プオルスタヤ 二
名残惜しくてなかなか決心がつかなかったが、はるかは迷いに迷った末、生まれ育った町を離れることを決めた。
死に瀕したひとを見つけなければ、現状を打開することができない。あの町では、そんな人間を探すことができなかったから。
なにより、家族との距離が近すぎた。悲痛な彼らの姿を見るのは、あまりにも辛い。
隣の町、隣の県、更にその隣の県へと行動範囲を少しずつ広げていくものの、やはりどの病院、どの老人介護施設にもプオルスタヤがいる。
どんな場所でひとが命を落としていくのかなんて知らない。ときどき交差点に『事故多発地帯』という看板があったりはするが、命に関わる事故が一週間やそこらで起きるわけもない。具体的にどれくらいの時間が許されているのかは判らないけれど、ひとつの場所に長くいるのが怖くて、軽微な事故すら目撃していなかった。
自分の町を離れてから、既に数ヵ月が経っていた。
(ここもだめ、なのかな……)
しばらく前に来た町だったが、ヴァルドウの姿を一度も見かけていない。
次の町に行こう。
諦め混じりの吐息をばねに、民家の屋根から立ち上がったときだった。
風に乱されながらも遠く響く独特の音を、耳が捉えた。
救急車のサイレン。
きゅっと胸の奥が緊張する。はるかは急いで周囲を見渡した。プオルスタヤの姿は―――、ない。
いつもなら、ここで救急車を追うプオルスタヤがいるのに。
張り詰めた胸が、一気にどきどきしてきた。
もしかすると。
(い、いい急がなくちゃ……!)
救急車の音はどんどん近付いて来、すぐそこの通りを駆け抜けていった。
はるかは屋根を蹴り、慌てて救急車を追いかけた。
救急車が入っていったのは、ずいぶん離れた場所にある隣町の市民病院だった。
ありがたいことに救急にもプオルスタヤの姿はなかった。少なくともはるかが探した限りではいない。
ただ、幸か不幸か、救急車に乗っていた患者は足を骨折してはいたものの、命にかかわる怪我ではなかった。
プオルスタヤがいなかったのは、だからだったのかもしれない。
処置が終わろうとする頃だった。なんとはなしに、はるかは骨折した患者のそばで、ずっと治療の様子を眺めていた。
その、意識の端が、くいくいと引っ張られる。
(……?)
気のせいかと思った。
最初こそなんでもないことと気にも留めなかったが、次第に無視できなくなるほどそれは強く意識をひっかいてくる。
(なに……?)
初めて感じる感覚だった。なにかが意識の端に絡まりついて、緩くではあったが強く引っ張ってくる。まるでめまいのように抗えない。
(なんなの?)
なにか、意味があることなのかもしれない。はるかは、その源を求めてふらりと病棟へと続く廊下に出た。
こっちへ来いと、早く来いと、誰かに呼ばれているようだ。そういえばこの市には、元彼が進学した大学がある。
(先輩が、入院してる……とか?)
好きなひとができたと、はるかを一方的に振った彼。そういえばもうずっと思い出すこともなかった。
(病気とかで、入院してる、とか? あの年上のひととまだ続いてるのかな)
見舞いに来たとかで年上のひとと鉢合わせたらイヤだなと頭の隅で考えながら、はるかは呼ばれるままに廊下を行く。
向かう先には、小児科病棟があった。
―――入室をはばかられるほど、その部屋の空気は静かに張り詰めていた。
広くもなく狭くもない個室だった。三十代後半と思われる夫婦とひとりの看護師がベッドに詰めている。個室の主は先輩ではなかった。当然だ、ここは小児科病棟。横たわっているのは幼い少女だった。
喉の奥から空気を吸い上げるような呼吸を、彼女はしていた。
明らかに自然ではない呼吸。鼾のような、溺れて喘いでいるかのような。
あんな苦しそうな呼吸、はるかは見たことがなかった。まだ小学校に通う年齢にもならないだろう小さな少女が、生命の根幹を剥き出しにした荒々しい呼吸をしている。
生命の瀬戸際が、目の前にある。本能的にはるかは悟ってしまう。その、綱渡りをしている一瞬一瞬の展開に圧倒されて、はるかは病室に入ることができない。
半ば呆然としながらもしばらく見守っていると、少女の胸に、瑞々しい小さな双葉がぴょこんと生えた。
「あ……!」
目を瞠り、思わず声を漏らすはるか。
病室の入口からもはっきりと目に入ったそれは、自分が命を手放したときに見たものと同じものだった。
(ってことは、もしかして……)
救急で肩透かしを食らったばかりの期待と緊張が、再び目を覚ます。膝の裏が、ざわついてくる。
どきどきと迫りくる予感に病室を見まわしたとき、すぐにベッド頭上の壁から白い靄が噴き出るように現れた。
靄は渦を巻いて、見る間に白い衣をまとった青年の形になった。背中には大鎌。
ヴァルドウだ。
赤みを帯びた金の髪、水色の瞳、透きとおるほどの白い肌。
この地上で初めて間近にする、ヴェルフェン以外のヴァルドウだった。
背丈は、ヴェルフェンと同じくらい高い。もしかすると、それ以上かもしれない。
はるかは唾を飲み込み、知らず足を踏みしめ直した。
ヴァルドウはただそこにいるだけなのに、凄まじいほどの存在感を放っている。視界に映るそれだけで、圧倒されてしまう。全身から発している彼の抑えようともしない強さは、容赦なくはるかを病室の外へと押し戻そうとする。
青年は少女の双葉を見、小さく頷くと背中から大鎌を取った。瞬間、双葉は一気に成長し、蔓となってヴァルドウの胸元へと伸びた。蔓の根元に向かい、振り上げられる大鎌。
「あ、あの……!」
押し出すようにはるかは声をあげた。大鎌を振り上げたままこちらを見たヴァルドウは、はるかを認めると途端に険しい顔をする。目が合っただけで、底冷えするほどの恐怖に襲われた。膝の裏から、冷たい震えが駆け上がる。
「あ、あの。それ、やめてあげて、くれませんか?」
「はァ?」
目を眇め、心底から莫迦にする声音だった。
「その、まだ小さいし。死なせないで、欲しいんですけど」
「……あぁ。お前、人間上がりの」
ヴァルドウは得心したように鼻で嗤う。その低い声に、振り絞った勇気も萎えそうになる。
「邪魔すんじゃねェぞ。そこで見てな」
「え。で、でも……」
「邪魔するなって言ってンだよ」
眼光を鋭くさせ、どすを利かせるヴァルドウ。だが、そういうわけにもいかない。まだひとりの命も助けていない。やっと見つけたチャンスだ。足は情けないほど震えて竦んでいたが、怖くてもなんとかしなければならない。なんとかして、ヴァルドウから大鎌を取り上げなければ。
はるかは意を決し、少女に近付こうと一歩足を踏み出す。
ヴァルドウの眼差しに剣呑な色が浮かび、片腕がゆらりと上がった―――瞬間だった。
横殴りの凄まじい衝撃があった。
「!?」
あまりの衝撃に視界は吹き飛び、身体は病室の壁、床をも突き抜けた。
天地がひっくり返った数瞬後、定まりきらない視界が捉えたのは、眩しい青空と、整然と並ぶたくさんの車の列。
はるかがいたのは、何故か屋外の駐車場だった。窓ガラスに反射する陽光が眩しく目を焼きつける。
(え。……え?)
いったいなにが起きたのか、なにがなんだか判らなかった。
頭が、くらくらしている。視点を定めようと目を瞬く。どうして、自分はこんなところにいるのだろう。
どこをどう見ても、屋外の駐車場である。
(なんで。病室に、いたのに……)
「―――痛ッ」
起き上がる際についた左手首に、鋭い痛みが走った。
(殴られ……た……の? どうして―――)
わけが判らないまま思考をめぐらすと、唐突に冥界でのあのヴァルドウの言葉が耳によみがえってきた。
プオルスタヤがなんなのかを訊いたとき、
『秩序を乱すだけの邪魔で悪しき存在なのだ』
忌々しい声音で返された。プオルスタヤはヴァルドウに恨まれていると、そういえば冥王も言っていた。
(魂の回収を邪魔をするから、って言ってたけど……。でも〝回収〟って、命を奪うってことだよね)
命を奪う―――死なせる、ということ。止めを刺すということ。
それをやめてもらおうと願い出たのに、いきなり暴力に訴えるなんて。ひどい。なんて乱暴なんだろう。同じヴァルドウでも、ヴェルフェンとは大違いだ。
「痛……」
手首ばかりでなく、腕全体が悲鳴をあげていた。ふたりが立っていた場所から考えると、あのヴァルドウの暴力を、はるかは左腕だけで受け止めたことになる。
肉体がないのに痛みは感じるものなのか。いったいどうなっているのだろうと、妙なところで疑問を感じる。
(―――あッ!)
少女を思い出して、頭上を振り仰いだ。
気を抜くと、慣れないせいか身体は実体のあるものを通り抜けてしまう。殴られた勢いでこんなところにまで飛ばされたようだ。
はるかは視線をあちらこちらに彷徨わせる。
あの病室がどこだったかなんて判らない。見上げる病棟の窓はみな同じ顔で並び、いったいどこからどの方向へ殴り飛ばされたのか、見当がつかない。
(どこ。どこなの?)
駐車場から見上げるだけでは、病室の様子など判るはずもない。太陽の光を受けて輝く病棟の窓が、怨めしくさえある。
(焦っちゃダメ、まずは、落ち着かなきゃ)
焦る気持ちをなだめ、はるかは先程感じた呼ばれる感覚を探る。
けれど、どこにもない。どれだけ意識を研ぎ澄ませても、なにも感じられない。
意識が引っ張られるにまかせて、壁や床などすり抜けてあの病室にまっすぐに向かったのが裏目に出た。ちゃんと病棟と階数とを確認さえしていれば、見当くらいはついただろうに。
(いま戻っても……)
波立つ気持ちに、黒いモノがぽつんと生まれる。
いま戻っても、あの暴力的なヴァルドウがいるかもしれない。また、殴られるかもしれない。
どうする? と、身勝手な感情が心を揺らす。
(どうする?)
それに、彼女の病室にすぐに戻れたとしても、間に合うとは思えない。自分のあの経験からすると、ヴァルドウは大鎌で相手の胸を切り裂けばいいだけだ。もう、それだけの時間は過ぎてしまっている。病室を探す時間なんてない。いまこの瞬間に戻らなければ、絶対に間に合わない。
間に合わなくても戻るべきだろうか。それとも、ここは病院だ。ヴァルドウに狙われている他の患者を探すべきか。
(どうする……?)
再度自分自身に問うたとき、ずきんとした衝撃が胸に生まれた。
死に瀕した娘をひたすらに見守る両親の姿に、暮れなずむはるかの部屋で肩を落とす母親の姿が重なったのだ。
悩んだのは数瞬。
左腕をさすり、頭を振る。
はるかは立ち上がり、正面の病棟へと地面を蹴った。
迷いながらも、廊下の案内を頼りに記憶を辿って小児科へ、あの部屋へと急ぐ。
「!」
目当ての病室に辿りついたとき、退室する医師とすれ違う。身体半分を通り抜けていった彼は、ひどく疲れた顔をしていた。
胸の底が、冷たく粟立った。
嫌な気がした。
まろぶように病室に入るとヴァルドウの姿は既になく、ベッドの少女に縋りつくようにして、両親がただ声もなく泣いていた。
(あぁ……)
突きつけられる、目の前の現実。
震えるそのふたりの肩に、悟らざるを得ない。
少女の命は、あのヴァルドウによって連れ去られたのだ、と。
眠っているだけとしか見えない。先程の苦しげな呼吸がなくなったぶん、いっそ安らかだ。
けれど、目の前にあるのは、ひとつの死。人生の終わり。時の涯てを迎えた姿。
―――骸。
呆然とはるかは立ち尽くすしかできなかった。
あまりにもあっけなく、死の使いは少女の魂を奪っていった。
プオルスタヤとしての自分がいたというのに。
死神に抵抗できるはずの自分が、すぐ近くにいたのに。
どうしてあのとき、迷ったりしたのか。迷っている場合ではなかった。ヴァルドウに殴り飛ばされてもすぐに病室を探していたら、間に合ったかもしれなかったのに。
(あたし―――)
守れなかった。
ヴァルドウの存在自体があまりにも強すぎて、身動きひとつできなかった。暴力的なヴァルドウだと、あまつさえ諦めようともした。
あのヴァルドウの姿を思い出しただけで、鳥肌が立ってくる。
違いすぎた。
ヴァルドウと自分。歯が立たないどころではない。存在のレベル自体があまりにも違いすぎていた。
ヴェルフェンには、同じ場所にいても恐怖など感じなかったのに。
無意識に、はるかは左腕に手を遣る。
三三三回の奇跡。
できるできないの問題ではないとは、頭では判っていた。判っていたつもりだったけれど。
(太刀打ち、できない)
耳に飛び込んできた両親の狂おしいほどの泣き声が、はるかを責め立てる。
冥王の言葉は、あまりにも途方がなかった。




