別れ 三-1
―――きらびやかな夜景を眼下にし、そう言ったセスの声音に満ちた優しさを、はるかは思い出していた。
ヴェルフェンの生存を知って、七ヵ月が経っていた。
アメリカに渡ってはみたものの、その行方は杳として知れない。彼がアメリカにとどまっているかどうかも判らない。
死のリストのどこにも、ヴァルドウの該当部分に『ヴェルフェン』を示すものがない。名を奪われたとセスは言っていたけれど、新しい名前があるのか、それはどんな名前なのか、それとも名前も与えられていないのか、なにひとつ判っていない―――。
いまどこでなにをして、なにを思っているのだろう。
はるかは途方に暮れていた。どこを探せばいいのか判らなかった。人間世界は、あまりにも広すぎた。
輝くこの夜景のどこかに、本当にいるのだろうか。
階級がないということは、人間にも祓われやすく、プオルスタヤとの戦いでも、能力を充分に発揮できず負けやすい、らしい。彼は、もう消滅してしまったのでは。ときおり襲いくるそんな不安に、心は萎えそうになる。
はるかはじっと光に目を向けた。
闇に浮かぶ光の絨毯はまるで、人間の主張のようだ。わたしたちはここにいる。ここに生きている。いまここで、自由に生を謳歌している。何者にも邪魔はさせやしない、と。
強く、その存在を示している。
生きる、という生命の強さ。なんてまっすぐで眩しいのだろう。
人工の光は、生命の放つ強い閃光にも見える。
魂の輝き。
自分も、このような強い輝きを放っていたのだろうか。
ヴェルフェンを魅了したという輝きを。
戦い合う前、最後にまっすぐに射られた彼のあの眼差しがよみがえる。怒濤のようにそれは押し寄せて、胸を熱くかき乱す。
逢いたい。
―――不安だった。
ヴェルフェンは、無事だとしても逢ってくれるだろうか。
許してくれるのだろうか。
彼と戦う決断を後悔してはいないけれど、もう以前のようには想ってくれないかもしれない。彼を裏切って勝手に将来を壊す行動をとったのだから仕方がない。
恨んだだろう。絶望しただろう。
彼を探すたび、ふと湧き起る拒絶されるかもしれないという不安に、何度も何度も押し潰されそうになる。
それでも。
逢いたい。
逢いたくてたまらなかった。
莫迦だな考えすぎだと、笑ってこの不安を払って欲しかった。おれたちは変わらないよと、抱き締めて欲しかった。
(都合よすぎる……よね……)
餓えるほどに、無性に逢いたかった。
はるかの意識は、気付けば地上の銀河に吸い込まれていく。
どれだけそうしていただろう。
ぼんやり光の洪水を見下ろしていた視界の隅に、引っかかるものを感じた。
闇の中にあって白く、けれど溢れる光に紛れることのない、ひたすらに眩しい影だった。
懐かしい、そのシルエット。
肌が、粟立つ。
向こうは、見つめるはるかにまったく気付いてない。
身体は、考える前に動いていた。
空を、強く蹴った。
「ヴェル、ヴェルフェンッ!」
掠れた叫びに、夜景を見つめていたのか、こちらに背を向けていた影がびくりと震えた。
ぎこちなく向けられる顔。目を瞠るも、何故か真冬の湖面のような、奇妙な静けさがあった。
「―――はるか」
間近で止まったはるかに懐かしい声がかけられる。
仄かな笑みを、彼は浮かべる。
「目が覚めたんだな。身体は、大丈夫か? 無理してないか?」
「うん……」
「そうか」
そう言ったきり、ヴェルフェンは口を閉ざす。肌の上をなぞるように這わされる視線も、どこか目を合わせるのを避けているように感じられる。
いつもと、違う。うなじの後ろが引き攣るような噛み合わない違和感が、彼との間にあった。
狂おしいほどに逢いたかったのに、ヴェルフェンはすごく冷静で、全然、感情の高まりが感じられない。
「仕事……まだ残ってるの?」
「いや。今日のぶんは終わった」
彼の眼差しは、はるかの背後に広がる夜景へと流れる。
よそよそしい。
違う―――知らない、ヴェルフェンの姿だ。
彼の気持ちは、やはりもう離れてしまったのだと、悟らざるを得ない。
(あたしだけ……だったんだ)
ヴェルフェンを見つけた嬉しさは、萎むように小さくなっていく。
「あの……逢いたくて……、ヴェルフェンと戦ったって話を、その、聞いて……」
「ああ」
どこか重たいその頷き。同意にも、単なる相槌にも受け取れる曖昧な返答。
彼の心が、届いてこない。次の言葉が、見つからない。
(やだよ。いやだ、こんなの)
「……ごめん、なさい……」
はるかの謝罪に、ヴェルフェンは問うように眼差しを返す。
「あのときあたし、裏切るようなことして。一緒に頑張ってきたのに。怒ってる……よね」
「そんなことは」
小さく首を振るヴェルフェン。
「こういう立場だ。遅かれ早かれ、いつかは戦うことになったんだ。あのときはおれが、負けた。それだけだ」
「『それだけ』じゃないでしょ? そのせいでヴェルフェン辛い思いしてるのに。あたしの勝手のせいで……」
ヴェルフェンは口を閉ざす。視線を外したままの顔は、苦しさを堪えているように見えた。
「―――譲れなかったんだろ?」
「……」
「あいつを助けたいと。譲れなかった。あのときのお前の眼は、……魂を貰い受けたときの眼に、どこか似てた」
「!」
「当然だよな。お前は、人間の生を知ってる。生きたいという強い思いを、どんなプオルスタヤよりも肌身で知ってる。彼らの、代弁者だ。……こうなることは必然だったんだ。お前のせいじゃない」
感情の削ぎ落された、諦めばかりが滲むやるせない声だった。
遠い眼差し。そのまま、どこかへ去っていくかのような。
地上の光に呑まれてしまうかと思えるほどに、彼の存在は遠かった。
たまらず、はるかはヴェルフェンの腕をとった。ヴェルフェンの表情が、一瞬無防備になる。
「あたしたちだめなの? もうだめなの?」
「……」
訴えるはるかに、ヴェルフェンは逡巡を見せた。答えを探しているのか、視線をさまよわせ、ためらいがちに口を開く。
「どうなんだろうな。判らないよ、おれにも」
あのとき。
戦いの果てに瀕死の状態となったはるかを、なんとしても助けたかった。あのまま処分の道を辿らせたくなかった。はるかはなにも悪くない。すべての元凶は自分だ。だから自分はどうなってもいい、はるかだけは助けて欲しいと、そう冥王に懇願した。
冥王は告げたのだ。
『提示した期限内に目覚めることができたなら、小娘の選択肢を増やそう。輪廻の環に戻れるというな。あやつも懲りて人間が恋しくなったろう。だが目覚めることができなければ、その時点でお前もろともに消す。それまで処分は保留としよう』
冥王の言葉は、更に続く。はるかが輪廻の環を選ばず、そのまま三三三回の奇跡を起こせたとき、最初の希望どおりヴェルフェンに寄り添える道と、彼女が望むならば正式なプオルスタヤに任じる道も用意しよう、と。
はるかが逢いに来てくれたのは、輪廻の環に戻らなかった証だ。けれど、ヴェルフェンが最も望む形を彼女が選ぶとは、どうしても思えなかった。
ヴェルフェンの弱い返答に、はるかは息を呑む。
「あたしのこと、もう、どうでもよくなっちゃった……?」
「……」
ヴェルフェンはなにも言わない。それはきっと、消極的な肯定なのかもしれない。
はるかは、次の言葉を見つけることができなかった。
「プオルスタヤ、目指してるんだろう?」
静かに、けれど硬い表情でヴェルフェンは訊く。
「……うん。あと四十七人で、プオルスタヤになれる。ヴェルフェンが、いろいろ助けてくれたから……。あの。ありがとう……すごく、嬉しかった、よ」
セスから示された第三の道。ヴェルフェンのそばにただ一緒にいるという、一番最初に求めた道。
もちろんはるかは選ばないつもりだ。悩まなかったと言えば嘘になる。けれど、『プオルスタヤ』を知ったいま、その責務の放棄はどうしても考えられなかった。
はるかの言葉を噛みしめるように沈黙するヴェルフェン。
「―――判ってるんだよな。プオルスタヤになるってことは、おれたち、敵対する存在になるってことを。いままでみたいに一時的なものじゃなく」
「うん……」
切ない顔で、黙り込むヴェルフェン。
「反対、なの?」
ヴェルフェンの曇ったままの表情が、無情にも胸に重たいものを落とす。はるかに課せられた条件を負ってくれた彼だ。賛成してくれるとばかり思っていた。
なのに。
「賛成は、……できない」
沈黙のあとに返ってきた言葉は、訣別をほのめかすものだった。




