別れ 二
その話を聞いたのは、満月の集会のときだった。
プオルスタヤは満月の夜、雲の上で集会を開く。ヴァルドウの情報を交換したり、どこかの国の情勢を教え合ったり、久しぶりに会う仲間と談笑したりとさまざまだ。
はるかが集会に参加できるようになって、二年が過ぎていた。複数のプオルスタヤで協力してヴァルドウに臨んだり、死のリストから、どのヴァルドウが現れるかの予測の仕方を学んだりした。戦いで怪我を負っても、月の光を浴びれば治癒が早くなることも教わった。
喪失を振り切るようにヴァルドウに挑み続けていたこともあってか、大鎌を奪えた回数は一気に二百を超え、正式なプオルスタヤに任命される日も近いだろう。
その話を聞いてはやる気持ちを抑えきれず、はるかは震える喉のまま声をあげた。
「ヴェルフェンは生きてるんですか!?」
はるかはプオルスタヤを統括するセス――はるかと最初に対面をしたあのプオルスタヤ――のもとを訪れ、彼女を問い詰める。
カウリという名のプオルスタヤが、アメリカはアトランタで、ヴェルフェンと思われるヴァルドウに遭遇したというのだ。
セスは、はるかが来ることを予想していたようだった。ちらりとはるかの背後で様子を窺うカウリを見る。セスと目が合い、こちらに来ようとする彼を、眼差しで遠慮させる。
「カウリさんがヴェルフェンにやられたって! どういうことなんですか」
「ヴェルフェンに会ったと、カウリが言ったの?」
興奮してまくしたてるはるかに、セスは静かに答えた。
「え……と。ヴェルフェンに、すごく似てるヴァルドウって……」
セスの落ち着いた様子に、はるかの勢いはそがれていく。足元をゆったりとたゆたう雲のように、セスは静謐な空気を乱さない。
「階級もないのに、ものすごく強くて。顔つきや仕草や声が、ヴェルフェンそっくりだったって。―――だって、でも……、ヴェルフェンは処分されたってセスさま言ってて」
「消されたともね」
「誰なんです、あれは」
「誰だと思う?」
「―――え」
逆に問い返してきたセスに、意表を突かれた。―――いや、胸の底の奥深くで、淡く期待していた反応だ。セスの表情を縋るように見つめ返す。
「あなたは、誰だと思ったの?」
セスの深く透明な目が、はるかの想いを揺さぶり鷲摑みにする。はるかは身体の前で拳をぎゅっと握り締めた。
「ヴェルフェン……、ヴェルフェンです」
セスはいったん、なにかを思うように目を閉じ、まっすぐにはるかを見た。
「―――そうよ。カウリが遭遇したのは、きっとヴェルフェンね」
「!」
セスの肯定に、頭の中で絡まりあっていた不安や疑念が一気にほどけて、真っ白になる。
「しょ、処分されたって、だってあのとき!」
「あのヴァルドウを諦めてもらうためよ」
表情ひとつ変えず、セスは答える。
「プオルスタヤとヴァルドウが想い合うなんて、笑い話にもならない。ありえないこと、あってはならないことだわ。冥王陛下も同じお考えよ」
セスの声が、頭の中でがんがんと響いていた。
ヴェルフェンは、生きている……?
「あなたが聞いたとおり、彼は生きているわ。階級自体剥奪されて、名を奪われて。あなたと会うことも禁じられた。でも、消されはしなかった」
苦々しく口を歪めるセス。いつも穏やかにプオルスタヤの面倒を見ている彼女がこんな顔をするのは珍しい。
「―――どうして、ですか」
彼が生存できたその理由が、はるかには判らなかった。
「あなたが、正式なプオルスタヤではなかったからよ」
「!」
胸を突かれた。
確かに、半人前の見習いの身分だ。〝プオルスタヤ〟に大鎌を奪われるなと、あのとき冥王は言っていた。
(あたしが……)
半人前だったから。
セスは、思わず己の胸に手をやったはるかをじっと見つめる。
「真剣にあなたと戦ったことも、評価されたようよ」
ヴェルフェンは、生きている。
―――生きていた。
胸に遣っていた手に、力がこもる。
二度と逢えないと思っていた。もう思い出の中でしか逢えないと。
胸に失くしたはずの熱い想いが広がっていく。その潤んだ想いに、自分の心がいままでひどく乾いていたことをあらためて思い知らされる。
はるかはまっすぐにセスを見上げた。
「ずっと黙っていただなんて、ひどいです」
ふたりの関係が許されないものだとは判っていた。けれど、真実が隠されていただなんて。
どれほど彼を想い、胸を痛めていたか知らないでもないのに。
はるかは呻かずにはいられなかった。
冥王は、好き放題振りまわしてくれる。
「ヴェルフェンが生きていると隠しても、すぐに真実は知られてしまうわ。けれどあのときは、彼が死んだと伝えなければならなかった。あなたがプオルスタヤを選ぶ理由に、あの者の存在があってはならなかったから。―――できることなら、あのまま思い切って欲しかった。あの者を忘れてもらう時間が欲しかったのも、正直なところ」
憂いがちではあったが、セスは表情を柔らかに和ませた。
「あなたに与えられた条件の緩和。あれはね、あなたの条件を自分が負うとヴェルフェンが主張したからなのよ。悔しいけれど、彼はあなたがプオルスタヤになる道を選ぶと知っていたみたいね」
「知って……?」
諦めてくれと懇願したヴェルフェン。
あのヴェルフェンが?
無防備な顔になったはるかに、セスは頷く。
「あなたがわたしたちと一緒にいられる代わりに、彼は他のヴァルドウとの接触を禁じられている。あなたに少しでも有利になるようにと、いろいろ不自由を自ら背負い込んでいるわ。あなたのためになるならそれで構わないからと」
「そんな……」
急に動きやすくなった背景に、ヴェルフェンがいただなんて。
「伝えなければならないことがあるわ」
やや緊張をはらんだ声でセスは言った。じっと、はるかの眼を覗き込む。
「陛下からの条件を達成したあと、正式なプオルスタヤにならなくとも、本来の目的どおりただ彼のそばにいる、という道も、本当はある」
「え?」
「プオルスタヤになる必要はない、ということ」
「……」
はるかの眼差しが、問うように揺れる。
「あの者と戦う心配もなくなるわ。彼と一緒にいたいというあなたの本来の目的は、まだ有効なの。ヴェルフェンの生存を知ったときでないと伝えられなかったから、いまになってしまったけれど。―――どうしていくのか、身の振り方を、そのときまでに考えておきなさい」
「……」
突然降って湧いた選択肢に、はるかは戸惑い、言葉を失う。
生きていたヴェルフェン。そんな彼のそばにただいられるという、消え果てたはずの道。
「以前も言ったけど、わたしたちはあなたを歓迎している。貴重な戦力であり、なにより大切な仲間だもの。失いたくはない。わたしたちと一緒にいてもらいたい。あのときあなたの出した答えを信じてる。あなたがプオルスタヤでいることを選ぶと、判ってはいる」
セスは、はるかをプオルスタヤとして既に認めてくれている。彼女を手放したくない心情が、その声音からも判る。
そのまま説得に入るかと思われたが、セスは儚げな笑みを見せた。
「でも……ね。あなたにとって一番大切な『誰か』は、残念だけど、わたしたちの誰でもないわ。あなたを、命令して無理にこちら側に縛りつけることはできない」
はるかが、ヴェルフェンを失った悲しみにいまだ囚われていることを、セスは知っている。彼を強く想っていることも。
「あなたは、まだ正式なプオルスタヤではないわ。プオルスタヤだのヴァルドウだのというしがらみに悩む必要はない。選択は、望むように自由に、誰憚ることなくできるわ。―――思うように動きなさい」
(え?)
セスのまとう空気が、微妙に変わる。なにかを、暗に示して……いる?
「よく……」
判らない。
「……、あの……?」
混乱したままのはるかに、セスはややためらい、耳元に顔を近付け、
「ヴェルフェンはあなたに会いに来ることはできない。でも、あなたはどうだったかしら」
囁くようにそう言った。
はっとして眼差しだけでセスを見ると、なにかを――思い当たるのはひとつしかないけれど――含む眼をこちらに寄越していた。
「動けるのはあなただけ。あの者の生存を知ったいま、あなたをなにが阻むというの?」
はるかは、声をひそめたセスの意図に気付かざるをえない。
彼女は、もしかして―――?
セスは寂しげに淡い笑みを浮かべる。
「なにかに抵抗する者を応援したくなるのは、プオルスタヤだからかしらね。わたしたちにはあなたが必要なのに」
はるかはためらいためらい、彷徨わせていた目を上げた。
「あたしの気持ちは……、変わって、ないです。なにもせずに、ヴェルフェンのただそばにいることは、できないし……」
「はるか」
「生きたいっていう思いが目の前にあるのに……、じゃなくて……、―――怖い……」
ヴェルフェンが生きていると聞いてから胸で渦巻いていた、堪えきれない気持ちの揺れが、唇からほろりとこぼれ落ちた。
「怖い?」
怪訝な顔を返すセスに、助けを求めるように言葉をほとばしらせる。
「だってあたし、ヴェルフェンを裏切って、自分の思いをごり押ししました。いまさら、許してくれるとは、思えないし、逢いに行って突き放されるかもと思うと……。逢いたいけど……、あたしからしか逢えないってなると、怖くて、たまらない」
弱気になるはるかを、セスはじっと優しい眼差しで包み込む。
「辛い結果を突きつけられるくらいなら、なにもしたくない?」
自信なげにためらいながらも、小さく頷くはるか。セスは困ったように息をつく。
「あなたらしくもないわね。たとえ恨んでいても憎んでいても、彼があなたを理解しているのは、事実よ。悔しいけれど。逢うのが怖いと思うのは……そうね、そうかもしれないわね。でもね。冥王陛下が認めたあなたなら、たとえ恨まれて突き放されたとしても、道を拓いていくと思うわ。逢いたくてたまらないのでしょう? だったら、自分の胸にある思いに正直になればいいの。ぶつかっていきなさい。そうやってあなたは陛下と渡りあって、ヴェルフェンとのこれからを勝ち取ろうとしたのでしょう?」
「セスさま……」
セスの言うことは、確かにそうだ。
どれだけ拒絶されても突き放されても、逢いたい気持ちが消えるわけじゃない。本当にそうなってしまったらと、とてつもない恐怖心に潰されそうになるけれど、逢いたい気持ちがなくなるわけじゃない。
一歩を踏み出さなければ、きっとずっと思い悩み続けるに決まっている。悩んで悩んで、それで結局気持ちを決めた頃には時機を逸していたのだとしたら。
怖くても、逢いたいという気持ちは、確かにあるのだ。
怖気づいて、どうする。
はるかとヴェルフェンとの関係をよしとしないのに、セスは頭から反対することなく、逆に応援してくれている。力付けてくれている。
どうしてと尋ねてみると、
「ヴェルフェンを恋うあなたの姿は痛々しくて。こんな強い想いを、わたしたちは知らない。苦難に抗いながらも想い合う……。人間界、冥界を巻き込む恋なんて、そうそうあるものじゃないわ。打ちひしがれて空元気なあなたを見ずに済むよう、ちゃんと決着をつけてきて欲しいの。仲間が無理をする姿は、見たくないのよ。―――あなたを振りまわしたこちらが言う言葉でもないけれどね」
セスはそう小さく笑って言ったのだった。




