時の涯 三-2
ふとまばたきを繰り返すと、誰かの、腕の中にいる。
相手の胸を軽く押すようにして顔を上げると、目を瞠ってひどく驚いたヴェルフェンの顔があった。
「はるか……だよ、な?」
ヴェルフェンの掠れる声に、はるかはぼんやり眉をひそめた。
目の前にあるヴェルフェンの顔。手の、感触。
いま自分は、ヴェルフェンの胸を、押した……?
(天……国……?)
死んだ、のだろうか。
はるかは小さく指の先に力をこめる。
だから、だからこうして手のひらにヴェルフェンの感触があるのだろうか。
意識がぼんやりして定まらないはるかを前に、しかし狼狽といっていいほどヴェルフェンは混乱していた。
あのまま、大鎌を振るわれたはるかの魂は、胸の宝珠に吸収されるはずだった。それなのにひと形をとり、こうして抱き寄せることができている。
何故だ?
ヴァルドウに斬られることによって根を露わにした魂の蔓は、肉体から解放され、魂の本能に従って冥界へ還ろうとする。ヴァルドウの宝珠はそのための門。人間のぶよぶよとした赤黒い魂はヴァルドウの胸に嵌め込まれた宝珠に吸収されて、冥界へ運ばれると決まっている。万にひとつ魂の状態に異常があった場合は、宝珠に弾かれる。
弾かれた魂がひと形をとるなど、聞いたことがない。霊魂となってさまよいだすか、その地に囚われ続けるかのどちらかだ。そのどちらも鬼火のような儚いものがほとんどで、ひとの形を完全にとることはない。よくて輪郭だけ。顔や、まして表情を浮かべるなど。
なによりも、触れることができるなど―――ありえなかった。
聞いたこともない。
あってはならないことだ。
知らず身震いをしたヴェルフェンの脳裏を、恐れていた事態がよぎる。
一方、はるかはこれが異常なことだとは知らず、自分の姿に純粋に驚いていた。
ウェディングドレスを着ていた。長いトレーンの純白のドレス。ヴェルフェンとの結婚式をこっそり妄想したそのままのデザインだった。
足元に目を下ろすと、雨に濡れそぼった自分の身体が歩道橋の踊り場に崩折れていた。
あおむけにひっくり返ってはいるが、とりあえず恥ずかしい格好ではなかったことにほっとする。薄目を開いているのは気にいらないけれど。
その、頭のあたりから血が流れている。夜の雨。誰もまだ、流れる血に気付いていない。
事故からどれくらいの時間が過ぎたのだろう。ややして、サイレンとともに救急車が到着した。その音に呼ばれた野次馬たちがわらわらと現場に集まって来た。
そのうちのひとりが、ようやく倒れるはるかに気付く。案内された救急隊員が慌ただしく歩道橋を駆け上がる。
すべての光景は、宙に浮く自分の身体を透かして目に入ってきていた。身体を抜けて地上に降り注ぐ雨は、抜け殻となった肉体を無情に叩き続けている。
駆けつけた隊員は、救命措置をしながら大声で別の隊員たちに指示を飛ばす。運ばれる担架。スローモーションのように、それらはゆっくりと時を刻んで繰り広げられている。
「あたし……だよね。あたし、死んじゃった……の?」
「あ……、ああ」
全然そんな感覚はないけれど、もう幽霊になってしまったのか。あの身体は、これからどうなってしまうのだろう。救急に運ばれて処置をされるのだろうか。
自分の意識は、ここにあるというのに?
どういうことなのだろう? もしも処置がうまくいけば、息を吹き返すこともできるのだろうか?
「還ることは、できないの?」
思わず口からこぼれた。
「身体に、戻れない? あたし、病院に行けば、戻れるんじゃない?」
ドラマや映画である、幽体が肉体に重なると息を吹き返す場面のように。
肉体を指差すはるかの希望を含んだ声に、ヴェルフェンははっと我に返る。硬い眼差しではるかを見、首を振った。
「あの身体は、もうお前のものじゃない」
短く紡がれたのは、残酷な音の連なりだった。
「でも……あたしの身体だよ」
「ヴァルドウの大鎌を胸に受けたら、もう生き返る道は、ないんだ」
「でも、あたしだったじゃない。戻れるかもしれないよ? やってみなきゃ判らない。……きっとこうすれば」
担架に乗せられる肉体へと飛び込もうとするはるかの腕を、ヴェルフェンは強く摑んで引き戻す。
「行くな」
「なんでよ!?」
まだ生き直すチャンスがあるかもしれない。いまならまだ、生き返ることができるかもしれない。
だがヴェルフェンの手の力は、緩まない。ぐっと強く摑んだまま、厳しい声音で続ける。
「弾かれて消滅する」
宙にびくりと止まるはるかの足。呆然と、ヴェルフェンを見つめ返す。彼は険しい顔で、はるかの肉体へと目を移す。
「あれは、過去の殻だ。はるかの場所じゃない」
「でも、だって」
諦めきれないはるかに、ヴェルフェンは眼差しを戻すものの、そこにあったのは心ここにあらずな表情だった。なにかを堪えているようにも見える。
「? どうしたの? なにか、あったの?」
いつもと違う。
なにかが、おかしい……?
難しい顔をするばかりで、ヴェルフェンは答えを返さなかった。
こうして腕を摑まれている事実は嬉しいはずなのに、彼の硬い眼差しと表情は、はるかの思いに不穏な影を落としていく。
〝死〟を迎えたはずの自分。命を落とした現場の上空にいることが、なにかまずいとでも?
肉体から切り離されたこの先に、重大な、避けることのできない恐ろしいなにかが待ち受けている、そんなことを思わせるほどの難しい表情だった。
「あたし、……どうなるの? どこかに行くの? それかもう、もう、ヴェルフェンとは、最後なの?」
予想していた〝死〟とは全然違っていた。
大鎌の刃が身体を貫いて〝死〟を迎えたとき、深い海の底の果てにある厚い膜のようなものをすり抜けた感じがした。その感覚は、生きていたときに怖れていたようなものではなく、喪失の感覚も、ただ肉体をするりと抜けた感覚だけで、意識は普通にいままでどおりにある。大鎌を受けることですべて終わるわけではないらしい。
気付くと事故直後の現場上空にいた。臨死体験者が言うように、命を手放したあとは自分の身体を上から見下ろすものなのかもしれない。
とすると、これから天国に―――死後の世界に連れて行かれるのだろうか。
(じゃあ)
その時こそが、ヴェルフェンとの永遠の別れになるのかもしれない。
(あれ……でも……)
それにしては、大鎌を振るう前のヴェルフェンは、今生の別れのような言葉を吐いていた。
どういうことなのだろうと疑問に思う一方で、ふつふつと胸の底から溢れる喜びもあった。
いまの状況やこれから先のことはさっぱり判らないけれど、きっと魂が肉体から解離したから、ヴェルフェンに触れられるのだろう。生きていた頃には叶わなかった願いだ。手の中に、大好きなヴェルフェンの感触が確かにある。しっかりと、彼の存在を返してくれる。死んだことによって得た喜びがあるだなんて思ってもみなかった。
「もう、一緒にいられないの?」
せめてもう少しだけでいい、一緒にいたい。半透明ではないヴェルフェンと離れたくはなかった。
手放したくなんかない。もうずっと、ずっとこのままでいたい。ようやく触れることのできる彼を、もっと感じていたかった。
「やだよ」
はるかはヴェルフェンの腕に、縋るように手を伸ばす。
あれほど恐れていた死。そのあっけなさに、拍子抜けすらする。
まだ、完全に〝死んで〟はいないから?
〝死〟は何段階も過程があるのとでも?
いつだったかヴェルフェンは言っていた。『おれは、魂を狩るだけだ』と。ヴェルフェンが関わるのは大鎌を振るうだけで、もう二度と、逢えないのだろうか?
このあと誰かが来て、自分をどこかへと引き連れて行くのか。
すべてを、無くすために。
それとも、独りきりでどこかへ行かねばならないのか。
ヴェルフェンと離ればなれに。
たった独りで。
(やだ)
ひとり置いていかれたくなかった。
更に〝死んで〟意識もすべて全部消滅してしまうなんて嫌だ。そんなの、怖い。次の段階へと進むごと、毎回喪失の恐怖に怯えなければならないのか。どうして〝死んだ〟のに、恐怖に苛まれなければならないのか。
いつまで続くのだろう。いつまで独りで堪えていかなくてはならないのか?
(無理、だよ)
生きているときはヴェルフェンがそばにいてくれて、苦しみや怯えを一緒に乗り越えてくれた。この先独りで消滅への道を歩いていくだなんて、堪えられない。堪えられるわけがない―――けれど。
ヴァルドウであるヴェルフェン。幾つもこの先〝死〟への段階を踏んでいくのならば、彼とこれからも一緒にいられるとは、どうしても思えなかった。
別々の道しか、ないのだ。
これが、もう本当に、最後の逢瀬なのかもしれない。
「あたし。―――もうお別れなの?」
「……判らない」
けれど、返ってきた答えは、思いがけないものだった。




