別れ 三-3
「判った。ヴェルフェンには、会わないように、する。……気をつける」
「ああ」
否定して欲しいのに!
「―――もう、行くね。名前。新しい名前、あるのなら教えて。ヴェルフェンのいる場所には、行かないようにするから」
「……マレク」
「マレク? マレク、ね」
全然似合わない名前だ。
訣別する決心があるから名を伝えたのだろうか。『マレク』という名前ひとことにも、彼の拒絶を勘ぐってしまう。
この場から、離れたくなかった。
離れてしまったら、もう二度と逢えなくなる気がする。
自分のわがままの結果なのに、踏ん切りがつかない。
身体は錆びついてしまったかのように、ぎすぎすと悲鳴をあげている。
(行かなきゃ……)
高校のとき元彼から言われた言葉を思い出す。鬱陶しいよ、と。彼を失いたくなくて、手放したくなくて、振られたとどうしても認めたくなくて、必死に食い下がった末、冷たく浴びせられた言葉。
ヴェルフェンの口からそんな残酷な言葉は聞きたくなかった。そんな冷たい態度で終わらせたくなかった。
いつか、お互いの―――はるかの気持ちが収まった頃、立派にプオルスタヤとなれた頃、なにかの偶然でひょっこり逢えるかもしれない。そのときに、この別れになにか意味があったと判るのかもしれない。たとえ、いまは判らなくとも。
意味のある、別れなのだ。きっと。
なにもないかもしれないけれど、そう信じなければ気持ちを誤魔化せない。
(行かなきゃ……)
ヴェルフェンを前にして、脳裏に広がるのはこれまでのことばかりだった。
長いようで短い、あっという間の関係だった。
名を呼ばれて振り返った。そこからすべてが始まった。死への恐怖に打ちのめされたその果てに、生の壮大さに気がついた。彼の手によって人間としての生を終え、プオルスタヤを目指すようになった。生きたいという切実な思いを受け止め、人々の助けたいという願いの環に連なる自分自身の存在に気付いた。
そうして、自らの意思で選んだ、ヴェルフェンとの戦い。
「わがままばっかりで、ごめんね」
彼との時間のすべてが、愛おしくてならなかった。交わした言葉、表情、ふたりの間に流れていた空気。キス。
なにもかもすべてが、宝物だった。決して失くしたくない大切な思い出だった。
(行かなきゃ……。―――うん)
全身全霊で彼を恋う気持ちをなだめ、必死で作った笑顔をヴェルフェンに向けた。
ちゃんと笑顔になっているか自信はなかったけれど、彼に向ける最後の顔は、笑顔でありたかった。
「いままで、ありがとう。本当に、ありがとう。―――元気で」
「お前も」
ヴェルフェンはじっとはるかを見つめたまま、それだけを言った。なにかを堪えているようにも見えたが、はるかにはそれを解き放つことはできない。
だから、一歩、足を引いた。視界の中心からヴェルフェンの姿がそれる。その流れのまま、ゆっくりと顔を背け、背を向けた。
その、―――ときだった。
ぐいという強い力が腕に絡みついた。
「!」
視界がぐらりと揺れ、気付くと、腕を引かれ、広い胸にきつく抱き締められていた。
背中にまわされた強い腕に身動きがとれない。意識ごと奪われそうになる。
「行くなはるか。そばにいてくれ。おれのそばにいろ。どこにも行くな……!」
狂おしく耳元にほとばしる、まっすぐな言葉。
絡まりついたたくさんの思いを乱暴に払い落とす激しい声だった。彼のただひとつの気持ちが、痛いほどにまっすぐぶつかってくる。
はるかを失うことが怖い、怪我を負う姿を見たくない、責めたててしまうだろう自分が許せない。そんな百億千億の言い訳めいた言葉も、行くなというたったそのひと言の前にはなんの意味もなさなかった。
はるかをかき抱くヴェルフェン。彼女が動こうとすると、逃してなるものかとその腕に更に力がこめられる。
「はるか……! 行くな。頼む。そばにいてくれ」
「……!」
すべてが揺さぶられ、素直になりきれないあらゆる想いが無へとばらばらに散らされ昇華されていく。
ヴァルドウもプオルスタヤもない、ただの男と女、ヴェルフェンとはるかに引き戻される。己の本分も自身の過去や未来への余計な思いも、なにもかもがまっさらになる。
思うように動きなさいと言った、セスの言葉がよみがえる。
冥王の条件を呑んだのは、プオルスタヤの真似事を始めたのは、なによりもヴェルフェンへの想いからだ。
まっすぐに想いをぶつけられて、どうしてそれを拒否できようか。
(このまま……)
はるかは目を閉じ、はいと答えようと唇を薄く開け、息を吸い込む。
―――しかし、胸の小さな引っかかりが、頑なな現実へと彼女を引き戻してしまう。
(……ああ)
ヴェルフェンへの想いと同じくらいの、生への憧憬。
どうしても、その思いが邪魔をしてくる。
意識をそらそうとしても、譲れない思いが絡みついてきて逃してくれない。
ヴェルフェンが危惧した不安は、はるか自身にも起こりうるものだ。
頑固な自分が、腹立たしい。
やるせない思いが、吐息となって漏れ出でた。
自分は、罪深い裏切り者だ。愚かで残酷な女だ。
この胸に、素直に甘えればいいのに。
どうして彼の欲するものを与えてあげられないのか。自分の頑なさがどれだけ彼を苦しめているのか判っているはずなのに。
どれだけ、自分はわがままなのだろう。
どれだけ酷いのだろう。
はるかはそっと、ヴェルフェンの背に手を置いた。
「ごめん。……ごめん……」
静かに身体を起こすヴェルフェン。絶望とはこういうものかというほど、打ちのめされた顔をしていた。
彼はなにも言わず、縋るようにはるかを見つめる。そうして、幾千もの言葉を呑み込むようにして目をそらした。
「―――さよならだ」
そう言い残すと、苦い顔を最後に、ヴェルフェンは身を翻して輝く夜景へと消えていった。伸ばされたはるかの手が、彼を追う間もない。
一瞬の、静寂があった。
すべてが、無に還る静寂。
静寂の中、はるかは眼差しを、首を、ゆるりとめぐらせる。
―――いない。
夜景のどこにも、上空にも地の果てにも、見渡す限りどこにも、ヴェルフェンの姿はない。
暗い虚空に、ただひとりきりではるかは取り残されていた。
どこにも、いない。
胸に忍び込んでくる、冷たい現実。
「あ……」
ひとりきりだった。
堪えていた涙が一気に溢れ、まぶたの縁からこぼれ落ちた。
(あたし。なんてことを……!)
夜空にたったひとり残されて、その乾いた風にさらされて、はるかは自分の下した選択の愚かさを突きつけられた。彼を完全に失ったいまになって、激しい後悔に襲われる。
軽く伸ばされた手。いまのいままでヴェルフェンの胸に触れていた指先。彼に抱き締められていたのに、身体のどこにも、もうなんの名残りも残っていない。無情な風が、吹き抜けるばかりだった。
莫迦だ。
脳裏に浮かぶのは、彼の姿ばかりだった。笑顔の、そして悲しみに打ちひしがれる最後の顔。
自分は、手の施しようのない莫迦だ。
どうして「はい」と言えなかったのだろう。生きていた、それだけでよかったはずなのに。彼の無事を知って胸にこみ上げてきた喜びを、忘れたわけじゃないのに。
誰よりもなによりも大切な存在。ちゃんとそう判っていたのに。
莫迦だ。
プオルスタヤを諦めるべきだったのだ。
人間として生きてきた生の記憶が恨めしかった。生に執着する激情を知らなければ、彼を選ぶことができたのに。
自分が、こんなにも強情だったなんて。
「ヴェルフェン……」
彼への想いが止まらない。身勝手な想いでも、どんどん愛しさが溢れてくる。
自分で選んだ結果だ。
判ってる。
どうしようもない。
どうしようもない。そう判っているけれど―――。
涙が、止まらない。
泣く資格なんて、ないのに。
莫迦で、愚かで、どうしようもない。
日本に帰って、気持ちをゼロにしてやり直そう。
プオルスタヤになる。ただそれだけを頑張るのだ。
ヴェルフェンを失ってまで決意したのに、プオルスタヤになれないでは話にならない。
(ああ……)
目を転じれば、残酷なまでに美しい夜景。
どうしてひとはこんな綺麗な光景を作り出すのだろう。どうしてこの光の渦に呑まれ、消えてしまえないのだろう。
許してもらえないとは思っていたけれど。
拒絶されるかもしれないと思ってはいたけれど。
こんなにも、堪えるとは。
こんな想いをするためにヴェルフェンを探したわけじゃなかった。こんな別れを迎えるために、逢いに来たわけじゃなかった。
(泣いちゃ、だめ)
はるかは天を仰ぐ。
ここでヴェルフェンを想って泣くのはあまりにも身勝手だ。
こぼれる涙を指で拭う。拭っても拭っても、止めることができない。涙なんて流れるはずがないのに、虚ろな寂しさに激しく想いが揺さぶられて、あとからあとから溢れてくる。
(―――いまだけ、だから)
必ず、プオルスタヤになる。そのためならどんな困難だって堪えてみせる。
けれど、いまだけは。
止まらない。止められない。
(ヴェルフェン……!)
いまだけは、涙を流していたかった。




