プオルスタヤ 三-2
どこかにあてがあるわけではなかった。
風に流されるようにして辿り着いたのは、周囲を山に囲まれた郊外の町。さまようように日本のあちこちに足を運んでいたが、この地方は初めてだった。
梅雨に入ったばかりの晴れた一日。
町は、太陽の強い日差しに灼かれている。
はるかは、背の高いビルの屋上から知らない町を眺めていた。
ある高校にじっと留められているその眼差しには、羨望と郷愁が去来する。知らない町、知らない学校、知らない生徒たち。それなのに目を引いたのは、生徒たちが着ている制服が、はるかが通っていた高校のものと似ていたせいかもしれない。
なんの授業かは判らないが、暑さのせいか生徒たちの表情はやる気がなく、だらけている。三階のある教室では、数人の女子が教師に隠れて携帯を手にしていた。
記憶に被る懐かしいその光景に、エリや早紀を思った。
エリは大学を卒業し、ガス器具メーカーに就職をしている。先日様子を見に行ったとき、同僚らしきの男性といい雰囲気で食事をしていた。
早紀は、はるかの事故がきっかけなのか、大学を卒業後就職をしてお金を貯め、驚くことに医学部への入学を目指し、予備校に通っている。中学の時からそうだったが、彼女は飄々としていながら、やることはいつも大胆だった。
(早紀らしいよね)
きっとなんでもない顔をして、「合格したよ」と来年あたりはるかの墓前に報告しに来るかもしれない。
ふたりの生きている、はるかが手放さざるを得なかった時間、流れすぎていった時間に、胸は切なく軋む。
自分たちも、授業中に他愛のないことをメモやメールでまわし合っていた。
つい昨日のようなことなのに、もう、それだけの時間が過ぎてしまっている。
時は、とどまることなく流れている。
その流れははるかの目の前を、すぐ横を、もはや他人の顔をして過ぎていく。そこから外れてしまったはるかには、もうどう足掻いても戻ることなど叶わない。
いつからだろう。家族たちは、はるかのいない道を進んでいた。部屋はそのまま残ってはいるものの、両親たちの意識は、いつしか新しい命、孫に向いている。彼らははるかを思うことはあっても、涙をこぼすことはもうないのだろう。
くすくすと隠れて笑む女子高生。
小さな痛みに、はるかの眼差しがほろりと揺れる。
その無垢な笑みは、いつだったかエリや早紀が湛えていたものと同じものだった。自分の生が、いつまでも続くと信じて疑わない、ただひたすらに眩しい輝き。
羨ましかった。
いまだ生の途中にある彼らが羨ましかった。いたずらに時を消化できる彼らが。
自分だってあの中にいた。紛うことなくあの濃密な時の流れの中に生きていた。同じ時を過ごした親友は、家族は、いまでも確かな道を、新たな人生の幕開けを一瞬一瞬歩みながら生きているというのに。
(あたしは……)
生き切ったという自覚はある。
あるけれど。
もう一度、チャンスがあったら。時を戻せたら。
もっと人間としての時間があったなら―――。
耳に唐突によみがえる、自分の名を呼ぶ愛しい声。
あのとき、もしもプオルスタヤに助けられていたら、自分はどうしていただろう。
生ある人間として、なにかに向かって生きていただろうか。
それとも、ヴェルフェンを想って、毎日を苦しむのだろうか。ヴェルフェンに触れられないまま日々を過ごし、本来の寿命まで生き続けていくのだろうか?
なにをいまさら莫迦なことを、と自嘲に目を伏せたとき。ふと、視界の隅でなにかが動いた気がした。
意識の端を引かれるようにして瞳が動いたのは、本能か。
高校のすぐ向こうに、高層マンションがある。
なにかが、最上階あたりからこぼれ落ちた。
眩しい青空に直後に現れた白い染み。
(あれは!)
気付いたと同時、はるかは強く空を蹴っていた。
白い染みは見る間にヴァルドウの形になった。大きく鎌を振り上げている。落ちゆく者からヴァルドウへと伸びる、命の蔓。
落ちるのは、二歳くらいの幼児だ。なにかの拍子にベランダから落ちたに違いない。
はるかは力任せにヴァルドウにぶつかった。虚を衝かれたヴァルドウは体勢を崩す。
「貴様ッ!」
大鎌を構え直し、水色の瞳で凄むヴァルドウ。
グァルディという名のこの青年は、はるかが最初に出会ったヴァルドウでもある。何度か戦ったことで圧倒的な存在感に呑まれることはなくなってきたが、いまだ勝ったことは一度もない。
怒りを露わにさせたグァルディは長い脚を振り上げ、はるかに踵を落としてきた。すんでのところで身を翻しかわすも、その隙に、グァルディは大鎌を幼児へと向けている。
「だめッ」
まろぶように拳を振り上げ背後からグァルディを襲う。しかし後ろも見ずに左腕を払うグァルディの腕をもろに受け、呆気なくはるかは飛ばされる。慌てて宙で方向転換をし.、再びグァルディに腕を伸ばす。が、その腕を、振り払われた大鎌の刃が斬りつける。腕を引くのがあと一瞬遅ければ、切断されていた。
時間にすればほんの僅かな間の戦いだ。
グァルディの応戦は容赦がない。はるかが大鎌に手を伸ばせばその腕を打ちすえ、蹴りを叩き込めば、ぎらりと光を弾く刃で身体を両断しようと襲いかかる。
圧倒的に不利なたった数瞬の戦いが、空を落ちる幼児のすぐそばで繰り広げられる。体格の差はもちろん、力の差は歴然としていた。グァルディの繰り出す大鎌の速さにはるかは翻弄され、動きに無駄が目立ちだす。
よろめくはるか。グァルディはそれを逃さない。
彼は振り上げた大鎌の柄を、彼女の肩先に突き落とした。硬く鋭い痛みが、肩を貫いていく。
「―――ッ!」
声にならない悲鳴が喉からほとばしった。
血こそ溢れないものの、凄まじい痛みに意識が飛びそうになる。
グァルディは、柄にはるかを突き刺したまま、コンクリートにいままさにぶつかる幼児めがけて、勢いよく大鎌を振り下ろした。
「!」
反動で、柄から身体が抜けた。
上空へと飛ばされ、血を吐くような痛みの中、はるかの腕が幼児へと伸びる。
頭部から赤い飛沫を散らす直前、大鎌の刃を胸に受ける幼児が、ふと、こちらを見た。
なんの穢れもない、澄んだ眼をしている。
視界の真ん中でぐしゃりと潰れ、肉塊へと変貌する幼児。
無垢な瞳に最期に映ったのは、なんだったのだろう。
白いコンクリートに、血の花が咲いていた。その中の、ぐったりと動かない幼児だったモノ。
「でしゃばりが!」
力を使い果たし、宙空から遺体を見つめるしかできないはるかに、すべてを終えたグァルディが毒づいた。
「半人前が生意気やってンじゃねえ、何様のつもりだお前! なんもできねェくせに邪魔ばっかしやがって!」
苛々とグァルディははるかの胸倉を摑み上げる。
「何回邪魔すれば気ィ済むんだ、ええ!? 本ッ気で三三三回奇跡が起こせると思ってンのかよ!」
はるかは、せめてもの抵抗ばかりとグァルディを睨みつける。ヴァルドウは、任務遂行中以外プオルスタヤに危害を加えることができないとヴェルフェンから聞いている。
大丈夫。これ以上、暴力は振るわれない。
荒い息を繰り返しながらも射殺さんばかりに睨み返すはるかに、グァルディは締め上げる腕に力をこめる。
「莫ッ迦じゃねえの? ヴェルフェンとの仲が認められるって思ってンのか」
「―――」
「無駄な足掻きはよすんだな、さっさと諦めろ」
「やってみなきゃ、判らない」
締め上げるグァルディに、喘ぐように答える。こんなときにすら、人間だったときの感覚の記憶がはるかを苦しめる。
忌々しくグァルディは眉間にしわを刻む。
「おめでたいぜ。こんな奴に惑わされたヴェルフェンの気がしれん」
「あんたには一生判んないわよ」
言い終わる前に地面に突き落とされた。大鎌の柄に貫かれた肩から落ちたせいで、息が止まった。思わず咄嗟に肩を庇ったのは、斬りつけられた腕。容赦のない痛みに、声も出ないままかっと目は瞠られ、唇からうめきが漏れる。
「生意気言ってられンのもいまのうちだ。今度邪魔してみろ、真っ先にお前から消してやる」
「……その、前に、大鎌を、奪ってやる」
「嗤わせんな」
荒い息で言いきるはるかにグァルディは吐き捨てる。穢らわしいものを忌むかのようにはるかから視線を外すと、さっさと空の高みへと消えていった。
グァルディの姿が完全に見えなくなると、思い出したかのように目に飛び込んできた空の眩しさに緊張が抜けて、長い吐息がこぼれた。
熱のこもったぬるい風が、はるかの疲れ切った吐息をさらい、通り過ぎていく。
貫かれた肩から走る、身体中を駆けめぐる痛みと重たい疲労に、はるかはその場に倒れ込んだまま動けなくなった。
息ばかりが、無意味に荒い。
おめでたいと言ったグァルディの冷たい表情と軽蔑しきった眼。
気持ちは、いやでも萎えそうになる。
思いの隅に僅かにへばりついている熱い気持ちをかき集めてかき集めて、潰れそうになる信念を、懸命に奮い立たせる。
(絶対に、諦めない……)
絶対に、ヴェルフェンと一緒になるのだ。諦めるわけにはいかない。どれほど負けたって、どれだけ罵詈雑言を言われようと、戦うだけ。
戦うだけ―――。
マンションを取り囲む木々を渡る風の音に、町の喧騒が遠く混じっている。
忌々しいほどに眩しい光に満ち溢れた空だ。避けるように目を動かすと、もう動くことのない幼児がすぐそこに横たわっている。変わり果てた姿のそのおぞましさに胸の底が裏返り、こみ上げそうになる。たまらず目をそらした。
そらすべきではない。自分の失敗として、ちゃんと目に焼き付けておかなくては。これは、自分の弱さの結果なのだから。
しかし、そうは思うものの、幼児だった彼、もしくは彼女の姿は、直視するにはあまりにも惨すぎた。
(ごめん……ごめんね……)
幼児が最後に見せたあの無垢な眼差しが、はるかの脳裏に焼き付いていた。お前のせいでと責められている気がした。
死してなお荒い息を繰り返せる自分がこうして意志を持つことが、後ろめたくさえある。
木々の緑の匂い、土から漂う独特の苦い香り。そこに混じるどこかからの焼きそばの匂い。生きている匂いと肉塊の鉄の匂いに包まれて、はるかはただきつくまぶたを閉じて倒れているしかできなかった。
整えていた息が落ち着き、身を起こそうとしたときだった。
頭上から女性の悲鳴が降ってきた。
見ると、最上階だろうか、誰かがベランダからこちらを覗いている。
―――母親だった。




