第三章 別れ 一-1
ぼんやりと目が覚めた。
澄み渡った夜空に、白い月が冴えざえと光を投げかけている。
(眩しい……)
瞬きをゆっくりと繰り返す。
何故、目の前にこんな光景が広がっているのか、はるかには判らなかった。ここがどこでいつなのか、なにがあったのか。そんな疑問すら浮かばない。
静かだ。
あまりにも透明な静けさに、心地の良い虚無感が身体中に沁み渡る。
横になった身体の下を流れるのは、ゆったりと凪いだ銀の雲海。
頬に当たる白い月光が、とても心地よかった。
「気がついたようね」
眠るようにたゆたうはるかの耳を、女性の柔らかな声が打つ。意識の底に緩やかにその声が届いて目を転じると、濃紺の衣に身を包んだ美しい女性がこちらを優しく見つめていた。
プオルスタヤだ。
間近にするのは、初めてだった。
どうして、こんな近くに……?
「よかった。あなた、助かったのよ」
優しく微笑む彼女に、意味が判らずはるかは怪訝な眼差しを返した。プオルスタヤは包み込むような深い顔をする。
「二年近くずっと眠り続けていたから、心配した。ヴェルフェンとの戦いで、あなた消えてしまうところだったのよ」
「―――ヴェルフェン……?」
掠れた声が唇から漏れた。それに呼び覚まされたかのように突然、脳裏に閃光が走り、手術室での死闘がよみがえった。
そうして、最後に見た彼の表情も。
「ヴェル、ヴェルフェン! ヴェルフェンはッ!?」
はるかは飛び起き、せき込むように訊く。プオルスタヤの背後にも、周囲を見まわしても、あるのは輝く雲海の広がりばかりで、ヴェルフェンの姿はどこにもない。
彼の大鎌を奪い、命の蔓を断ってからの記憶が抜け落ちている。二年も経っただなんて、あれからいったいどうなったのか。
ヴァルドウから大鎌を奪った。けれど、その相手はヴェルフェンだ。冥王との約束は、どうなるのだろう。
プオルスタヤは答えなかった。静かにはるかを見つめ返すだけの彼女に、不安は恐怖となって、じわりと胸を締めつけていく。
はるかは、自らの意思で、冥王との約束を棄てた。どんな結果が待っているのか、見当もつかない。
冥王の決定はどうなるのか―――どうなったのか。自分がいまここでこうしている状況は、なにを意味しているのか。処罰は、これから行われるのだろうか。
なにもかもが、はるかには判らない。
ただヴェルフェンがいないそのことが、はるかの思いを不穏に波立たせる。
「ヴェルフェンは、どこなんですか」
詰め寄るはるかに、プオルスタヤは苦い顔を返した。
「彼はいないわ。処分された。あなたに大鎌を奪われたことでね」
「!」
目を瞠る彼女に、プオルスタヤは残酷な言葉を重ねる。
「冥王陛下自らの御手によって消されたわ。ヴェルフェンは、もう存在しない」
「う嘘……だ……」
喉がわなないた。
なにも言わずにヴェルフェンがいなくなるなんて、そんなはずはない。自分の意識がない間に処分されただなんて、信じない、信じられない、信じたくない。
なにかの、間違いだ。そうに決まっている。
冥王は、与えられた条件を果たせなくなったときは、ともに処分をすると言っていた。ともに、と。
なにも言わずひとりで先にどうにかなってしまうだなんて、考えられない。
「ヴェルフェンに会わせて。あたしが目を覚ましたって、伝えてください」
「ヴェルフェンは、いないの」
プオルスタヤは念を押すようにゆっくりと言い聞かせる。
「処分されたのよ。もう、とっくの昔に」
「なら……、あたしもこれから……?」
はるかに意識がなかったから、先にヴェルフェンが処分されたのだろうか。ならばこうして目を覚ましたはるかに待ち受けるのは、保留されていた処分だ。
なかば覚悟をもって訊くはるかに、しかしプオルスタヤは首を振る。
「いいえ。処分は、ヴェルフェンだけ」
「? でも処分は一緒って……」
「あなたには価値があったの。プオルスタヤとしての価値が、見出された。だから、陛下はあなたの処分を取りやめるとお決めになった」
「え……。どういう……こと、ですか」
「あなたへの処分は、免除された、ということ」
プオルスタヤの眼差しは揺るぎなくて、同情に溢れていて―――かえって疎ましくさえあった。
「ヴェルフェンはね、とにかく強くて、わたしたちの間では、決して戦いたくないヴァルドウのひとりにあげられている。陛下から例の条件を出されてからは凄まじい執念で、誰も大鎌を奪えなくなった。でもあなたにはできた。決して戦うべきでないのに、あなたは戦うことを自ら選んだ。誰が見ても不利な状況を、身を賭して逆転させた。ヴァルドウと人間との絆を断つという、プオルスタヤの使命を最優先したその決断を、陛下は評価なさったの。―――でもヴェルフェンは負けたわ。大鎌を奪われた。陛下の出された条件を、満たすことができなかった」
だから彼だけが処分された。プオルスタヤの眼差しは、残酷な事実をはるかに突きつけた。
ヴェルフェンだけが、処分された―――?
小さく、首を振る。
信じられない。
ヴェルフェンだけだなんて。自分だけが助かっただなんて。
(あたしが、あたしのせいで……)
清涼な月明かりが、雲海に青い影を落としている。そこに、たったふたりきり。
どこまでもふたりしかいなかった。
ここにヴェルフェンがいない理由が他に見つからない。
仕事? だとしたら、プオルスタヤは何故そう言わない? 彼女の揺るぎのない表情は、どう説明するのか。
頼りになるのは、このプオルスタヤの言葉だけだ。
そうして、信じたくなくても、彼女の言葉は確かに理にかなっていた。
はるかは勝ち、ヴェルフェンは負けた。
「そんな……」
プオルスタヤは、呆然とするばかりのはるかをただじっと見つめている。
こんな結末は、望んでいない。
「嘘、ですよね……?」
身体は正直だ。涙が溢れた。
「ヴェルフェン、仕事で、いないだけですよね? 嘘だって。大丈夫って、生きてるって……」
「いいえ。彼は負けたのよ。あなたは勝ち、認められた」
「生きてるって、お願いです」
「はるか」
諭すようにプオルスタヤ。どうしても認められない。
強く首を振る。
信じられない。
信じてはいけない。
「ヴェルフェン!」
はるかは強く叫んだ。立ち上がり、見渡す限りなにもない雲海に首をめぐらせその姿を探す。
「ヴェルフェン、どこ! あたし……、ここに来て! ヴェルフェン! 逢いに来てよ! 逢いたいの、ヴェルフェン……! ヴェルフェン!」
悲鳴を喉からほとばしらせながら、はるかは雲海をあてどもなく彷徨い探す。
「隠れてないでお願い。お願いだから、意地悪しないで。逢いたいの……!」
莫迦だな、なにをしているんだと呆れられてもいい、たったひと目でいいから姿を見たかった。逢いたかった。
ヴェルフェンを呼ぶ声は、ほとばしらせるそばから月光と雲海に消えていく。
どこまで行っても、銀の雲海だけが空の果てまで続いている。薄青い光が照らすのは、雲の穏やかな流れと、遠く空の向こうを行く飛行機の仄かな明かりのみ。
名を呼んでも叫んでも、どこを見渡しても、愛しい姿も気配も現れない。
探すごと、名を呼ぶごと、無力感ばかりが募りゆく。
「はるか」
はるかの耳に届いたのは、愛しい彼の声ではなく、プオルスタヤの静かな声だった。後を追ってきたのだろう彼女は、髪ひと筋すら乱れていない。先程と同じ姿で、はるかを見つめるばかりだった
ヴェルフェンが、どこにもいない―――!
その現実は、はるかの中で彼女を支えていた望みを、脆く崩していく。
(あたしのせいだ)
はるかは泣きそうな思いでプオルスタヤに向き直った。
「ヴェルフェンは……、ヴェルフェンは反対したんです、諦めてくれって。悪いのはあたしなんです。どうして。どうしてヴェルフェンだけが。あたしたち……一緒って言ってたのに。どうしてあたしだけ。冥界の王が嘘つくなんて」
「言葉に気をつけなさい」
「事実じゃないですか!」
「陛下の決定を覆させるほど、あなたのしたことは意味あることだったのよ。―――正直ね、誰も、あなたがヴェルフェンと戦うとは思っていなかった。譲るとばかり思っていた」
「!」
「皆が、あなたの決断に驚いたわ。決して戦ってはならない相手だもの」
「……」
「諦めることもできたはずよ。あんな傷だらけの身体で危険を冒して、必ず勝つ必要はなかった。彼だけは相手に選ぶべきじゃないと判っていたはず。別のヴァルドウの大鎌を奪うことだけを考えていればよかったのに、あなたは、敢えて戦おうと決めた」
たたみかけるようなプオルスタヤの言葉。
「戦いを選んだことで、評価されたのよ。あの者と一緒でありたかったのなら、退くべきだった。戦うべきじゃなかった、勝つべきじゃなかった」
「そんな……」
命が狩られる光景を黙って見ていろというのか。たくさんの想いのこめられた生への絆を、なにもせず断ち切られるのをよしとせよと?
よしと、せよと?
「だから、あなただけが助かったのよ」
どちらかを諦めなければならなかったのだ。
高木の命を見捨てるべきだった。
自分たちの未来を確実にするために。
なんのためにヴェルフェンははるかに死期を教えたのか。彼の想い。そのひたむきさ。ヴァルドウとして罪を犯しながらもヴェルフェンははるかを選んでくれたというのに。
その彼を、はるかは。
(裏切ったんだ、あたしは……)
途方もないほど大きな愛情を注いでくれたヴェルフェン。その彼に報いるためには、高木の命、たったひとりの命だけでよかったのだ、それから目をそらすべきだった。
消防士、救命士、医師、看護師たち。たったひとつの命に連なるあのすべての環を、断ち切るべきだった。
死を前に儚く消えゆこうとする魂を、見捨てるべきだった、と……!
「……ッ!」
(そんなこと!)
―――できるわけがない。
彼らの懸命さを間近にして、ひとが持つ生命に無様に縋りつく貪欲さを身をもって知っているからこそ、たったひとつの命でも目の前で散らしたくはなかった。
その、自分のエゴが。
(ヴェルフェンを、殺しちゃったんだ……)
「―――ッ」
感情の昂りは彼女から言葉を奪った。生命への憧憬も、ヴェルフェンを愛しいと感じたことも、思考も理性も、すべてが音をたてて崩れた。
なにもかもが疎ましかった。
名前の知らない激しい感情が狂おしくはるかを責めたて、内側から想いを壊していく。
プオルスタヤとしての自分を自覚しなければ、ヴェルフェンとの未来は繋がっていた。
どちらかを選ばなければならなかった。
生を求める思いを繋げようとした結果与えられたのは、己の希望を打ち砕く非情な現実。
判っている。
これでヴェルフェンとの関係が終わってしまうと、判っていた。覚悟をしていた。
けれど。
たったひとり生き残るはずではなかった。
最期まで一緒のはずだった。
ひとりではないはずだったのに。
「あぁぁッ! ―――ぅあああああぁぁぁッ!!」
はるかは、吠えるように泣いた。




