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時が涯てても恋してる。  作者: トグサマリ
第一部  時の涯てる前
18/41

    時の涯 三-1



 ヴェルフェンがはるかに命の期限を告知したのは、去年の五月十二日。

 そして、その日がやって来た。

 命を終えるのが恨めしいほど、清々しく朝から晴れ渡っていた。目に飛び込んでくる太陽の光が、いままでにないほどに眩しい。

 ヴェルフェンはいつ訪れるのか。

 戦々恐々とその瞬間を待ちながら、いつもどおりはるかは大学に向かう。

 が。

 ―――この日。真夜中になってもヴェルフェンが現れることはなかった。

 次の日も、その次の日も。

(まるまる一年後ってわけじゃ、なかったのか……)

 この日、どこか肩すかしを食らったような思いで、はるかは駅で立ち尽くしていた。

 天気予報では晴れが続くと言っていたのに、ほんの五分ほど前から雨が降りだしていた。

 日は長くなりつつあるとはいえ、さすがにサークルを終えて帰る頃には、辺りは夜の暗さだ。

 そうして、こんなときに限って、駅の自転車置き場に置いていた自転車がパンクしていた。

 ついていない。

 最期の日がいつ来るのか知れないというのに、乗ろうと引き出した自転車のタイヤは、ご丁寧にもナイフで切り裂かれた痕にそってぺたりと沈む。

(嫌なことがあったのかもしれないけどさ。せめて晴れてる日にやって欲しいよ)

 自転車置き場の屋根を叩く雨音が、運のなさを嘲笑っているかのようだ。

 どうして自分のなのか。

 隣に置いていある無事そうな自転車を見ると溜息が出る。

 夜空を見上げると、街灯の光を受けて浮かび上がる雨の筋。

(バスで帰るしかないか……)

 バス代は痛いけれど、仕方がない。兄の康平は母親の車でバイトに行っているから迎えを頼むことはできないし、父親の帰宅は、もっと遅い時間だ。

 雨音は、いつしか耳がはっきりと拾うほどまでに大きくなっている。バスを降りたあたりから次第に強くなってきた雨は、まぶたや頬に当たっては確かな感触を落としていく。

(折り畳み傘、持ってればよかった)

 かえすがえすも、パンクの犯人が憎らしい。これで風邪をひいてこじらせたらどう責任とってくれるのだ。

(……。そっか。『責任』なんて、もうあってないようなものか)

 風邪をこじらせて死を迎えるのだろうか。苦しそうだからイヤだなと思いながら、はるかは足を速める。

 家は、バス停からは十五分の距離にある。できれば目の前の通りをそのまま渡ってしまいたかったが、雨の夜ということと交通量が思ったよりあること、なによりもヴェルフェンの死の告知が、道を横切るのを思いとどまらせた。

 すぐそこに、歩道橋がある。

 既に服は雨を含んで重たい。ここまで濡れたのだ、道を突っ切ろうが歩道橋を使おうが、変わりはない。

 ―――歩道橋の階段を昇りきろうとしたそのときだった。

 鋭いブレーキ音が雨を切り裂くようにあたりに響いた。その鋭い音に意識を向けた瞬間、轟音とともに歩道橋が激しく揺れた。

「!」

 ぐらりと、バランスが崩れる。手すりに伸ばした手はつるりと雨に滑り、はるかはそのまま、背中から階段に放り出された。

(え……)

 がしゃんというなにかが倒れる音と、誰かの悲鳴が雨音をぬって耳に届く。

(ちょ、うそ、こんなのって……)

 宙を泳ぐ手。頬を叩く雨。視界は天地を失う。

 暗い雨空が目に入ったと同時、頭に激しい衝撃と痛みが走った。

 視界は電撃を受けたかのように弾け飛び、―――一瞬にして暗転した。



 洞窟に響く反響音のようなものがぼんやりと聞こえてきた。緩くまばたきをすると、目じりからまぶたへと熱く流れるものがある。そうして頬を打つ、幾つもの冷たい衝撃。

 耳が拾う音はだんだんとはっきりしていくが、いろんな種類の音が、大きいのか小さいのかも判別つかないほどに混じりあっていて、どれを聞きとっていいのかが判らない。

 はるかを叩く雨は重たく、激しくなる一方だった。

 自分が息をする音が、聞こえる。それに重なるように、ひとの声も。

 どうも下のほうが騒がしい。道路の向こうからか。そのせいなのか、道路を挟んだ反対側の踊り場で倒れるはるかに気付く者は、誰ひとりとしていない。

 雨に打たれ、視界はぼんやり淡い紗がかかっている。寒かった。鼓動のたび、力とぬくもりが雨とともに流れていく。引っくり返って女子として恥ずかしい恰好をしているのに、起き上がることができない。指の先すら動かせなかった。

(こんな死に方……? ……ヤダ、な……)

 そう思う一方で、もうひとりの自分がひたと自分を見つめて首を振る。

 ―――いいや。

 死んだりなんかしない。

(あたしは、死なない)

 それはいまなお抱いている希望、妙な確信だった。動けないくせに往生際が悪いけれど、誰かが助けに来てくれる、自分は助かるのだと、蜘蛛の糸よりも細い自信が何故だかあった。

 けれど運命は、容赦がない。

 雨の音は、こんなにも耳につくものだったろうか。

 一瞬一瞬が、長い。

 次第に、寒さが強い疲労となって全身を侵していく。

(ヴェルフェン……)

 目を閉じたら、もう二度と開けることができなくなる気がした。

 眠ってはいけない。意識を手放してはだめだ。

 頑張れ。()えろ。

 誰かが、気付いてくれるから。気付いてくれるから。

 懸命にそう自分を叱咤する。

 時折目のそばを叩く雨粒に、まぶたがわななく。ひとの声は聞こえるのに。すぐそこに、たくさんのひとがいる気配はあるのに。

 助けてと言う声が、喉に絡まって音にならない。

(誰かお願い、早く気付いて)

 祈り続けるはるかだったが、このとき歩道橋の反対側では、自転車の高校生ふたりがスリップした大型トレーラーの下敷きとなり、大騒ぎになっていた。

 雨の中なにがあったのか、急ブレーキをかけた大型トレーラーが制御不能となった。狙ったかのようにガードレールの隙間から歩道側へ滑り込んだトレーラーは、歩道橋の脚に激突をし、更に歩道に乗り上げ、積載していた巨大な荷物が偶然通りかかった自転車のふたりを押し潰したのだ。周囲の人々による救出は懸命に続けられていたが救急車はいまだ来ず、頼みのサイレンの音すら聞こえない。歩道橋で倒れるはるかに誰ひとり気付かなかったのは、踊り場が折れ曲がる形になって死角になっていたこと、そこを照らす照明が切れていたこと、なによりも、事故現場と反対側にいたせいだった。

 逼迫した音が耳をつく。苦しそうな呼吸の音だ。なんの音、誰の音と考えて、

(あたしの……音だ)

 頭の中で幾つもの行程を経てようやくその事実に辿り着く。いつの間に、こんな苦しげな呼吸になっていたのか。

 だんだんと、息を吸い、吐くことが辛くなってきた。

 このまま、逝くのだろか。

(ホントに?)

 空から降りしきる雨粒が怖くて、目を開けていられない。それでも、雨の降りくる様子は、閉じきれないまぶたの下で、はるかの瞳に映り続けている。

 暗くて灰色の空から、白い矢のような雨が丸い形で落ちてくる。

 透明になっていく意識の中、唐突に肌を艶やかに輝かせた黒い影が浮かび上がってきた。

(うま……)

 次第に形を現してくるその馬は、輝く毛並みをしていた。はるかの知る、出逢ったことのある馬だった。

 莫迦だと、思った。

 自分はなにをしていたのだろう、と。

 あとひと月後に死ぬと判っていたのに、どうしてやりたいことから目を背けたのか。

 ボランティアのサークルは、確かに意味のあることだし、興味を持ったのも本当のことだ。

 けれど。心の底から惹かれたものだったのかというと、違うとしか言いようがなかった。

 本当は、大学に入ったとき、真っ先に目を引いたものが別にあった。

 敷地の奥にある馬場への案内板。なんとなく足をそちらに運んで見た、馬場を歩く数頭の馬たち。

 その中の、一頭。息を呑むほどに綺麗で、すらりとしていて美しかった。

 目を、奪われた。こちらに向いた無垢で透明な眼差しに、心を持って行かれたというのに。

 どうして、馬術部への入部を諦めたのだろう。

「余計なことに煩わされて人生を狭めることはない」とヴェルフェンは言ってくれたものの、心惹かれるままに馬術部に入るのは、あのときはどうしてもためらわれた。

 馬場を行く馬はかっこよかったけれど、その大きさに圧倒されて怖くもあった。動物と接して、愛着が湧いてしまったら別れがたくなる。変なところで言い訳をして背を向けてしまったあのときの自分。

 どうして、と思う。

 怖くても、体験すべきだった。勇気を出して、身近に接するべきだったのに。もう二度と見ることも触れることも叶わなくなる。無となって永遠に別れなければ、手放さなければならないからこそ、飛び込んでみるべきだった。別れがたくなるという言い訳に逃げるべきではなかった。

 挑戦してみるべきだった。

 愛着が湧いても、別によかったのに。

 失うことに、なにを怯えていたのか。

 あの純粋な馬に、そっと手を這わすことができれば、それでよかったのに。

 莫迦だ。

 後悔も、もう遅い。

 このままひっくり返って死んでいく自分には、もう、どうすることもできない。

 本当に、莫迦だ。

 こうなると判っていたからこそ、ヴェルフェンは死期を教えてくれたというのに。

 結局は、なにもできなかった。

(ありがとうも、言えなかったよ)

 両親に、産んでくれてありがとうと、この世界を教えてくれてありがとうと言うことができなかった。手紙を遺すのではなく、不審がられても泣いてしまっても、ちゃんとその眼を見て言うべきだった。康介にも、早紀にもエリにも。サークルのみんなにも、出会ったいろんなひとたちに。

 ありがとうと。

 ―――足りない。

 もっと時間が欲しい。

 時間が、足りない。

 圧倒的に足りない。

 コミックの続きも読みたいし、名作といわれる文学作品も読んでみればよかった。夏に公開される好きな俳優が主演する映画も観てみたいし、英語に尻込みせず、ファンレターも出せばよかった。フランスやイギリス、ヴェルフェンのいるヨーロッパにも行ってみたかった。行こうと思えば行けたのに。今日最期を迎えるのなら、お気に入りの服を着ていたかった。傘を持っていればよかった。もう一本遅いバスにすればよかった。歩道橋を選ばなければよかった。どうして、自転車を引いて帰らなかったのだろう。

 あらゆるすべてが、自分が選択してきたすべての道が、自分を取り巻くすべての出来事が、いまここに、この日この時間、この歩道橋に向かっていたように思えてならない。

 馬術部に入っていたら。ダメもとで家に迎えの電話をしていたら。パンク犯が選んだのが隣の自転車だったら。雨が降っていなかったら。もっと早足で家に向かっていたら。

 すべては変わっていたかもしれない。

 きっといま頃は、家に着いて母親に自転車のことを愚痴っていただろうに。

 もう、なにもかも、取り返しがつかない。

 どうすることも、できない。

 ただ、雨を受け続けるだけ。

 長く息を吐き出すと、ふとひとりの青年の姿が胸に思い出された。

 もっと。

 もっともっとヴェルフェンと言葉を交わしたかった。もっとたくさんおしゃべりしたかった。

 もっと、一緒にいたかった。キスをされたかった、抱き締めたかった。

 どうしてこの歩道橋を選んだのだろう。

 どうして手すりを摑んでなかったのだろう。

 どうして死ななくてはならないのだろう。

 どうして―――。

 雨に打たれる頬を、熱い涙が伝い落ちていく。

 空気が、息が足りない。

 まだ、することがあるのに。

 したいことが、まだまだたくさんあるのに。

 誰か。

 このまま死ぬだなんて。

(あぁ……)

 まだ誰も、誰もまだここにひとがいると気付いてくれないのか。

 ざあざあと、歩道橋の床を叩く雨音がうるさくなる。歩道橋の下、その間近なところから聞こえてくる誰かの怒号、静寂、金属がこすれる音、車が道を行く音。いろんな音がまじりあって、雨音となって、はるかの耳へと流れてくる。

「ヴェル……フェン……」

 くぐもった、まるで自分のものでもないような声が、喉の奥から細くこぼれた。



 どれくらいが経ったのか。

 ―――目の前に、白い影が。

(ああ……)

 すらりと闇に立つなじみのある姿。

 ヴェルフェンだった。

 ゆっくりと歩み寄るヴェルフェンは、はるかのもとに膝をつき、その顔を覗き込む。

 もう、言葉をかけることも笑むこともできなかった。

 はるかに注がれるひたすらまっすぐなその眼差しに、もしかしたら死のリストから自分は外れたと伝えに来たのかと、助かるのかもしれないと、僅かな期待を込めて食い入るように見つめ返す。

 けれど、

「最後だ。はるか」

 痛ましいほど切ない声が彼の唇からこぼれた。

 最後―――最期。

 死のリストから、逃れられたわけではなかったのか。

 さまざまな想いが入り混じった吐息が漏れる。

「お前に逢えて、幸せだった。お前を愛し、愛されたことは、永遠におれの支えだ。ありがとう、はるか。ありがとう」

 ヴェルフェンははるかにくちづけると、愛しむように頬に手を這わす。そうして、そっと身体を離した。

 彼の眼差しは清冽なものとなり、胸元に注がれる。

 恋人ではなく、ヴァルドウ―――死神としての眼差しだった。

(あ……)

 彼の視線を追うと、いつの間にかはるかの胸に、小さな双葉(ふたば)が生えていた。ヴェルフェンが背中から大鎌を取って構えると、双葉は一気に伸び、(つる)となってヴェルフェンの胸を貫くようにして勢いよくそこへと潜り込んでいく。

 その蔓の根元めがけ、ヴェルフェンは袈裟がけに大鎌を振るった。



 背中の大鎌は、飾りじゃなかったのか。彼が大鎌を手に取った時に感じたのは、そんなどうでもいいことだった。

 胸を斬られた痛みは、まったくなかった。

 ただ、その瞬間、目の前に様々な光景が怒濤の勢いで流れていった。

 三輪車に乗っている自分の姿。幼稚園でのお遊戯会。入学式で転んだこと、遠足、学芸会、展覧会、誕生日会、合唱コンクール、受験、面接、早紀とエリの笑顔、両親と兄と一緒にテレビを見ている自分。ヴェルフェンと初めて会った夜。そして死を受け入れたあの黄金(こがね)色の光景。

 一瞬に凝縮されたそれらは、同じ一瞬で展開されて、―――凪ぐようにして消えていく。

 意識の底が、ざらざらと(こす)れていた。

 寄せては返す波の底の砂のように、静かに優しく揺すられる。

 ひどく、眠たい。

 急激に強い睡魔に引き寄せられていく。

 まぶたが重くなり、なにかが閉じていくのが感じられた。

 大鎌が開いた切り口から、蔓の根なのか、ぶよぶよとした赤黒い塊が溢れ出てきた。

 視界が、引き剥がされていくように、ぼやけていく。

(ああ……)

 ひとの最期は光に導かれたり、川を越えて花畑が広がっているのだと、漠然と思っていた。

 そうではなかった。

 深い海の底に沈んでいくような、青く、暗く、果てしなく静かな世界に包まれる。

 自分が消えていく感覚を、はるかは確かに感じた。

 ―――はずだった。


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