プオルスタヤ 四-1
なにがあってもなにもなくても、太陽が沈めば夜が来て、星が天をまわると東の空は明るくなる。
ヴァルドウと対峙ができても、勝てない日々が無情にも過ぎていくばかりだった。
一日が、一週間が、ひと月がただ虚しく過ぎるたび、まったく結果の出せない自分に、追い立てられるように焦る気持ちばかりが募っていく。
一人でも多くの命を救わなければならないのに。確実にヴァルドウから大鎌を奪っていかなければならないのに、このままでは本当に、三三三回の奇跡に間に合わない。
(急がないといけないのに……)
勝てない。
焦ったって、どうにもならない。
判ってはいるけれど、ときどきどうしようもなく悲鳴をあげたくなる。
あちらの町、こちらの町。ふらふらと彷徨うようにして結果を求めるけれど、どの町でも望む結果を得ることができない。
どこに行けば勝てるのか。戦鎚があれば。条件がもっと軽かったら。
どうしようもないことばかりが頭を占めてくる。
ないものをねだっても、どうにもならない。
判っている。
すべてその条件でいいと受け入れたのは自分自身だ。
だから、この状況でやり抜かなければならない。
―――判っている。
判っているけれど、もう、どうすればいいのか限界で、なにもかもが判らなくなっていた。
昼過ぎまで町を濡らした雨は雲の流れと共に去っていき、代わってその金色に輝く雲の向こうに、赤く染まりだした空が顔を覗かせていた。
ゆるい風はまだ湿っている。沈む太陽を背に、はるかは見覚えのある町に立っていた。
はるかの祖父、望月英介は自宅の居間でプロ野球中継を観ていた。中日対巨人戦。巨人が二点リードしている。名古屋人だけあり、英介は根っからの中日ファンだ。ビール片手に、応援に忙しい。
「ビールはそこまでにしてくださいよ。それ以上飲むんだったら、食後のお饅頭、もうなしにしますからね」
キッチンから伯母の声が飛んでくる。
「うるさいうるさい、黙っとれ!」
言いながらも、一瞬手元のグラスに複雑な目を落とす英介。
(おじいちゃん、相変わらずだよな)
口では大きなことを言いながらも、こっそりと気弱な面もあったりする祖父に、はるかは苦笑する。
父方の祖父はもともと細身のひとだったが、ここ数年、はるかがたまに顔を見に来るたびふくよかになっていっている。伯母から「お饅頭の食べ過ぎ」と言われ続けているのは、はるかが生きているときからだったけれど。
すぐそばに孫がいることなどもちろん知るはずもなく、英介はテレビにかじりついていた。
久しぶりに見る祖父は、体型が変わったにもかかわらず小さく見えた。思い出の姿よりも、当たり前だがずっと老けている。
テレビがわっとわいた。七回裏、中日の攻撃。四番が低めの球を打ったのだ。満塁だった。球は大きく伸び、ホームランになるかと誰もが期待した。はるかもつい画面に見入ってしまう。身を乗り出し、球の行方を追う英介。しかし打球は僅かに勢いが足りず、ぎりぎりのところで外野手に取られてしまった。
(惜しい!)
「うゥわ!」
英介の隣で同じく中継を観ていた伯父が悲鳴をあげた。
「なにやっとるんだぁ」
「なんでそんなもん打つんだ!」
伯父も英介に負けず劣らずの中日ファンだった。
「どうしたの?」
怒鳴るふたりが気になったのか、キッチンから伯母が顔を出した。
「ああうるさい。もうええわ」
伯父は鬱陶しげに彼女を追い払う。それを見て、伯母の顔がにんまりと明るくなった。
「中日、負けた?」
「負けとらせんわ」
「まだ負けとるんでしょ」
「うるさいッ。あっち行きゃあ!」
「ほほほ。やっぱし巨人が勝つんだわ」
そう上機嫌で言い残し、伯母は向こうに戻っていく。名古屋人にしては珍しく、彼女は巨人ファンだった。
結局次の回も、中日は一点も取ることができず、とうとう九回を迎えた。
「抑えろ抑えろ。こんな女みたいなの、とっとと潰したりゃあいいんだわ」
祖父は苛々とビールをあおった。
―――と。
一瞬、動きが止まる。その手から、グラスが滑った。
英介の膝で跳ね、テーブルにぶつかり、金色の液体を散らしながら床へと派手に落ちた。
はるかの目が、大きく瞠られる。
英介は胸を摑んで顔を苦悶に歪ませている。発作だった。はるかが生きていたときから、祖父は心臓を悪くしていた。
伯父が英介に手を伸ばす。英介の顔は青く、胸をかきむしる手は真っ白だった。
「おじいちゃんッ」
伯父の悲鳴に、はるかははっとした。
「おじいちゃん、しっかりして! お母さん! おばあちゃん!」
居間の異変に、伯母が飛び込んできた。
「きゅう救急車ッ! 一一九番!」
「判った!」
どたどたと伯母が居間の反対側へと電話をかけに走る。
発作は激しい。ぎりぎりと歯を食いしばり、脂汗が浮かんでいる。
「! おじいさん……」
祖母が駆け込んできた。ソファで苦しみ悶える夫の姿に、へなへなとその場に崩れ落ちる。
「なにしとんの! こっち来やあてっ!」
伯父の叱咤に、それでも祖母は動けない。響く裏返った伯母の声。救急車を呼んでいるのだが、混乱していてうまく伝えられない。
「おじいちゃん」
はるかは英介のそばに膝をついて、震える手を背中に添える。すり抜けてしまうと判っていても、手を差し伸べずにはいられなかった。
「おじいちゃん、だめ。頑張って!」
それしか言えなかった。周囲を見まわす。ヴァルドウの気配はない。まだ祖父は死ぬわけじゃない。この苦しみは越えられるから。
「頑張って、おじいちゃん! しっかりして、大丈夫だからッ! 大丈夫だから!」
最後のひとことを口にした瞬間、背後の空気がすっと冷たくなった気がした。ぎくりとして振り返ると、壁の中から、白い染みがにじみ出てくる。
染みは、あっという間にひとの形をとった。ヴァルドウだ。
「やだ……」
足元から、恐怖が冷たく這い上ってくる。
顔を上げるヴァルドウ。赤い金の髪に白い肌、ぎらりと鋭い輝きを宿す水色の瞳。見覚えのある背の高い姿―――グァルディだった。
グァルディははるかを一瞥しただけで、背中から研ぎ澄まされた巨大な鎌を振り上げる。英介の胸から、命の蔓が勢いよく伸びた。
「!」
はるかとグァルディの身体が激突した。思いがけない勢いにグァルディは弾き飛ばされる。体勢を崩した彼に、はるかは続く打撃を腕を振り上げ顔に食らわせる。
顔面への攻撃を片腕で防いだヴァルドウの刃が英介へと動いた。視界の隅にそれを捉えたはるかは、彼の腕に振りかざした肘を打ち込んだ。
「ぐッ」
グァルディの喉から呻きが漏れる。その喉に、今度はもう一方の掌底を叩きつける。
足を払い、バランスを崩したところに更なる肘を打ち込む。
はるかの攻撃は止まらない。蔓を摑むことができれば攻撃に利用できるのに、大鎌を奪わない限り、蔓は実体化しない。
緩んだグァルディの手から、強引に大鎌をむしり取ろうとするも、さすがにこればかりは容易にはいかない。柄を摑んだ時点で、腰に痛烈な一撃を食らった。
一瞬、目の前が真っ白に弾け飛ぶ。
腹部に蹴りが入り、飛ばされて伸ばした手は、しかし偶然にもグァルディの片腕を摑む。そのままぎりぎりと力をこめた。己の身体を持ち上げるようにして引き寄せ、大鎌を持つもう片方の手を両足で何度も激しく蹴りつけた。
がつん、と確かな感触があった。
グァルディの手から大鎌が外れた。はるかは床を滑る大鎌に急いで手を伸ばす。
瞬間、腹部に再び強烈な衝撃を受けた。背中にも鋭い激痛が走り、意識が飛んだ。呻き声すら出なかった。
自失していたのはほんの数瞬。気付くと、グァルディが書棚に飛ばされた大鎌をゆうゆうと摑み上げるところだった。
「おじいちゃんッ」
伯父の声色が変わった。なにかがあったのだ。グァルディと戦っている間は、祖父の死は確定しない。けれど、異変が起こったということは、死へと一歩近付いたことを意味する。
(いやだ!)
はるかの中で、かっと燃え立つものがあった。
なにかが、意識の底で爆発を起こした。
「ぅわぁぁぁぁッ!」
凄まじい勢いで突進するはるかに、グァルディは飛ばされた。しかし大鎌は、いまだ彼の手の中にある。
はるかはヴァルドウに再び飛びかかり、みぞおちに固く握り締めた拳を何度も何度も叩き込んだ。皮膚が破れようが、拳が割れようが構わなかった。
ヴァルドウの身体は動きを失い、苦悶の声が漏れた。その顔めがけ、更にもう一撃。鈍い音が耳に届くよりも早く、両肩を肘を落として砕く。完全にバランスを崩した彼の手にある大鎌を、強く蹴り飛ばした。
反対側のソファへと転がる大鎌。
床を蹴ったはるかは頭から大鎌に飛び込み、その手に冷たい感触を摑んだ。
プオルスタヤにとってヴァルドウの大鎌は、引きずられるほどに重い。力を振り絞り、祖父のもとへと急ぐ。
しかし突然、頭上から二本の腕が伸びてきた。
むんずと大鎌を摑まれ、はるかごと乱暴に持ち上げられる。
「ッ!」
グァルディはしぶとく手を離さないはるかを振り落とそうと激しく大鎌を振りまわす。必死に堪えるはるか。はるかもグァルディを引き剥がそうとその身体を蹴りつけるが、あまりにも祖父の倒れる場所に近すぎた。がむしゃらに攻撃を加えることで祖父になにかあってはと、思うように抵抗ができない。
グァルディは更に強く大鎌を振る。振り落とされないよう懸命にしがみつくはるかだが、翻弄される身体に、意識は次第に追いつかなくなる。
大鎌の柄を摑む手の感覚が、冷たく痺れていく。
抵抗も、もはや止められない。
「やだ」
グアルディにも、限界が伝わったのだろう。
「やだ!」
はるかの身体が、大きく振り上げられた。視界にはっきりと映り込む、鈍く光る大鎌の刃。
「やめてお願い……ッ」
その手に大鎌を摑んでいるのに、止められない。
「お願い」
大きく弧を描いて振り下ろされる大鎌。目で追うことしかできない。
(だめぇぇぇッ!)
目の前で、愛する祖父の身体にざくりと沈む刃。その感触すら伝わってきた。
既に意識を失くしていた祖父の表情には、なんの変化もなかった。
「ぃやあぁぁッ!!」
自分の悲鳴が、ひどく醜く聞こえた。




