対峙する者 一-3
愕然と目を瞠る。ただ、それしかできない。
信じられなかった。
ひと差し指でとんとんと頭を叩き、ヴァルドウは嫌味たらしく勝ち誇った笑みを浮かべる。
起き上がれない。わなわなと唇は震え、拳を握り締めることしかできなかった。
「莫迦な子」
ヴァルドウは呆然とするはるかの頭上を二、三度からかうように舞うと、するりと闇に消えていった。
炎に焼かれる熱さに、身体が悲鳴をあげた。我に返り、慌てて這うように炎から逃れる。
目に映るのは、動かなくなった誰かの身体。あちこちが黒く焦げ、煤けている。
(うそ……)
炎から逃れたその場所で、ついに力という力が尽きてしまった。
痛みが、重たく絡みついている。それ以上に全身を苛んでいるのは、目前で結果を攫われた己の不甲斐なさがえぐる胸の痛みだ。自身の愚かしさが、底のない絶望へと現実を引きずり込んでいく。
何故、気付かなかったのか。
すぐ近くにいたというのに。生きていたというのに。
意識を引く感覚に、どうして気付かなかったのか。
(うそだ……)
ヴァルドウに、踊らされたなど。
信じられない。
自分の浅はかさを見透かされていた。
(なんてことを)
ヴァルドウは大鎌を背に収めることによって、命の蔓を一時的に途切れさせたのだ。死のリストに載った人間がはるかの近くにいると知り、そこから彼女を引き離すために。敢えて、命の蔓をいったん収めたのだ。
おかしいと思うべきだった。文字どおりの致命的なミス。
もっと、焦らずに心を落ち着かせてさえいれば、どんなにかすかなものであっても、あのひとの気配を辿れたに違いなかったのに。どうして視覚に頼ってしまったのか。
自分しかいなかったのに。自分こそが、命を繋ぐ最後の望みだったのに。
あのひとの人生を、受け継ぐことができなかった。未来を、繋げられなかった。
すべての時間を、止めてしまった。
まなじりからこぼれる涙。
泣いてどうする。
浅い言い訳にしかならない。
簡単に奪われる命なんてないのに。なにひとつない。それなのに。
(あたしのせいだ……!)
自分の判断が甘かったせいで。
力が出ないなど、贅沢な言い訳でしかない。
痛みに悲鳴をあげる身体を叱咤し、はるかは這ってあの人間のもとに戻った。
瓦礫の隙間から爛れた顔が覗いていた。男性なのか女性なのか、崩れてしまって判別ができない。
「ゆるして……」
頬に指先を重ねると、あたたかさが返ってくる。あの業火の中、このひとはなにを思ったのだろう。熱かったろう、苦しかったろう。生きたかったろう。
どんな人生を送ってきたのだろう。なにを祈り、なにを願ったのか。
自分のときは、期限の決められた残りの人生をどう生きるべきか、どうすべきか悩む時間があった。けれど、このひとには。このひとたちには。
すべてが、一瞬で。
(なにも、できる時間もなかったんだ……)
炎に巻かれ、命を落とすまでの長くはない時間。このひとは、いったいなにを考え、なにを遺そうとし、なにを訴えようとしたのだろう。
助けてと叫ぶ時間はあったのだろうか。そうしてその声は、どこかに、誰かの耳に届いたのだろうか。
はるかには、判るすべもない。
なにひとつ判らない。もう、逝ってしまったのだから。みすみす逝かせてしまったのだから。
もう、取り戻せない。
自分が、その時間を止めてしまったのだから。
いままで経てきた時間、これからの未来、そのすべてを、守りきることができなかった。
身体を目の前に、責められている気がした。
お前のせいで。お前がしっかりしないせいで。
生きたかったのに。
お前のせいで!
人生を返せ―――と。
(そのとおりじゃないの)
このひとを殺したのは、
(あたしだ……)
腹立たしかった。
一瞬の気の緩みを生んでしまった自分の愚かさがどうしようもなく腹立たしくて、情けなかった。
涙を流すなど、おこがましい。それで許されるはずもないのに。
身悶えるようにして、はるかは己の愚かさを嘆いた。
なにひとつ、自分はできていない……!
そのときだった。
崩折れるはるかの耳が、弱々しくくぐもった電子音を捉えた。消防士が出動中万一の場合、その位置を知らせる携帯警報器の音だ。消防士たちがはっと一斉に顔を見合わせ、その音の源を探し、駆け出していく。
最初に捜していた場所よりも離れたところに、彼らは呼ばれ引き寄せられる。
「―――あ、いたッ! いたぞ! おい、しっかりしろッ!」
自己嫌悪に沈むばかりのはるかの意識を、消防士の弾ける声が鋭く貫いていく。
「高木ッ! 大丈夫か、返事をしろッ!」
「早く! おい、気ィつけろ!」
緊迫した声が響き渡る。炎を煽る風が、倒れ込むはるかの横をゆらりと通り過ぎてゆく。あたりの空気は、一気に変化する。消防士たちは、少し離れた場所に集まり、アパートの残骸を掘り起こしていた。
「息があるッ!」
誰かが叫んだ。一気に、場が活気付く。
「こっちだ!」
「どけ!」
間近に、煤に汚れた消防士が迫っていた。彼の持つホースからほとばしる水が、赤く燃え上がる炎をねじ伏せていく。
時間が、流れている。
火が消えていく。きな臭さはまだ風に流れているが、舞い上がっていた埃もほぼ落ち着いてきている。
ぼんやりと、はるかは消防士たちの緊迫した、けれど希望にみなぎる動きを目に映していた。
消防士の声は、仲間の命を繋ごうと鋭く響く。
「よし急げ! 莫迦、揺らすんじゃねえッ!」
担架に乗せられ運ばれる消防士、高木。防火衣は無残に焦げ、ぐったりとその身体は動かない。
「もう少しだ、辛抱しろよ」
「気をつけろ!」
「大丈夫か、しっかりしろよ」
周囲を警戒して厳しい声を飛ばしながらも、消防士たちは担架の動かない仲間に、声をかけていく。
目が、離せなかった。
「莫迦野郎! 二〇六の要救護者を早く探せ!」
「はいッ」
互いに協力し合い、現場を掌握していく消防士たち。
熱い思いが、痛いほど伝わってくる。
すとんとなにかが胸の底に落ちて、嵌まり込んだ。
ああ、と思った。
はるかだけではなかった。
ひとの命を繋ごうと懸命になるのは、プオルスタヤだけではない。
ひともまた、ひとを助けていく。
その絆を、情熱を絶やしてはならない。
未来へと繋げるのだ。それが、最終地点ですべてを委ねられるプオルスタヤの使命。
命はまだ、続いているのだから。
続いていくのだ。
―――続けていくのだ。
(あたしが……!)
もう、動けないと思った。
力という力を使い果たしていた。どこにも残っていないはずだった。痛みはすべての感覚を奪い去り、既に気力すら傷口から流れ出ていた。
なのに、自然に身体が動いた。
自分でも不思議だった。どうして動けるのだろう。どうして、あの消防士のもとへと行けるのだろう。
救急車に乗せられた消防士の隣に、はるかは倒れるようにして乗り込んだ。
着けられた酸素マスクが、彼の吐く息で弱々しく曇る。
生きている。まだ、彼は生きている。
泣きたくなるほど、たったそれだけのことが嬉しい。
「頑張ってください、高木さん……」
知り合いなのであろう救急隊員が祈るように呟く。彼の真摯な眼差しに、はるかはふと気がついた。
自分を突き動かしたのは、彼らの思いなのだと。
ひとからひとへと死への抵抗は受け継がれていく。彼らの思いが力となって、伝わってくる。はるかの力となって、希望となって、たったひとつの願いに向かってほとばしっていく。
命を守る戦いは、決してプオルスタヤだけの孤独なものではなかったのだ。




