天使 二-1
平穏な日々が、それから半月ほど続いた。
毎日の彼氏へのメールがなくなったことや、週末を楽しみに思う気持ちはしおれてしまったが、これでもかというほど激しく泣いてしまうと、意外にもあっさり吹っきることができた。あんなにも大好きだったのに、失恋の痛手は、思ったよりも浅いらしい。
一日が過ぎるごと、恋しい逢いたいどうしてという想いは薄らいでゆき、いきなり遭遇したあの幽霊とのやりとりも、次第に忘れつつあった。
そんなある夜、自室のベッドでエリに借りたコミックを読んでいると、ふと背後に気配を感じた。
家族ならば部屋に入る前に声をかけてくるはず。
だからこの気配は、両親や兄のものではない。
どこかぴんと張り詰めたものを窺わせながらも、かといって厳しいだけではない柔らかさをもはらんだ気配。
こんな気配、知らない。
知らないけれど、部屋にいきなり現れる気配となったら、ひとつしかない。
(まさか。もしか、する……?)
記憶の向こうに押しやっていたうすら寒い恐怖が、のそりと頭をもたげて背筋を這い上がってくる。
そんなはずないと自分に言い聞かせながらも、恐るおそる首を動かした。
「!」
こちらに留められていた黒い瞳と、目が合ってしまった。
「おれのこと、覚えてたって顔だよな」
例の幽霊が、部屋の真ん中に立っていた。狼のような凛とした眼差しが、はるかを見据えている。
背中の大鎌は禍々しいものの、全身白ずくめですっと立つそのさまは正直かっこよくて、つい目の保養だと感じてしまう。そんな自分が、ゲンキンすぎてなんだか情けない。
こちらへと一歩を踏みだそうとする幽霊に、はるかは急いで枕の下に手を差し入れ、取り出したものをさっとかざした。
「? ―――なんのつもりだ?」
怪訝に幽霊は眉をひそめる。
どうだと言わんばかりの勢いで示すはるかの手の中には、小さな御守り袋が納まっていた。
「……」
「それより」
どうでもいいことのように幽霊はそのまま一歩を踏み出した。
「!?」
(ちょ、な、なんで動けるの!?)
顔色の変わったはるかに、幽霊の足が止まる。
「どうした?」
「御札……御札なのに……」
はるかが掲げているのは、エリからもらった悪霊除けの御札だった。これがあれば身の安全は保証されると思ってたのに、目の前の幽霊は平然としている。ぷるぷると手が震えた。
ならばこれはどうだと思い直して、更に胸元からペンダントを引き出した。ペンダントヘッドは十字架である。悪魔ならば、十字架に恐れをなして退散するはず。
幽霊は目の前に示された十字架に数瞬怪訝な表情をしていたものの、彼女の行動に合点がいったのか、苦笑いを小さく浮かべた。
「おれは幽霊でも悪魔でもない。それが本物だとしても、おれには効かない」
「! 違うの……!?」
「おれはヴァルドウだ。人間の感覚で言うと、死神が一番近い」
「しに、がみ……」
彼が口にした音は、すぐには漢字に置き換わらなかった。
(しにがみって、死神、の、しにがみ……、ってこと、だよね、これって)
目の前の大きな鎌から連想されるのは、そうして以前伝えられた言葉から導かれるのは、死を司る存在の死神しか出てこなかった。
白い服を着ているのに、天使ではなく死神。
死。
頭の中を、大鎌を振りまわす黒ずくめの西洋の死神や、髑髏姿で人間に取り憑く日本の死神のイメージが駆けめぐる。
(ホントに?)
本当だとしたら、幽霊よりもたちが悪い。
死神がもたらすものは、ひとつだけ。まして自分は、彼から宣告を受けている。
(だって死神っていったら真っ黒なマントでしょ、普通)
とはいえ、死神ではなく幽霊であっても、そうでない他の存在であったとしても、目の前に半分身体が透けているモノが迫ってきているこの状況が、かなり由々しき事態だという現実に変わりはない。
ヴァルドウは更に一歩と近付いてくる。
死神がいるだなんて、まさか、信じられない。もしかすると、自分を死神だと思い込んでいる幽霊とか?
(でも幽霊に足があるのもなんかヘンだし。それか、外国の幽霊には足があるとか?)
それ以前に、幽霊は存在するのか? 死神でなければ、幽霊でもいいのか?
頭の中がこんがらがってきてわけが判らなくなる。そんなはるかに構わず、彼は長い足を動かし近付いてくる。
狭い部屋だ。数歩動けばすぐに間近になる。
踏み出される一歩が、急に恐ろしくなった。
「こ……ないで、ください……」
恐怖に固まる喉から懸命に押し出した訴えに、ヴァルドウの声が重なる。
「この前言ったこと、覚えてるよな?」
「……」
脳裏に、いつかの声がよみがえる。その声をまるで辿るかのように、目の前の青年は同じことを口にした。
「お前の命を、一年後、貰いに来る。そう言ったはずだ」
じっと見つめるヴァルドウの眼差しは、息もできないほど真剣でまっすぐだった。あまりにも近い距離からまっすぐに瞳の底までを見通すものだから、意識も思考も気持ちもすべて絡め取られてくらくらする。めまいがしそうだ。
「ちゃんと、判ってるのか?」
これは、―――夢?
ヴァルドウに視線が囚われたまま、はるかは指の横腹に親指の爪を食い込ませる。
(痛い……)
反対側の手でも爪を立ててみたが、返ってくるのは痛みだけ。目が覚めて場面が転換する気配もない。
本人は死神だと言っているが、死神だろうがコスプレしてる幽霊だろうが、整った顔立ちと容姿を持つこんな場違いなひとが二度も会いに来るだなんて、由々しき状況どころかもう夢だとしか思えないし、そう思いたかった。
それとも、振られたショックが想像以上に大きくて、幻覚を見ているのかもしれない。
幻覚なら、御札が効かないことも、かっこいい顔立ちも、死神だったり身体が透けているのもすべて納得がいく。
「ストレス……たまってるのかな……」
ほろりと言葉が漏れた。
その発言に、ヴァルドウの片眉が気に食わな気にはねる。
「なにが」
「リアルな幻覚だし」
「……おれを幻覚扱いするな」
怒るというよりもどこか傷付いたように言うヴァルドウ。しかし、身体が透けている死神を見て、現実と信じるひとは普通はいない。
ただ、なにも引っかからないわけではない。