赦のない音とともにしつこく脳裏によみがえってくる。こちらを見ていたわけでもないのに、仔猫の眼差しが、頭から離れない。
(やだ……)
息が、苦しい。
死を、考えようとしなかったから? でもそれは、考えろというほうが無理な話だ。
自分も、あんなふうに……?
(いや。やめて)
―――死が、やって来る。
(いや!)
情けもなく、容赦もなく、気がつけば目の前にそれは迫っている。
いやだ。なんでもいい。助けて。助けて!
離れなければ。少しでも遠くに逃げなければ。
追いかけてくる。
逃げても無駄だと、足音もなくそれは背後に迫り、けたけたと嗤っている。
(やだ!)
大きな顎を開けて、死はすぐそこで待ち構える。
すぐそこに―――。
(やめて!)
車に潰されたはずの仔猫が追いかけて来、血と肉にまみれた毛むくじゃらとなって、牙を剥いて襲いかかってくる。
(来ないで!)
逃げなければ。
どろりとした目で、それははるかを捕らえ、決して離さない。生々しく崩れた毛皮を引きずり、自らの肉を牙にまとわりつかせた仔猫だったモノ。小さかったソレは巨大な潰れた化け物へと姿を変え、背後からはるかを喰らおうと頭上を暗く覆う。鋭い牙の先から首筋へと血が滴り落ちてくる幻覚を、まざまざと肌に感じた。
(嘘ッ!)
「いやッ!」
腕を振り上げ、幻覚を追い払う。腕は空気を切るが、背中にのしかかる恐怖は消えてなくならない。
あの仔猫は、死神の遣いか。
死神が、やって来る。
潰れた仔猫に導かれて。あの大鎌で、命を奪いに。
次は、お前だ、と。
ヴェルフェンの黒い眼が、冷たく光ってはるかを捕らえる。
次はお前が、この刃にかかる番だと。
(考えちゃダメ。ダメ。お願い、お願いだから!)
死という概念の持つ途方もない虚無と恐怖が、はるかから退路を奪っていく。
死にたくない。
そんな思いすら嘲笑うかのように、死の恐怖ははるかを追いかけ、奈落の底へと引きずり落とそうと虚ろな眼を離さぬまま、血まみれの牙を剥くのだった。