対峙する者 一-2
激しい熱は煉獄を思わせた。二〇六号室はまさに炎の中にあった。息ができない。喉が、胸が凄まじい熱を受けて焼け爛れていく―――その感覚が、はるかを苦しめる。
これはまやかし。本当は、なにも影響は受けてはいない。
この熱さも、気のせい。
(焼かれてなんかない。違うから、気のせいだから!)
息を吸うごと、一歩足を進めるごと、はるかは自分にそう言い聞かせて前へ前へと進んでいく。
炎と煙をかき分け、狭い視界の中、はるかは要救助者を探す。
(どこ―――?)
意識の隅を引っ張られる感触に、はるかは己の感覚を任せる。どういうわけか、プオルスタヤとなってから、死にさらされた人間から呼ばれるような、そんな感覚が具わった気がするのだ。
細い、いまにも途切れてしまいそうなかすかな手がかりに神経を研ぎ澄まし、はるかは灼熱地獄の中を行く。消防士たちの動きから二階の一番奥の部屋に足を踏み入れたはいいが、部屋のどこに行けばいいのか、熱と煙と炎に煽られて、肝心の意識を引く感覚に集中ができない。
ようやく煙の向こう、窓際にぐったりと倒れるふたつのモノが見えた。
その手前に立つ白い影が、倒れたモノにいままさになにかを振り下ろしている。
―――ヴァルドウ。
背筋を冷たい緊張が走る。
周囲を検める。プオルスタヤは、いない。
はるかが白い影から視線を離したのは、一瞬にも満たない時間だった。その間に影は大鎌を引き抜き、隣のモノへと振り上げる。
全身が、総毛立つ。
考える間もなかった。はるかは白い影に飛びかかった。
突然現れたはるかに、ヴァルドウははっと目を瞠る。女だった。炎に照らされた肌は赤い。初めて見る顔だ。
そのヴァルドウは尋常でない強さではるかを圧倒した。攻撃は、倍になって返ってくる。蹴りを思いきり見舞っても、逆に跳ね返され、拳を突き立てれば腕をへし折られる。大鎌の刃はいたぶるように身体を裂き、燃える炎は熱と煙ではるかを焼き尽くした。立っているのもままならない。見事としか言いようのないくらい、はるかはぼろぼろに打ちのめされるばかりだ。
どう考えても劣勢すぎた。勝ち目なんて、全然ない。
いままでだったら、ここで諦めていた。―――いままでだったら。
(ダメよ)
倒れてはいけない。
近くに倒れるひと影を、はるかは思う。
このひとから、未来を奪わせてなるものか。
生きるのだから。
(生き残ってやるんだから)
はるかはヴァルドウに拳を振り上げた。軽くかわされる。そのまま身体を蹴りつけ宙を飛ぶヴァルドウ。振り仰いだはるかの目に、獲物を狩る獰猛な死の使いが映る。
倒れる人間に振りかざされる巨大な鎌が、炎に照らされ、ぎらりと妖しく輝く。
いけない。
思う間もなく、身体は既に反応していた。
まばたきの時間もない。
はるかは床を蹴り、動くことを忘れた人間と白を纏う死との間に滑り込んだ。
顔の前でクロスさせた腕に、大鎌の柄が重く叩き込まれた。凄まじい衝撃に全身が砕かれそうになる。大鎌の湾曲した刃は、はるかの顔のすぐそばを通り、肩を越えてその先は背筋に刺さっていた。腕からと背中からのえぐられる痛みに、呻き声さえこぼせない。
それでも、止められた。
目の前に、邪魔をされ怒りを露わにさせたヴァルドウの顔が迫る。
「お前……!」
腕を落とされてもいい。生きてやるのだ、なんとしても。
ぎりぎりと歯を食いしばり、言葉もなくヴァルドウを睨み据える。
この腕を、絶対に離すものか。
細身のヴァルドウの身体からは想像もつかない重圧が、大鎌にかけられる。獣のような唸りが、懸命に堪えるはるかの喉からこぼれる。
一歩も譲らぬ強い眼差しで睨み合う両者。
ヴァルドウはひとつ舌打ちをし、大鎌を引き抜いて振り上げた。その胸が無防備になる一瞬をはるかは見逃さなかった。
「ぅわぁぁ!」
すぐさま床を蹴り、力任せにぶつかった。勢いあまって、ヴァルドウとともに燃える壁に激突をする。
そのせい、ではないのだろう。
突然、部屋が大きく傾いだ。
「!?」
いきなり沈みだした床に、平衡感覚が混乱をする。足元が崩れ、燃える梁やら壁やらが容赦なく降ってきた。逆巻く埃に視界は暗転し、自分の居場所、ヴァルドウの位置、人間がどこにいるのかが判らなくなる。
なだれる熱風。乱暴なまでの轟音が襲いかかってきた。
―――その衝撃が収まるまで、どれほどの時間が過ぎたのだろう。一瞬のことなのか、それ以上の時間なのか。
最初に目に映ったのは、夜空に舞う火の粉だった。埃はもうもうと辺りを覆い、火はいまだ消えていない。渦巻く土埃と煙の間から、炎は酸素を求めて更に天高く伸びていく。
耳が周囲の喧騒を拾う。炎の音、がれきを踏む音、誰かの叫び。アパートだった残骸が熱に軋む音。荒れ狂う風の音。どこかに放水される水の音。
はるかは我に返り、はっと飛び起きた。身体中が傷だらけで、身を起こすだけで容赦ない痛みに襲われる。腕が、足が、ちぎれそうだ。
痛みと汚れた空気に堪えながら荒い息を整える。文字どおり天地もなくひっくり返って混乱した思考を、なにが起きたのかと整理する。
はるかがいたのは二階。なのに、地面がここに、手のひらの下にある。
頭上の漆黒の夜空。立ち上がる煙。解放された空間。
炎と水に負けたアパートが、もろく倒壊したのだ。
呆然と言葉を失うはるかの頭を、悲鳴のような叫びが鋭く貫いた。
「高木ィ! 返事しやがれ!」
近くで、消防士が色を失い慌てていた。
「早く! 早くこっちだッ!」
噴き出す炎に放水しながら、後方からやって来た消防士は、懸命に瓦礫をあさる別の隊員に駆け寄る。
「高木! 高木ーッ!」
狂ったように叫ぶ消防士にはるかはぞっとする。確かそれは、隣家から突入した消防士の名前ではなかったか。高木という消防士が、どこかに下敷きになって……いる?
(! あのひとは!?)
はるかは目を転じた。見えるところにあの人物は、いない。ヴァルドウを探す。どこにいる? あのひとの命は?
首をめぐらせ視線をあちこちに投げかけながら、瀕死だったあのひとを探す。もぎとられそうな身体の痛みにかかずらっている場合ではない。
自分がいままでいた場所はどのあたりか。アパートはどう崩れたのか。
いきなりのことで判るはずもないけれど、そんなの、言い訳にならない。
ヴァルドウは、もしかして既に命を攫ってしまったのか?
最悪の事態も頭の隅に置きながら、それでも希望に縋って白い色を探す。
悔しいけれど、動くことのできない人間から呼ばれる感覚よりも、ヴァルドウの白い色のほうが目につきやすい。
「!」
土煙が落ち着いてくると、すぐ近くの炎の中に、その姿は現れた。
何故か大鎌を背に収めて、じっと足元を見つめている。はるかの視線に気付いたのか、こちらにちらりと目をよこした。目が合うと、にやりと唇を歪ませ、大鎌に手を伸ばす。
(うそ、あの炎の中……!?)
炎の中で、あの人間は焼かれようとしているのか。ただでさえ、命の瀬戸際という危うい状態にいたというのに。
一瞬の目測で距離を測る。
この距離なら、間に合う。
はるかは力を振り絞って瓦礫を蹴った。ヴァルドウが大鎌をわざわざ背に収めて余裕な顔をしているのは、こちらを人間上がりだと見くびっているせいか?
(莫迦にして……!)
眼前に迫るヴァルドウ。伸ばしたはるかの手は大鎌を摑むはずだった。
―――が。
突然、ヴァルドウの姿が消えた。
(え……!?)
目標を見失い、はるかはヴァルドウがいた場所に頭から突っ込んだ。とどまることを知らない傍若無人の炎が、激しい熱ではるかを焼きつける。
転んだその目が、空に身を翻すヴァルドウの姿を捉える。体勢を整えられないまま、はるかは見た。
(!)
ヴァルドウが、いまのいままで彼女のいた場所に大鎌を突き立てるのを―――。
赤黒い塊が、はるかの目の前でずるりと彼女の胸へと吸い込まれていく。大鎌が青白い、淡い色を発して夜闇に輝く。
命が狩られた瞬間だった。




