時の涯 二-2
二月は本当に短い。滑り止めの受験から始まり、イベントごとが詰め込まれていてあっという間だ。
バレンタインが済んだら、本命大学の試験が控えている。ただひたすらに体調には気をつけて、試験に臨む。
そして気がつけば卒業式だった。
この制服を着るのは、この日で最後になる。当日の朝、袖を通すとき、いろんな思い出がこみ上げてきてじんと胸が熱くなった。
この高校を選んだのは、制服のかわいさが一番大きかった。公立でそれなりのレベルにあったから受験勉強には苦労をしたし、受かったときには早紀と一緒に飛び上がって喜んだ。それも三年も前になるのかと、たった三年前のことなのに遠い昔に思えて胸が熱くなる。
卒業式後、思いがけなくふたりの同級生から呼び出されて、告白をされた。もちろん「彼氏がいる」と断ったが、当人たちは目の前にその『彼氏』が半眼になって立ちはだかっていることなど思いもしなかっただろう。不機嫌そうなヴェルフェンが、おかしくもあり嬉しくもあった。
卒業式から約一週間後、本命の合格通知が届いた。
この大学が、はるかが所属することとなる最後の組織だ。そう思うと、合格通知を前に、身は引き締まる。自然、頭が下がった。
四月。エリとも早紀とも別々の大学に進むこととなった。寂しかったが、それで友情がなくなるわけではないし、三人とも第一志望に進学できたのだ。エリが下宿となることもあって会うことが簡単にできなくなるぶん、連絡だけは頻繁にしようねと泣きながら約束をした。
大学でのサークルは、ボランティア部にした。本当は、サークルに入ってもひと月ほどでいなくなるのだから、入部にはためらいがあった。けれど、
「死期を知らなければ入っていたのなら、入るべきだ。余計なことに煩わされて、自分の人生を狭めることはないだろう?」
そう言うヴェルフェンの言葉に背中を押されて、思いきって入ることにした。
おもに老人介護施設やフリースクールなどを訪問したりするサークルだ。きっと、自分の命の期限のことがなければ、入ろうとも思わなかった。それでも、頭だけで知っていた世界に実際に飛び込んでみると、目からうろこが落ちるように自分の世界が広がっていくのを、文字どおり実感することができた。いいことばかりではないけれど、それでもものすごく、心地の良い清々しい経験だった。
ただ、関係のないところで気になることがある。
ボランティア部に入部するとき、最初に「彼氏がいます」と宣言したので誘われることはないと考えていたのだが、女子よりも男子が多いことに、ヴェルフェンはいい顔をしない。
(やっぱり独占欲が強い……?)
不機嫌な顔でサークルの面々にケチをつけるヴェルフェンに、はるかはそう思わずにはいられなかった。
「……なに?」
帰宅途中じっと見つめていたらしい。ヴェルフェンが怪訝に問う。
「ねえ。ヴェルフェンって、いままで彼女とかって、いた……、よね?」
「え?」
思いがけない質問だったのか、ヴェルフェンの返答はひっくり返ったそのひと言だけで、後が続かなかった。
「っていうか、女のヴァルドウっているの?」
ヴェルフェンと共に時を過ごすようになってから、はるかは直接的な『死神』よりも、『ヴァルドウ』という言葉を選ぶようになっていた。
他人が見ても不自然にならない程度に、街灯の光を透かすヴェルフェンを見上げる。唇をあまり動かさないようにして小声で喋るのも、ここ数ヵ月で身につけたものだ。
「あたしヴェルフェンのこと、あんまり知らないんだよね。年とか、どこで生まれたのかとか、彼女はいたのか、何人いたのかとか」
好きなひとのことを知りたいと思うのは、おかしなことじゃない。たとえ自分の命があと一ヵ月ないのだとしても、関係なく知りたいと思う。
この数ヵ月、毎日は充実していたが、恐怖から解き放たれたわけではなかった。
いくら自分が世界の一部なのだと思えても、死は、やはり恐ろしい。ふとしたことで、喪失への恐怖に苦しめられる。
恐怖に絡め取られ、無様なほどにわめいて足掻いて、もしかするとという希望に思いを託す。そんなことの繰り返しだった。
四月も終わろうとするこの頃になると、なんとかなるだろうと、不思議と楽観的に思えるようになった。病気の気配もなく、だから災害が起きるのかと部屋に非常持ち出し袋を用意もした。健康には気をつけている。両親や兄にも手紙を書いて、机の引き出しの底に入れておいた。早紀やエリにも手紙を書いて、家族への手紙と一緒に置いてある。
最善ではないかもしれないが、自分にできる限りのことはやってきた。それが、踏ん切りをつけさせたのかもしれない。
そしてなによりも決定的なのは、ヴェルフェンの存在だった。
彼の存在は大きく、辛く苦しいとき、堪えようもない嘆きをすぐそばで受け止めてくれる。
「知ってどうするんだ?」
ヴェルフェンはなんでもないように逆に尋ねてきた。
「おれはお前を愛してる。それで充分じゃないか」
「もしかして、そういうことは話せない、とか?」
「―――恥ずかしいだろ」
思わずはるかの足が止まる。
ヴェルフェンは気まずそうな顔でそっぽを向いていた。居心地の悪そうな彼の顔を見るのはめったにない。
(うわぁ……)
もっと知りたい。もっともっと、ヴェルフェンのことが知りたかった。
「ヴェルフェンのこと、教えて」
「……」
「ね?」
「……」
ヴェルフェンは観念したのか、はるかに目を戻す。
気まずいような、少し困ったような顔だった。
「そんな声でせがまれたら、……まいったな」
ひとつ大きく息を吐き、少しのためらいのあと、ヴェルフェンは訥々と語りだした。
一番最初の記憶は、大海原を行く船団だという。暗い海の色とものものしく武装した船団の姿を覚えていると。その後、ヴァルドウとして独り立ちをし、かなり経った頃に断頭台――ギロチンが現れたと言うから、二百年は生きていたことになる。それ以上かもしれない。ヴァルドウの中でも、長く生きているほうだと彼は言った。『死神』が『生きている』というのは、なんだかおかしな話だ。
仕事は、ヨーロッパ方面がほとんどだという。日本での仕事は、そう多くないらしい。
「で、恋人のこと、か」
言いにくそうに、けれどヴェルフェンは続けた。
「いなかったわけじゃない」
「―――ん」
覚悟はしていたが、ショックは否めない。
「何人、くらい?」
「覚えてない」
「お覚えてない!? そんなにもたくさんと付き合ってたの!」
声を裏返して思わず食いついてしまうはるか。
「そうはっきり訊くなよ」
気まずい口調のまま、ヴェルフェンはがっくりと脱力する。
「元カノとか、会ったりとかしちゃう、の?」
「前は偶然鉢合ったりしたけど、いまは、ほとんどないな。まだヴァルドウでいるのもいるが、ほとんどはもういないから」
「ヴァルドウも……、死んだりするの?」
頷くヴェルフェン。
はるかの目が驚きに大きく瞠られる。
「ヴェルフェンも死んじゃうの? いつか死んじゃうの?」
「そうだろうな」
どこか悟ったような眼差しをヴェルフェンはする。はるかの喉の奥に、恐れがせり上がってきて、声が震えた。
「やだ。やだよ、そんなの」
「そう言ってもらえただけで、おれの人生も、捨てたもんじゃないな」
「……」
「そんな顔するな。悲しんでもどうにもならない。いずれは、誰にでも訪れることだ。そうだろ?」
「……」
「これまで、確かに何人も恋人と呼べる相手は、いた」
話を戻すヴェルフェン。道の先、どこか遠いところを見つめている。
「でも、それだけだ。全然違ってた。判ったんだ。運命ってものがあるのなら、おれにとって運命の相手は、はるかなんだって」
静かな口調。ずっと探していた答えを見つけたような、どこか晴れやか表情をヴェルフェンは浮かべていた。すっとはるかの肩のあたりに、手を差し伸ばす。
「おれにしか見えないこれ。魂の輝き。こいつ呼ばれていたんだ。はるかとの間にある絆がおれを呼んだんだと、そう思ってる」
仄かにヴェルフェンは笑み、はるかに眼差しを注いだ。
「愛してる、はるか。どうしようもないくらいに」
運命の、絆。
それは、人間相手だとは限らないのかもしれない。
自分の命を奪いに来る存在が運命の相手だということも、あるのかもしれない。
「あたし、命を取りに来るのがヴェルフェンでよかったって、思う。ヴェルフェンだから預けたいって、受け渡したいって。これだけは伝えておかなくっちゃって、ずっと思ってた。でも、なかなか言えなくて」
「はるか……」
「ヴェルフェンが好き。壊れちゃうくらい、好きでたまらない」
彼に出逢うまでは、愛がどういうものか判らなかった。けれど、いまなら判る。
この命を預けようと思える絶対的な信頼感、安心感。魂が互いに融合しているような、ひとつになったような穏やかな気持ち。
「愛してるって、こういうことなんだね」
ヴェルフェンの腕が、はるかの頭にそっと乗せられる。その手はゆっくりと流れ、首筋に添えられる。
静かに、そして自然に、唇に、唇が重なった。
これが最後の逢瀬だ。はるかは直感した。
次に彼に逢えるのは、自分が死ぬとき。きっとそう。
そうしてその予感は、当たっていた。




