天使 二-2
幻覚は、幻覚じゃないと自分で主張するのだろうか? 会話もこうして成立するものだろうか?
彼の言動は、想像や幻覚では腑に落ちないほど、あまりにもリアルすぎた。
(本物……?)
「死神……、なんですか……?」
「人間からは、そう捉えられている」
(『人間からは』って。すごい他人事。幽霊じゃないって、こと? 身体が透けてるのって、幽霊だけだって思ってたけど)
ヴァルドウが本当に死神かどうかは判らないが、彼から受けた死の宣告は一年後だ。どうしてなんの関係もないこの時期にまた姿を見せるのか。
「……」
不審もあらわに眉根をきつく寄せて、ただ見上げるばかりのはるかに、ヴァルドウは説くように言葉を重ねる。
「言ったよな、一年後に命が終わると。ここしばらくのお前の行動を見てると、おれが前に言ったこと、判っていないように見えるけど。……。―――聞いてるのか?」
「あの。その、ヴァルドウさん」
弱々しく口を開いたはるかに、ヴァルドウはふとなにかに思い当たるように眼差しを和らげ、
「ヴェルフェンだ。おれはヴェルフェンという。ヴァルドウは、種族の名のようなものだ」
艶やかなものを秘めた声で、そう告げた。
「あ。え、その。ヴェ、ヴェルフェンさん……」
「呼び捨てで構わない」
(死神を呼び捨て? いいの、それって……?)
ヤバくないかと内心困惑するものの、
「ヴェル……フェン……?」
「ああ」
恐々と唇に名を乗せると、ヴァルドウ―――ヴェルフェンは眼差しをいっそう和ませて頷いた。背景に花が見えてしまうほどその表情はあまりにも甘やかで、不謹慎にも胸の奥がとくんと疼いた。
死神らしくない彼の表情に、恐怖に固まっていたはずの全身に、疼いた胸から熱いなにかが駆け抜けていく。
(な。なに?)
自分の胸が起こした一瞬のざわめき。恐怖だけではないなにかが自分の中で揺らめいたことに、違う意味で怖さを感じた。
ずるいと思った。
見た目がいけないのだ。死神がかっこいいだなんて、聞いたもことない。ちょっと額が広いぞ、と、混乱しながらもなんとなくあら探しをしてしまう。
「―――あの。でも。そんないきなり死ぬなんて言われましても、ですね」
反論をするはるかに、ヴェルフェンの眼差しから表情がすっと消えた。黒色の瞳に、悲しげな色が浮かび上がる。
「信じてなかったんだな」
見捨てられたかのような、悲壮感溢れる声音。
「……だ、だって……。いきなり死ぬって、そうですかって信じられるひとは、いないんじゃないかと……思うん、ですけど……」
(なんか、ヤだな)
どうして、こんな切ない眼をするのだろう。まるでこちらがなにかをしたみたいで、落ち着かなくなる。
「それでも、おれがお前の命を狩るのは、決定事項だ」
一応、訊いてみる。
「あの。じゃあ、一年後の、いつなんですか? 死ぬっていうのは」
「詳しい日時は言えない」
「どうして死ぬんですか? 怪我? 病気? 事故?」
「……」
はるかに視線を留めるだけのヴェルフェン。僅かな変化も見逃すまいと見つめるも、彼の表情からは、なにも読み取れない。
「……。苦しむんですか? 痛いとか?」
これにも、返ってきたのは沈黙だけだった。
「そ、そんなんじゃ、なんにも教えてくれないんじゃ信じろって言うほうが無理です」
「それでも、信じてもらうしかない」
ヴェルフェンはまた歩を進め、ついにベッドの際にまでやってきた。
「そんなの……」
なんの手がかりも教えてくれないのに、一方的にただ死ぬのだと、それだけで信じろと言われても、無理に決まっている。
真剣な顔を崩さないヴェルフェン。冗談だと思いたい。彼の身体が透けていなかったら、その言葉自体、疑えたのに。
「はるかー。開けるよー」
「へ」
突然陽気な声が飛び込んできたと思ったら、いきなりドアが開いて、兄の康平が部屋に入ってきた。
「ほい。DVD借りてきた。この前言ってたヤツだって。―――わざとじゃないって」
硬い眼差しのはるかに、康平は憮然となる。
「悪かったって、忘れてた。次は絶対ちゃんと返事を待って開けるからさ」
「……ああ、うん……」
その言い訳は、数日前に返事を待たずにドアを開けた兄を怒鳴ったせいだ。
しかし、康平の反応はそれだけだった。
はるかとの間にヴェルフェンが立っているというのに、見えて―――いない? 死神の視線を受けているのに、平然としている。
「お兄ちゃん、見えてない?」
「あ? なにが?」
「なにがって……」
目の前に立っている半透明の白い男をだ。
康平は目をぱちくりさせるだけで、見事にヴェルフェンを無視してはるかを見遣るばかり。
「お前以外には見えない」
康平に向けていた顔をこちらに返し、ヴェルフェンは言う。今度ははるかが目を瞬かさせる番だった。
「見えもしないし聞こえもしない。よほど勘のいい者でない限り、気配も判らないだろう。おれが判るのは、お前だけだ」
(獲物……だから……?)
言い淀んでいる妹に、康平は気を取り直して話を続ける。
「高杉がさ、お前によろしくってよ。いっつもDVD借りてるんだから、飯くらい一回付き合ってやったら?」
「―――」
ヴェルフェンの気配が険しくなった気がして、はるかの顔が凍りつく。康平はそれを勘違いしたのか、
「あぁー、だよな。彼氏にばれたら大変だもんな」
「……もう、別れた」
「そうなの? だったら別にいいんじゃね? 高杉も期待してるわけだし」
康平はヴェルフェンを透かしてはるかとやりとりをする。はるかにはその状況が奇妙でならない。だがそれ以上に、だんだんと不機嫌なオーラを垂れ流してくるヴェルフェンに、内心気が気でなくなってくる。話の途中で割り込まれたことを怒っているのだろうか? それとも、まさか高杉を知っていて、彼になにか思うところがある、とか?
「えと、そんな気分じゃないし」
「ふぅん、そっか。じゃあ、まいっか。これ、ここに置いとくから」
「ん。ありがと。……高杉さんにもそう言っといて」
「ああ」
康平は棚の上にDVDを置くと、自室へと戻っていった。
「高杉とは、誰だ?」
「お兄ちゃんの友達だけど」
『誰だ』と訊いてきたということは、面識があるわけではないらしい。ヴェルフェンの声には隠しようのない険がある。やはり話が中断したことに機嫌を悪くしたのかもしれない。もしかして〝俺様〟? と思いながらもはるかははっとした。
「ちょっ、もしかして高杉さんになにかするつもりなんですか?」
「死のリスト次第だ。そこに載っていなければ、おれがどう思おうと、どうこうすることはできない」
死のリスト。当たり前のように言ってもらいたくない単語だ。そのリストにそってひとを殺していくのだろうか。
「……そこに、あたしの名前が、あったんですか?」
「そうだ」
初めて返ってきた質問に対する答えに、気分はずんと沈む。
「リストが間違ってるってことは……」
「ない」
「ホントなんですか? ちゃんとしっかり確認してください、載ってるわけないです」
「確かに載っている」
「何十年も先の間違いなんじゃ」
「一年後と言ったろう。実際はもう、一年切ってるぞ」
「あたしの名前を間違えてるとか」
「望月はるか」
「……リストを、なんか……読み間違えてるとか」
「間違えない」
断言するヴェルフェン。反論する材料を失くして、はるかはたまらず額に手を遣った。重たい息が出てきた。
「死ぬなんて、ありえないんですけど」
ヴェルフェンは、深い眼差しではるかを見下ろしている。
「生まれた以上、人間は必ず死ぬ」
「そんなこと」
「事実だ」
(やめてよ)
真面目な顔でおかしなことは言わないで欲しい。
「一年後って。ふざけないで。冗談、信じらんない。信じらんないよ」
「信じられなくても、お前の人生だ。真面目に考えろ。もう一年ないんだから」
だから、ありえないのに。
(考えろって……)
ヴェルフェンが見つめる中、はるかはうなだれて首を振ることしかできない。
どれくらい頭を抱えていただろう。気付くと、ヴェルフェンの視線が感じられない。
顔を上げると、そこにはもう、誰の姿もなかった。