プオルスタヤ 三-1
激しい息遣いが、耳にうるさかった。
喉は焼けるように熱く、身体はちぎれそうに痛い。街路樹を取り囲むレンガに腰をおろし肩を上下させるはるかの左腕には、肩から肘にかけて大きな傷口が開いていた。
背後の車道は、ひどく混み合っている。
すぐそこに交差点がある。
信号無視だったのか、大型トラックに側面から突っ込まれ、無残に潰された白い車が中央分離帯近くに転がっている。散らばるガラスや載っていた荷物。漂うガソリンのにおいと、事故の惨状を興味深げに見遣る野次馬たちであたりは騒がしい。
ぐったり背を丸めたはるかは、荒い息のまま、じっと足元の石畳に視線を落としていた。
こめかみからひと筋の汗が頬を伝う。顎先から落ちた汗は薄い空の色に染まると、にじむように宙に溶けた。
悔しさと腹立たしさに、知らずはるかは歯を食いしばっていた。
プオルスタヤとなって、三年が経とうとしていた。
最初こそ不思議に感じた身体の痛みや流れる汗は、人間時代に意識に刷り込まれた感覚の記憶―――切られれば痛みがあるはず、激しく動けば汗が出るはずという、一種の条件反射のようなものらしかった。実際は大鎌に斬りつけられても血が流れることはなく、殴られた痕が痣になることもない。もちろん、他のプオルスタヤも同じかどうかは知らないけれど。
ヴァルドウから大鎌を奪う。
遠くから観察した他のプオルスタヤの様子から、それは力ずくでなければ為しえないことだと知った。最初のときのように、口で頼んでどうこうできるものではなかった。
それは、ヴァルドウと身をもって戦うことを意味していた。
―――文字どおりの死闘。
プオルスタヤはヴァルドウから大鎌を奪うため、唯一の武器である戦鎚を振るって立ち向かう。対するヴァルドウは、大鎌を守るためにプオルスタヤの攻撃に力でもって応戦をする。
『ヴァサロイダ』がなんであるのかが判ったのは、最近のことだ。金鎚のようなものを振るって戦うプオルスタヤを何度か見て、時間を見つけて逢いに来てくれたヴェルフェンに尋ねて初めて知ったのだ。プオルスタヤは武器が使えるのだ、と。
冥王の条件にあるため、はるかには戦槌を与えられていない。
武器の不携帯と痛覚の存在。そうして人間上がりという背景。圧倒的に不利な戦いである。
ヴァルドウの抵抗は容赦がない。殴るにしても、ためらいなく激しく打ちすえてくる。
一年で三十数人のペースでひとを助けなければならないのに、蓋を開けてみれば、三年経った現在、いまだ十人にもならない。
道のりは、絶望するほど果てしなく遠い。
ヴァルドウはあまりにも恐ろしく、ありえないほどに強く、達成しなければならない目標は、途方もなく遠い数字だった。
―――意識の向こうでクラクションが鳴り、はるかは我に返った。
救急車が来る気配はまだない。人々は、浮かれたように事故現場を見つめてざわめいている。
「はるか」
突然の声にはるかは顔を上げた。
ふ、と自然と頬が緩む。
空から舞い降りてきたのは、ヴェルフェンだった。淡い空から降り立つ白い存在。まるで天使かと見紛うほどだ。
ひと月ぶりのヴェルフェン。彼の深い藍色の瞳が、痛々しくはるかの左腕に落ちる。
「大丈夫か」
「……ダメ、だったよ」
頷き、ただそれだけをこぼす。喋るだけで、左腕の傷は重たく痛みを訴える。思い込みの痛みだと言い聞かせても、意識に染みついた感覚を覆すことはできない。
「次がある。おれが言うのもなんだけど」
「仕事、まだ、残ってるの?」
「まあ、ね」
言葉を濁らせるヴェルフェン。肩を上下させるはるかに視線を注ぐ。
「……辛いよ」
ぽつりとこぼす彼。
「お前が苦しんでるのに、なにもできない。悔しいよ」
切ない顔の彼に、はるかは首を振る。
「逢いに来てくれるじゃない。それで充分だよ。ヴェルフェンに逢えば、また頑張ろうって、力が湧いてくるし」
ヴェルフェンは、かすかな笑みを浮かべた。
そのまま身をかがめた彼のキスを、はるかはそっと受け取った。
「もう、行かないと」
言いつつ、ヴェルフェンの手ははるかの頬から唇、首筋から傷に触れないよう、左腕を辿る。肌の上に感じるヴェルフェンの優しい感触。はるかはうっとりと目を閉じたまま、仄かな愛撫に身を委ねる。
頷くしかなかった。引き止められるわけがないと判っている。
目を開けると、間近で深い藍色の瞳が名残惜しげにこちらに向けられていた。
「あたしも、行かなきゃ」
ヴェルフェンも頷く。もう一度ついばむように唇を寄せると、彼はそのまま黄昏れる空へと地を蹴った。
僅かな時間の空きだったのだろう。彼の背中はどこか忙しない。
にじむように小さくなる白い姿を目で追うのをやめ、はるかは東の空へと視線を流した。
藍色の闇が短い夜を運んでくる。救急車はまだ来ないのかと人々が騒いでいた。その様子を、身体に力が戻る間、言葉もなく眺める。
人間は無力だ。目の前の惨状も、救急車を待つことしかできないのだから。
結果は、もう出ているのに―――。
ひとつ大きく息を吐き、はるかは地面を蹴った。彼女の姿も、闇の広がる空へと紛れていく。
ビルの向こうで救急車の赤いライトが回転していた。渋滞に苦労しているが、ようやく到着できる。
もう、遅いのに。
すべてが。
遠くなる町を見下ろし、溜息をつかずにはいられなかった。
死は悲しみをもたらす。死んだ者にも、残された者にも。
ヴァルドウと戦うたび、両親や兄の泣き顔が脳裏に浮かんだ。死にゆくひとにも家族がいる。今回のように特に子供の場合は、やりきれない。彼らの悲しむ姿は、もうたくさんだった。自分のせいで助けられなかった命。残された者の発する嘆きは、見ず知らずの他人であるはるかにも、ひどく堪えるものだった。
もっと強ければ。せめてヴァルドウと対等に戦うことができたなら。
(―――気持ち、切り替えなきゃ……)
敗北を振りきるように、頭を振る。
ヴァルドウから大鎌を奪い、死にゆく者との絆―――蔓を断つ。ほんの僅かな数でしかないけれど、死にさらされた者に生気が戻りくる素晴らしさは、魂が洗われるかのような、人間として生きていた間には味わったことのない歓喜を呼び起こした。溢れる生気の奔流は、透明で眩しく、彼女自身生まれ変われたような、煌びやかで神聖な光を浴びた気がするのだ。
もう一度、あの突き抜けるような光の歓喜を体験したい。
繋ぐことのできたひとつずつの命。その歓喜は、間違いなくヴェルフェンへの想いを実現へと一歩近付かせるものでもある。
だからもっと多くの奇跡を、と心の底から願う。
負けても負けても、次の勝利を望むしかない。
あと、三二五人。




