第二章 対峙する者 一-1
男がなにげなく灰皿に置いた煙草は、ゆらりと揺れて、ソファへと落ちていった。
転がり落ちた煙草は、気付かれることのないまま、クッションの間に転がり込む。
「うん、それないって。でさ、この前のことだけど」
男は携帯に夢中だった。ソファの灰皿に置いた煙草のことなどすっかり忘れ、新たな一本に火を点けた。
「そんなんありかよ。うん、うん。でもさあ、アイツが言うにはさ」
クッションの隙間に落ちた火は埃に宿り、少しずつ少しずつ脈動をし、明るさを増していった。男がソファに沈める身体を動かすたびにそれは成長をし、クッションカバーへと根を下ろしていく。
「判った。じゃ、そっち行くわ。おう。おう」
携帯を切り、男は立ち上がるとクローゼットから上着を出した。あっと思い出してソファに置いていた灰皿を振り返ると、煙草の火は消えている。指さし確認も忘れない。そのまま車のキーを取ると、後ろも見ずに部屋を後にした。
クッションに隠れた小さな火は、綿埃と酸素の助けを受け、徐々に周囲を焦がしていく。
ぽ、と炎が生まれた。
炎は立ち上がり、かぶさっていた別のクッションを舐め始める。
煙が、空気に混じりだした。
西には向かっていたが、特にどこかの町を目指していたわけではなかった。
上空から慎重に下界を窺う毎日が続いていた。ひとの歩く速さで、ゆっくりと町から町へと渡る。
時には遠く向こうに、ヴァルドウと戦うプオルスタヤを目にしたことがあった。
これまでも、そういうことはままあった。以前は、「助けるひとを取られた」と焦燥感を募らせたが、いまはもう違う。
自分ができないぶん、あのプオルスタヤが戦ってくれている。代わりに生きようと抵抗してくれている。
祖父の死をきっかけに、そう思えるようになった。
そんな凪いだ心はまた、彼女の眼を冷静にもさせる。
彼らはヴァルドウとどう戦うのか。客観的に、その様子を観察できた。
無駄のない動き。
まるで駆け引きのように、プオルスタヤはヴァルドウを翻弄する。引くに見せて突き、突くに見せてひらりと身をかわす。
はるかと決定的に異なっているのは、やはり武器を使用していることだ。手にする戦鎚で大鎌を受け止め、跳ね返し、ヴァルドウへと鋭く打ち込む。
武器の存在は、やはり戦いを有利に運ぶために必要なものだ。
(それでも、やらなきゃ)
武器のないことは、敗北の言い訳にはならないのだから。
夜の町は美しい。
そそり立つビルに輝く窓の明かり。そこに映りこむ車のヘッドライトの流れ。めまぐるしく移り変わるLED広告の明かりは、人々の欲望を快楽へと誘う。人間世界のすべてが、足元に広がる光の町に凝縮されている。
宇宙のような夜景だ。
はるかはそう思いながら、この日も町を上空から見つめていた。
知らない町であっても同じような光景。同じような光景であっても、そこに生きるひとたちは誰ひとりとして同じ顔をしてはおらず、歩んでいる人生も皆それぞれ違う。
数えきれない膨大な数の人生の一瞬が、目の前に広がっている。自分ひとりでは想像もつかないほどのたくさんのひとの生き様が、雑多な思いが、時間のすべてが、目の前に広がるこの一瞬に閉じ込められている。
はるかはその、矛盾めいた相反する光景が好きだった。
特に世界を覆い隠す夜の闇に抗うように明かりを煌々と灯し続ける姿は、大いなる力に決して屈しはしないという無力な抵抗にも思えて、同時に、地上にさながら宇宙を描けるほどのしたたかさをも示してすらいる。
ひとは宇宙から生まれ、宇宙を創りだしている。
宝石のようにまばゆく輝く宇宙の中に、人々は生きている。
その、ウロボロスの環のような永遠性と儚さ。
この夜景そのものが、ひとつの生命体のようだ。
(命が、輝いてるみたい……)
うっとりと目を細めたはるかの視界に、赤い光が突然鋭く飛び込んできた。
激しく回転する光。サイレンの音も聞こえてくる。
我に返って目を凝らしたとき、広い車道に消防車が躍り出てきた。何台もそれらは連なり、人々の注目を集めていく。
周囲を見まわす。プオルスタヤは、―――いない。
彼女は消防車を追い、下界へと降りていった。
きな臭さが、まず鼻についた。深い藍色の夜空に、赤い回転灯と遠く火の粉が舞っている。
町から道を幾つか入ったそこは、発展から取り残された観のある家々やアパートがひしめき建ち並ぶ地区だった。普段は静かな一帯だろうが、この夜ばかりは、どこからわいたか野次馬たちの興奮にざわめいている。
交通規制か消火栓の関係か、現場に繋がる道路の入り口に、消防車が一台居座っていた。火の気配のない道にもホースはうねり、その先に消防車が控えている。
ホースを辿り、ひとごみのほうへとはるかは導かれる。
現場に近付くごと、騒々しさは重なり増していく。行きかう消防士。漂う煙。歩道に溢れる野次馬。がなる無線。眩しく躍る炎とそれに照らされる夜空―――。
炎に包まれたアパートは、不謹慎にも鮮やかで美しかった。
「誰がいないって!?」
報告を受けた消防士が声を荒げる。
「確認が取れないのは一〇五号室の広沢さん、二〇六号室の吉村さんと小暮さんの三名です!」
「三人!」
「広沢さんは車がないので、外出した可能性があるとのことです」
「二〇六!」
年長の消防士は舌打ちをする。二〇六号室はアパートの一番奥。道は細く、隣家が邪魔をしてなかなか侵入ができない。夜風は放水する消防士を追うように吹いており、煽られた炎は彼らを嘲笑って燃え上がるばかり。このままではアパートどころか、隣家にまで炎は燃え移ってしまう。
そればかりはなんとしてでも食い止めなければ。
「向こうからはだめか!」
「高木と武内が行ってます」
「援護しろ!」
「はいッ」
消防士が現場に戻る。はるかは彼のあとを追いかけた。
煙がものすごい。灼熱の煙は、風に逆らう勢いで渦を巻いている。燃えさかるアパートは、不気味な音を立てて荒々しく空気を焼いていた。
近寄るのは容易ではない。現場に戻った消防士は仲間に指示を与え、放水の向きを変えていく。
しばらくすると、降り注ぐ水の向こうに、ふたつのひとかげが現れた。鎧武者を彷彿とさせる雄々しい存在感。反対側の隣家から侵入した別動隊だった。放水しながら突入するも、火の勢いは弱まる気配を見せない。
三人の行方が判っていない。
そのうちのふたりは、奥にある二〇六号室にいるかもしれない―――。
部屋との間を阻む、猛る炎が目に映る。
肉体がないのがありがたかった。意識だけの存在だから、容赦のない灼熱を堪えてさえいれば、炎の中に飛び込める。
けれどこの中にいるのは人間という肉体を持った存在だ。熱く焦げた煙を吸い、肺は焼けてしまっているかもしれない。大火傷を負っているかもしれない。有毒な煙に、命が―――。
行かなければ。
頭では判っているのに、足は動いてくれない。
肉体がないからこそ、怪我や火傷の心配もなく炎に飛び込めるのだ。行かなくてどうする。
そう、判っているのに。
木材のはぜる音が、耳に飛び込んできた。
傍若無人に荒ぶる炎の輝きは間近に迫り、前に立つただそれだけで舐められ焼き尽くされそうだ。
炎は突入しようとするはるかを嘲笑い、阻むように凄まじい熱で押し返してくる。
足が、すくんでいる。
炎が自分に移ることはなくても、さすがに身長よりも高く燃え上がる中を突き進むのには、かなりの勇気がいる。
―――怖い。
人間が――人間だった自分が――火を怖れるのは、根源的な恐怖だ。
ぎゅっと目を閉じる。
逃げたい。
身体は焼かれなくても、熱いことに変わりはない。背筋を震わす恐怖に屈しそうになる。
それでも、
(行かなくちゃ……!)
怯んでいる場合ではない。
大丈夫。熱いと感じるのは思い込みだ。肉体がないのだ、熱いわけがない。
熱いわけがない。
火傷も怪我も、ありえない。
炎にあぶられた熱風が、はるかの顔を焼いていく。
違う。大丈夫。気のせいだから。気のせいで熱いだけ。死ぬわけがない。肉体が焼かれることは、ない。大丈夫。
耳に容赦なく襲いくる轟音。目を閉じていても照らしてくる炎の揺らめき。
(熱い……!)
肉体がないからこそ、逆に熱さには限界がない。
本当に、この熱は気のせいなのだろうか? そんな疑念も生まれてくる。
―――頑張れ。行くんだ、あたし。
生きたいと闘っているひとがいる。助けて欲しいと、悲鳴をあげるひとがいる。
あの幼児の眼差しが、祖父の最期の苦しみが、自分が生きてきたすべてが、はるかの身体に力をみなぎらせてゆく。
(大丈夫)
呼ばれている。
プオルスタヤがこの炎に焼かれることは、ない。ないのだ。
きつく閉じていたまぶたを、静かにはるかは上げる。
自分を待つひとが、炎の向こうにいる。
ひとつ大きな息を吐き出し、はるかは灼熱の中へと飛び込んだ。




