時の涯 三-3
彼のはっきりしない返答に、はるかは眼差しで問い返す。
「おれには、判らないんだ」
「……?」
ヴェルフェンは答えを探すように、視線をさまよわせる。
「本来だったら、お前は宝珠に吸収されて冥界へと向かうはずなんだが……、判らない。ここにいて、話もできて触れることができる」
肉体を失ったから触れ合えた、わけではないのか。
「宝珠?」
聞いたことのない単語だ。
ヴェルフェンは胸元に手をやって頷いてみせた。
「ここに、冥王陛下から頂いた宝珠がある。ひとの魂は、ここを通り、冥界に還る」
「へぇ……。そう、なんだ」
ヴェルフェンに斬られたあたりまでしか、記憶にはない。
死後の魂の行方についてもちろんなにも知るはずのないはるかは、『冥王』がいることや『宝珠』という存在に、純粋に新鮮な驚きの相槌を打つ。一方、事の重大さを認識しているヴェルフェンは、重々しく続ける。
「でも、はるかは吸収されなかった。弾かれたというより、最初から宝珠に、なんて言うのか、興味を示さなかった。宝珠に導かれない魂はないのに、宝珠も、はるかになんの反応もしなかった」
「……。それって、やばいことなの……?」
「ああ。こんなこと、聞いたこともない。はるかがこれからどうなるのか、正直判らない。ただ、巻き込んでしまったのは、確かだ」
「巻き込む?」
「ああ。本当に済まない。悪かった。すべておれのせいだ。どれだけ謝っても、足りない」
苦い顔で、ヴェルフェンは頭を下げる。
「え。どうして謝るの? 巻き込むって、よく判んない」
「宝珠に吸収されない魂は、存在しないんだ」
ヴェルフェンを見上げるはるかの眼差しに、不安が生まれる。
「肉体に弾かれたわけじゃないから、いまのはるかは、さまよえる霊魂でもない。こうして言葉を交わしたり触れたりできるなんて、ありえないことなんだ」
「どういう……」
ヴェルフェンの硬い表情に、はるかの不安は増していく。触れられたと単純に喜んでいる場合ではなかったらしい。
いまになって、そろりと背筋を冷たいものが這い上がる。険しいままの目の前の顔。
なにかを、ヴェルフェンは覚悟している……? なにか、本当に恐ろしいことが起こるというのだろうか。
「判らない。これから、どうなるのか」
「そんな、どうして? どうしてこんなことに?」
皮肉気に、ヴェルフェンは唇を歪めた。
「死期を教えてしまったからだろう。人間に死期を伝えるのは、罪だから」
さらりと口にされた言葉に、はるかははっと息を呑んだ。ヴェルフェンは痛ましいまでに表情を歪め、諦念のせいなのか、声は掠れ震える。
「罰を受けるのは、おれだけだと思ってた。すべておれのせいだ。済まない……」
「罪だってこと。知ってて……?」
「ああ。でも、巻き込むつもりなんてなくて」
「最初から知ってたの? 知ってたのに、教えてくれたの?」
「後悔は、してない。するとしたら、はるかを巻き込ん―――!」
ヴェルフェンの言葉が、とんという衝撃とともに途切れた。
「はる、か……?」
ヴェルフェンは、飛び込んできたはるかの腕の中にいた。ふたまわりほども小さなはるかが、腕をせいいっぱいに伸ばし、しがみつくようにヴェルフェンを抱き締めていた。
「あたし……! あたし全然気付かなかった。罪を犯させてたなんて」
「……」
「死ぬ時期を教えてくれたから、ちゃんと生きてけた。ヴェルフェンに逢えたからあたし、すごく幸せだった」
その幸福は、彼の覚悟の上にあったのだ。身勝手と詰ったことがあった。どれほどの覚悟を抱えていたのか知りもしないで。
「ごめん。ごめんなさい。ひとりで辛い思いしたんでしょう?」
ヴェルフェンの背中にまわした手にいっそう力を込めるはるか。頬が胸に当たる。それだけで、途方もなく愛おしい。この感触を、どれほどこいねがったか。
「触れられるのが罪を犯したせいなら、あたしもだよ。あたしも一緒。ひとりで背負わないで。ひとりで苦しい思いすることなんてない。ヴェルフェンだけになにかあるなんて、堪えられないよ」
「はるか……」
「ずっとヴェルフェンに触りたかった。やっと触れたんだよ。こうやって抱き締めることができたんだもん、すごく幸せなんだよ。ヴェルフェンのおかげ。罰なら、あたしも一緒に受ける。一緒に受けるよ」
「はるか」
ヴェルフェンの眼差しが、堰を切ったように揺れた。
瞬間、身体をかき抱かれた。
大きな手が、長い腕が、はるかをもみくちゃにする。
激しいくちづけが落とされた。ずっと望んでいたヴェルフェンとのキス。初めて、自分の唇に彼を感じることができた。
幸せだった。
途方もないくらい、彼と触れ合えるいまが幸せでならなかった。
死期の告知が罪だっていい。罰を受ける、それでもいい。
どうなったっていい。
ヴェルフェンとこうして一緒にいられるのなら、どんな罪だってともに受け入れよう。
身体のすべてが、想いのすべてがとろけだし、ヴェルフェンへとほとばしり、溢れていく―――。
―――はるかを抱き締めるヴェルフェンに緊張が走り、急にその身体が固くなった。
「……?」
熱に浮かされた感のはるかだったが、頭上の厳しい顔つきに、我に返る。
ふたりのまわりを、黄色いショールのようなものを羽織った白いローブ姿の男たちが取り囲んでいた。
いつの間にか変化していたものものしい空気に、喉の奥で声は凍りつく。
「判っておろうな」
白いローブのひとりが、温度を感じさせない声で告げる。
「―――はい」
はるかを抱く腕に力をこめ、頷きを返すヴェルフェン。
男の冷たい視線が、はるかに向けられる。
「小娘。お前も同罪だ」
「しかし彼女は!」
「捕らえよ」
ヴェルフェンの抗議は黙殺され、背後から伸びてきた手によって、はるかは彼から引き剥がされる。
「ヴェルフェン!」
「はるかッ」
互いに伸ばした手は、ほんの僅かな距離が届かず、指の先が空を切る。
「!」
はるかは蔓のようなもので強く縛りあげられた。ヴェルフェンも同じように縛られ、男たちに囲まれたままにじむように消えていった。
(いやだッ……!)
闇夜の雨の中、ひとり引き離されて足は竦む。すぐにはるかも残った男たちに囲まれ―――視界は暗転した。
そうして連れられたのが、深淵の闇に浮かぶ、冥王の謁見の間だった。




