第一章 プオルスタヤ 一-1
どこまでも続く深い闇。天も地もなければ、星も大地も、風も音もない。あまりにも果てしない虚空が闇となってすべてを包み込んでいる。それは本当に果てのないほど広がっているのか、それとも手を伸ばすこともできないほどの濃密な闇に閉じ込められているのか、はるかには判らない。
ただひたすらに無しかない空間。
それが、初めて足を踏み入れた『冥界』の印象だった。
冷たい深淵の闇の中、仄かに浮かび上がる床。そこに集うたくさんの白い恰好をした者たち。背中に背負う大鎌から、ヴァルドウたちだろう。
中央に、つるりとした薄青い色を宿した透明な、けれど重厚な椅子がある。
玉座だ。
玉座にもたれるのはひとりの男性。青い上衣をまとった彼は、白いひげを生やし、厳めしい眉の下に爛々と輝く目で、ひたと目の前の床に膝をつく男女を睨み据えている。
ヴァルドウの刃を受けても宝珠に吸い込まれることなく、さまよえる魂でもないはるかという存在。
そんな彼女をそばに置きたいと、ヴェルフェンは審問の場で冥王に願い出たのだ。
「何故小娘がここにいるのか判った上でのことか?」
表情ひとつ変えず、冥王は逆に質す。
説明するまでもない。ヴェルフェンから死期を教えられたことで、彼女が後悔のない人生を模索したためだ。
彼の言葉を無視していれば、そして彼に愛情を抱かなければ、罰せられるのはヴェルフェンひとりだけだったろう。しかし死期を知ったことではるかは人生を生き抜き、更にそれを告げたヴァルドウを愛した。
人間の送る人生ではありえない選択をしたはるか。結果、冥王の裁きを受けるため、本来辿るべき輪廻の輪から弾かれてしまったのだ。
だから、宝珠ははるかを受け入れなかった。
冥王の仕業だった。
彼女を護れるのは自分しかいない。たとえそれが、冥王の怒りからであっても。
ヴェルフェンはまっすぐに冥王を見、頷きを返した。
冥王は気に食わないといった顔で、はるかに視線を移す。
「娘。こやつのそばにいたいと言うか」
「はい」
顔を上げることもできないまま、けれどはるかははっきりと答えた。
「ならば共に罰を受ける覚悟はあるな」
「陛下!?」
色を失うヴェルフェンに冥王は、「『プオルスタヤ』として罰を受けてもらう」と言い放った。
(プオ……スタ?)
はるかの眉間が、怪訝に震える。
聞いたこともない音の並びだった。
刑罰の一種だろうか。それとも拷問か。なんにしろ、恐ろしいことに違いない。
「しかし陛下、彼女はその立場にはありません」
抗議をするヴェルフェンに、冥王は冷たい眼差しをする。
「そう。この娘はヴァルドウでもプオルスタヤでもない。ただの人間。死してなんの価値もない人間の魂だ。それをお前は律を乱し、そばに置きたいと申したのだ。相応の働きを求めるのが、当然であろう」
「しかしあまりにも。ただでさえプオルスタヤは過酷な状況にあるというのに」
「ヴァルドウのお前がプオルスタヤに同情をするのか。これは滑稽」
鼻で嗤い、冥王は眼光を鋭くする。
「そうかもしれぬな。獲物に死期を教え、恋情を抱いておると公言するなど、狂っておるとしか思えぬわ」
「畏れながら陛下。共にありたいと願っているのです。同情なさらずとも、共々処分してしまえばよろしいのです。我々は既にそう決定しております。陛下の御心を煩わせるわけにはまいりませぬ」
冥王のすぐそばに控えていたヴァルドウが進言をする。彼の恰好は、ヴェルフェンの着ているものに似ていたが、少し違っている。上衣の襟からのラインが青くなっている。この場に集っている他のヴァルドウたちも、同じ部分に色が入っている。青色よりも赤色の割合が多く、以前ヴェルフェンが言っていた『上の階級』の者なのかもしれない。
彼の言う「処分」がなにを意味するのか知る由もないが、その声には本能的に底冷えのする恐ろしさがあった。
だが、後悔はない。
ヴェルフェンと一緒にいられるのなら、地獄に堕ちたっていい。
改めてそう決意をするはるかの横で、ヴェルフェンは唇を引き結ぶ。
「禁忌を犯したことは重々承知しております。しかし与えられた任務はちゃんと果たしました。この手で、彼女の生を終わらせました」
「当然だ。見逃しでもしておれば即刻共々処分しておる。それでお前の罪が不問になるとでも思っていたのか?」
「そういうわけでは……」
王の眼差しには軽蔑が乗せられていた。
「お前は罪に服さねばならぬ。判っておろうな」
「―――はい」
「階級を最下級とする。人間に祓われる身となって一からやり直せ。加えて、そう……、ラーメの雫がひとつ落ちるまでの間、プオルスタヤに決して大鎌を渡すでない。仕事量も増やす。これを果たせば、お前の罪は不問としよう」
はるかの隣でヴェルフェンは厳しい顔を更に難しくさせた。王の鋭い眼差しは、はるかへと移る。
「娘」
「……はい」
冥王に呼ばれるたび、背筋に震えが走るのは、仕方のないことだ。
「お前はプオルスタヤとして、ラーメの雫がひとつ落ちる……人間時間でいう十年の間に、三三三回の奇跡を起こせ。武器を持つこと、死のリストを見ること、ひとつの場所に長くとどまること、ヴァルドウを追いかけること、出身国を出ること、そして他のプオルスタヤとの接触を禁じる。これを果たせば、ヴェルフェンとの仲を認めよう。ただし、どちらかが条件を満たせられなかった場合、双方共に処分をする」
「ですが陛下」
はるかが口を開く前に、ヴェルフェンは異を唱えた。そんな彼に、雷鳴のような怒声が投げつけられる。
「わしの決定が不服と申すか」
その圧倒的な威圧感に屈することなく、ヴェルフェンは続ける。
「条件があまりにも厳しすぎます。彼女は、ただの人間だったんです」
「そうだ。それがどうした。チャンスは与えた。お前の意見を聞いておるのではない」
「……はい」
苦々しく、ヴェルフェンは答えるしかない。
「―――あの」
恐るおそるはるかは声を出す。先程の冥王の怒声に、声は掠れがちに震えていた。
「なんだ」
「あの……『プオルスタヤ』とは、なんなのでしょうか」
はるかの問いに王は一瞬言葉を失い、そして豪快な笑い声をあげた。轟くその声に、身体が一瞬こわばってしまうはるか。
なにか、おかしなことを訊いたのだろうか?
わけが判らず、何故冥王が笑うのか、はるかの不安は更に深くなる。この〝笑い〟は、〝嗤い〟だ。
「これは面白い。プオルスタヤのなんたるかも知らずその任に就くというのか。滑稽だ、この勝負もう結果は見えておる! シェジェ、教えてやるがいい。プオルスタヤがヴァルドウに恨まれる理由を!」
王は嘲笑を浮かべ、そばに控える男に説明を命じる。
軽く一礼したのは、先程ふたりの処分を申し出た男だった。冷たい眼差しではるかを見据え、突き放すように言った。
「我々ヴァルドウの任務は、時機の来た人間に大鎌を振るい、肉体に拘束された魂を解放させることである。大鎌を身に受けた状態を、人間は『死』と言い忌むが、これは肉体に囚われた魂が転生するために必要な過程だ。プオルスタヤはそれを阻む憎むべき存在。我々から大鎌を奪い、時機を迎えた者との絆を断ち切ってしまう。おかげで魂を回収するという神聖かつ崇高な使命が果たせなくなり、人間も時機を逸し、魂の転生は先延ばしにされる。何故プオルスタヤが存在するのか我々には判りかねるが、秩序を乱すだけの邪魔で悪しき存在だ」
憎々しい声音だった。
つまりは、ヴァルドウに―――死神に抵抗する者。そう見ればいいのか。死をもたらすヴァルドウを阻む。
死を、回避させる者。
あれほど死に抵抗できたらとこいねがった存在が、あったなんて。
「だから奇跡と……」
「ラーメの雫が落ちるまでの間だ」
冥界の王は念を押すように繰り返した。はるかが人間界に戻ってから生まれた、最初の雫が落ちるまでだ、と。
ラーメの雫もなんなのか判らないが、とにかく十年らしい。それが大変なことなのか、温情ある措置なのかは判らない。
しかし、ヴァルドウに恋をした人間に示された唯一の希望であることに変わりはなかった。
「機会を与えてくださいまして、ありがとうございます」
頭を下げてそう答えたはるかには、冥王の眉がついと上がったのは判らない。
冥王の顔をまっすぐ見ることはできなかったが、そう答えるのが、精いっぱいの抵抗のしるしだった。
罰として与えられたプオルスタヤという身分。
だが単なる罰ではない。
ヴェルフェンとの未来を繋ぐ、これは唯一の道―――。




