第一章 天使 一-1
いまだに、信じられない。
呆然とバスを降りるはるかの足は、心許なくおぼつかない。
県外の大学に進学したばかりの彼氏とは、付き合って一年近くにもなる。高校の、ひとつ上の先輩だった。
そんな彼がふたつも県を越えた大学に進学すると決まったとき、はるかは泣いた。
距離なんて関係ないよ。
そう笑顔で、彼は力付けてくれた。
それなのに。
「なのに一目惚れだって。年上なんだよ、ふたつも」
携帯の相手に泣きつかずにはいられない。やっぱ距離には勝てないのかなあと、携帯の向こうで中学からの友人、早紀がぼやく。
好きなひとができた。
そう言って突然別れを告げてきた彼に、真偽を確かめるため、今日この日、勇気を出して会いに行ったのだ。
そこで伝えられたのは、残酷な別れの言葉。諦めきれず追いすがるはるかに、彼は最後通牒を突きつけてきた。「鬱陶しいよ」と。
まさか彼からそんな言葉が投げつけられるとは思わなくて、愕然として反論の言葉も出てこなかった。
一年をかけて育てた恋は、あっけなく散った。
男なんて。遠距離なんて。
なにが距離なんて関係ない、だ。
関係おおありだったじゃないか。
(鬱陶しい、って)
頭の中は真っ白で、どの電車に乗って、どこをどう帰ってきたかなんて覚えていない。家への道は、気がつけばとっぷりと暗い。両側のマンションから、夕食の団欒に入る家族の様子がカーテンごしに見える。
「一ヵ月も経ってないのに……信じらんない……。鬱陶しいって、鬱陶しいよってひどくない?」
『そんなこと言うなんてね。ちょっと意外』
彼は、はるかをいつも引っ張ってくれるひとだった。彼の優しさが好きだった。自分に酔うきらいもあったが、早紀も、彼がはるかに見せる優しさを認めていた。
『なんだかなぁ。お似合いだと思ったんだけどなぁ』
「あたし、やだ。やだよこんなの」
『……奪っちゃえば? どうせ年上に騙されてるだけだよ。はるかのが断然いいに決まってるし』
「だめ。相手すっごい美人。なんかもう、先輩全然顔違うし」
『相手に会ったの?』
「覗いた。こそっと」
『そっか……。相手のが全然上手か』
全然とまでは言っていない。
彼の、相手に向けたあの満面の笑みが頭から離れてくれない。なんのてらいもないあんな顔、はるかに見せてくれたことがあったろうか。
付き合っていたあの一年は、なんだったんだろう。
溜息が落ちる。踏み出す一歩の足が重い。このまま消えてしまいたかった。
―――と。
数歩を置いたところに、白い雲のようなモノが浮かんでいる、ような。漂っているような。
(漂う? 水の中じゃないのに?)
「……なんだろ」
『どした?』
「ん。なんか、雲? っぽいのが」
(気のせい……?)
雲は、つかず離れずの距離ではるかの隣に漂っている。錯覚だろうか。まつ毛の先に、ごみでもついているとか。
目をこすりまばたきを繰り返し、もう一度目を凝らしてよく見てみる。
白いなにかは、変わらずそこに漂っている。
(……じゃ、ない)
『雲? ……、曇ってるけど、それが?』
「や、そうじゃなくて」
靄のような白い塊は、こうして話す間にも歩みとともについて来る。そんな靄など、聞いたこともない。
(霊とか、そんなんじゃ、ないよね?)
まさか、と、ちらりと思った自分の単語にぞっとする。
(まさかまさか。そんなわけないって)
霊感はないはずだ。見えるわけがないし見たこともないし見たくもない。
「雲みたいなのが、ついて来てる」
知らず小声になるはるか。早紀の声も、つられてか怪訝にひそめられる。
『……蜘蛛の巣の蜘蛛?』
「じゃなくて。空の雲。白くてもやもやしてて。靄? すぐそこにいて」
『?? よく、判んないんだけど』
はるかにだって判らない。
敢えてそちらを見ないようにして先を急ぐ。
視界から靄が外れたと思ったそのときだった。
「―――はるか。望月はるか」
背後から名を呼ぶ声があった。
どきんと心臓が熱く震えた。
やり直そうと彼が来てくれたのかと、思わず浮き立った想いに足が止まる。だが足を止めてみて、自分を呼んだ声は彼のものではないと気がついた。第一、こんな他人行儀にフルネームを呼ばれたことなんてない。ためらいがちの低い男の声は、もちろん早紀のはずもない。
(……、誰よ……?)
父や兄がフルネームで呼ぶわけがないし、こんな呼び止めかたをする知り合いは、いない。
まわりは誰も歩いていなかったはずだし、誰かの足音もなかった―――はず。
変質者? それともまさかストーカー?
背筋が、すっと冷えた。
―――あの、白い靄。
あの得体の知れない白い靄が呼んだのか?
(あり……ありありえないって)
「うそ。やばいって……なんかやばいって早紀ちゃん」
『どしたの?』
差し迫った声のはるかに、早紀も異変を感じ取る。
「行くな」
逃げだそうとしたはるかを、どこか切迫した男の声が押しとどめる。やはりまったく知らない声だ。
「行かないでくれ、はるか」
『ねえ、はるか?』
はるかは身を凍らせたまま、ひとつ唾を飲み込んだ。
どうして、足なんか止めたんだろう。
振り返ってはいけない。とにかくまっしぐらに走るべきだ。家に帰って母か誰かに会うまで、首を動かしてはいけない。
あのバス停で降りるのが自分だけじゃなければ。この道を一緒に歩くひとが他にもいれば。そうすれば誰かが助けてくれたかもしれないのに。わけの判らない声に呼び止められるなんてことなかったのに。どうにもならないことだけれど、誰も降りてくれなかったバスの乗客がひどく恨めしくなる。
気付かないふりをするのだ。聞いてはいけない。自分はなにも見てはいないし、なにも聞いてもいない。
息を詰め、逃げだす機会を窺う。携帯を握る手に、汗が滲んだ。
『大丈夫? そっち行こうか?』
「ううん……でも、切らないで」
かすかすと声がかすれる。固まる足に、動け動け動くのだと念を込める。
(いち、にの、さん、で……)
「はるか。おれは……」
―――逃げるべきと判っていた。
なのに、どうしてだろう。
なにかをためらい堪えるようなその声に、自分でも何故なのか判らない。ひょいと抵抗感もなにもなく、思わずはるかは振り返ってしまう。
―――息を、呑んだ。
呆然と目が大きく見開かれる。
白い靄が、あったはずなのに。
目の前に現れたのは、はるかを呼んだのは、白い靄ではなかった。
ストーカーでも変質者でもない、だろう。
褐色の髪、黒い瞳に白い肌。見上げるほど背の高い、彫が深くて整った顔立ちをした青年が、そこにはいた。
不思議な恰好をしている。
膝下までの白いローブ。胸元から、着物の合わせ目のようなものが見える。一瞬、古代の中国風にも思えたが、ゆったりとしたズボンとその裾を入れたブーツから、どこか砂漠を行く隊商を連想させた。
しかしそれ以上に目につくものがあった。身の丈をゆうに超える巨大な鎌だ。
彼は背中に、不気味な刃を露わにした大鎌を背負っていた。
街灯の下に佇むその姿に、背後の木々が透けて重なっている。
(幽霊……?)
人間では、ない。なにかの仕掛けで映像でも投影されているのかもと一瞬思ったが、映像にしては立体的すぎた。背の高い、体格のいい男のひと。ただ、身体が半分透けているだけで。
身体が透けている人間なんているわけがない。
あきらかに常軌を逸しているのに、けれど、どうしてだか、恐怖は収まっていく。
動くことも忘れて、はるかはその青年をぼんやり見上げていた。
たんに整った顔立ちというのではなく、精悍な風貌をしている。けれどどこか気高くて、息を呑むほど圧倒される。孤独で寂しげなものも漂わせていて、いつだったかテレビで観た、野生の一匹狼を思い起こさせた。
ややして、はるかを見つめ返していた彼は、意を決したように唇を開いた。
「はるか。聞いて欲しい。おれはお前の命を、一年後、貰いに来る」
「……」
意味を測りかねるはるかの目が、ゆっくりとした瞬きのあと、うっすらと胡乱なものを浮かべる。
「お前の命は、あと一年で終わる。そのとき、おれはお前の命を狩りに来る」
呆けるはるかに、そう彼は繰り返す。
耳に心地よい声。胸に直接響いてくるようだった。
「……」
「聞いているのか?」
「え。あ、はい。……!」
(やば!)
はっと口に手をやるが、既に遅い。自分の愚かしさに焦りと不安でいっぱいになり、背中に震えが走った。
幽霊と言葉を交わしても大丈夫なのだろうか。あちら側に引きずり込まれたりはしないだろうか? 小説や漫画で、そういう場面があった気がする。
(でも幽霊っていうより、……天使って感じだし)
背中の大鎌が一対の白い羽であったら、絵画に描かれる天使に雰囲気はそっくりだった。金色ではない髪と黒い瞳が白い衣装に対照的で、らしくないといえばらしくないけれど、頭の上に輪があれば完璧だ。
はるかはじっと彼に見つめられている。その視線は優しいけれど強く、動くに動けない。
彼はなにかを言おうとするもためらいを見せ、口を閉ざした。
迷うように外された視線。しかしすぐに、それははるかに戻る。
「だから、……その。―――泣くな」
「え?」
思いもかけない言葉に、はるかは面食らう。
なんだか判らないけれど、初対面の幽霊に、慰められている?
(なんで?)
はるかを見つめる彼の目には、いたわるような気遣いの色がある。聞き間違いでは、ないらしい。
いまここで襲われる、というわけでは、ない、のか?
一年後にと言っていたから、ただ宣告しに来ただけなのかもしれない。まったく意味不明だけれど、いますぐ、どうこうなるわけではなさそうだ。
彼女の警戒が緩んだのに安心したのか、幽霊はふわりと僅かに表情を和ませた。
その、威力。
(うわ……!)
たったそれだけなのに、はるかの胸にいきなり熱いものが怒濤の勢いで襲いくる。その艶やかさに、思わず見とれてしまった。
(じゃなくて!)
すんでのところで、我に返る。
まばたきを繰り返して幽霊に意識を戻したとき。
既にそこには、誰の姿もなかった。