時の涯 二-1
普通に考えたら、死神といずれ命を奪われる相手が付き合うだなんて、奇妙でしかない。
気まずいままの早紀とエリに、ヴェルフェンとそういう関係になったと、だから伝えることができなかった。
それでも、判りあえる時はくる。不思議とそう信じられるから、以前のように孤独に不安を覚えることもあまりない。
ヴェルフェンは、僅かな時間を見つけては逢いに来てくれた。
約半年ぶりにできた彼氏――と言うのはむず痒い気がするけれど――の存在に、世界はよりいっそう輝いて見える。
風の香り、雲間から差し込む陽光の筋。傘を叩く雨音の軽やかさ。どこかで吠えている犬の声。通り過ぎるひとの笑顔。足元を掠める枯葉の音。五感に触れるすべてが、愛おしくて眩しかった。元彼のときには感じたことのないほど気持ちは輝いて、早紀たちとの関係すら、大丈夫だという確信が芽生えてさえいた。
鮮やかな紅葉の季節は駆け抜けるように過ぎていき、気がつけば町はクリスマス一色のの時期を迎えていた。
イブの状況をヴェルフェンに内心どきどきしながら訊いてみると、日本にはいないと素っ気ない。どうしてわざわざ訊いてくるのだという空気を漂わせるヴェルフェンに、死神には、恋人たちのイベントは興味ないのかもとはるかの肩はひそかに落ちる。
イブは彼の宣言どおりひとりで過ごす羽目になったけれど、新年はともに迎えることができた。最後の一年は、幸先がいい。はるかはそう思うことにした。
空気がきんと冷えきった昼過ぎに降った初雪。
柔らかな雪片は、空を見上げたはるかの頬に触れると、じんわりと溶けていく。
空から落ちてくる幾つもの雪は、深くかぶったニット帽、まぶた、髪、唇、天へとそっと差し伸ばした手のひらに降り重なる。
身に沁みる寒さも、これが最後なのかと思うと、ただじっくりと浸って感じ入りたかった。
白い息が、空気に溶ける。その光景すら、愛おしい。
いつの間にか溢れていた熱い涙は頬を流れ、雪を溶かして落ちていく。
世界の美しさは、ふとした拍子にはるかの胸を震わせる。
この雪の美しさを忘れないようにしよう。自分が生まれ育った場所の四季の美しさを、ずっと胸に刻んでいこう。
その、翌朝のことだ。外に出てそうやってひとり佇んでいたせいかもしれない。背筋をのぼる寒気と熱っぽさに襲われた。
いつもなら、寒い外に立ち尽くしていた自分にバカじゃないのと突っ込みながらも、「風邪引いたかな」とやりすごすだけだが、風邪ではないのかもと、さすがにひやりとした。
もしかして死んでしまうのはこれが原因なのかと覚悟をしながら病院に行ってみたら、「まァ、いわゆる風邪というヤツですね」と、医師は拍子抜けするほどなんでもないことのように診断を下した。
「あの。別の病気とか、他になにか気になるところとか、ありますか?」
「じゃあ、インフルエンザの検査も、一応してみようか?」
食い下がるはるかに、取ってつけたように看護師にインフルエンザの検査を伝える医師。その、漂う後付け感。
結局、インフルエンザの検査も陰性で、「良かったですね。お大事にしてくださいね」と看護師に診察室を追い出されてしまう始末。
会計のときも処方された薬を薬局で受け取るときも、気持ちは晴れない。診断を言葉どおりに受け入れることが、どうしてもできない。
本当だろうか。ヤブ医者かもしれない。あのインフルエンザの検査キットも、壊れているのかもしれない。
風邪の症状に紛れているだけで、実は命にかかわる深刻な病気だったらと疑心暗鬼に陥ってしまうのは、仕方のないことだと思う。考えすぎだと嗤うほうが、きっとおかしい。
とはいえ、処方された薬を飲んでおとなしく静養すると、体調はすっかり良くなった。ヤブ医者だのと疑ったのは悪かったなと思いつつも、それでも不安な思いは完全には消えてはくれない。往生際が悪い自覚はあったけれど、ネットで調べて、自分の身体に耳を傾けて、ようやくただの風邪だったらしいと納得ができた。
そんな自分が、滑稽で情けなくて、泣けてきた。これが最後の風邪なのかもしれないのに、びくびく怯えることしかできなかった自分がおかしくて、いつの間にか泣きながら声をあげて笑っていた。
風邪ひとつに振りまわされている。
風邪ひとつが、こんなにも愛おしい。
一日一日過ぎゆく日々は、濃厚で、深く、厚い。
そうして迎える私立大学出願の頃。
ぎこちなかったエリの態度も和らぎ、以前のようにふざけあえるようになった。ずっとひとり悩んでいて、それと折り合いがついたのだろう。
「あたし、大学よりもはるかがいい。死ぬって信じちゃって、ごめん」
ぎゅっと抱きつかれて、どう答えればいいのか一瞬戸惑ってしまった。
なんやかんや言いつつも、当事者ではないエリにとっては、はるかに降りかかった死の問題は他人事でしかないのだ。現実に起こりうることとして、捉えてはいない。
友人たちとの間にある厳然とした意識の壁が改めて突きつけられる。
きっとこれは、彼女たちが実際に同じような状況に身を置くことになるときまで、理解はできないのだ。はるか自身そうだったのだから、責めることなんてできない。
だから、ただ彼女を抱き締め返すことしかできなかった。
元どおりになれた。それだけでいい。
男子も女子もそわそわと浮き足立つバレンタイン。
ヴェルフェンの代わりにはるかはチョコ――初めて作った手作りチョコだ――を食べ、彼からは甘くとろけるキスが贈られた。
あまりそういうことは詳しくはないのだけれど、ヴェルフェンはキスが上手だとはるかは思う。キスが上手な死神だなんて、なんだかおかしい。そう思う一方で、彼の過去が気になってしまう。
ヴェルフェンはきっと―――絶対と言ってもいい、自分の前にも彼女がいた。
(あたしじゃない女性を、好きになってた……)
ヴェルフェンの深い藍色の目が自分でない異性に向いていただろう過去に、ひどく、胸が引き攣れるほどに苦しさを感じた。
じりじりとした焦燥感。元彼にも感じたこともないほどのそれは、確かに嫉妬だった。
恋人同士のイベント事の合間に、思い出の場所を訪ねるようにもなった。
早紀と出会った中学校。密かな初恋の相手とケンカして先生に怒られた小学校。子供の頃、転んだ拍子に頭から落ちて溺れかかった近所の用水路。
「確かに、あの落ちっぷりは豪快だったな」
本人が思い出したくもなかった余計なことも、ヴェルフェンは外部記憶のようにしっかり覚えているのが悔しい。
「感心しないでよ、大変だったんだからあのとき」
用水路に落ちる際に頭をぶつけたことで流血をして、ぎゃんぎゃん泣きながらずぶ濡れで家に帰ったら、母親に卒倒された。
恥ずかしいけれど、あれもいま思えばいい思い出だ。
自分が落ちた場所にはもう蓋がされていて、子供が転落する心配はない。危険はなくなったけれど、時の移り変わりを寂しく感じた。
夕方近くに帰宅したはるかを、こたつで編み物をしていた母親が「おかえり」と手を止めて見上げる。どこか、ほっと安心したような表情だ。
「あれ。お前、ホント帰ってくるの優等生だよな。知らねーぞ、また振られても」
「お兄ちゃんこそ、いっつも寂しいよね」
はるかの気配に部屋から顔を出した康平に、むっと眉をしかめて返す。ここ数ヵ月、康平には女っ気がない。本人は振ったと言っていたが、虚勢だとはるかは見抜いている。
家族は、はるかに彼氏ができたことを知っている。受験のこの時期だからこそみんなの信頼を裏切りたくなくて、どこを訪ねても夕食の時間には帰宅するよう心がけていた。
「ばーか。バイトを優先してるだけだっつの」
「康平。もう行く時間なんじゃないの?」
時計を見上げる母親に、はっと我に返って康平は部屋へと戻っていく。深夜シフトの物流バイトをしているので、はるかたちとは生活リズムがずれている。こんな調子だと、きっと彼女ができるのはしばらくないだろう。もしかすると、はるかが生きている間は叶わないかもしれない。
「バイトに精を出すのもいいけど、就職、どうなることやら」
母はため息混じりにこぼす。
大学三年生の康平は、就職活動にはあまり熱心ではない。母は康平の暢気さが気になってしょうがないのだ。はるかはこたつに入って、冷えた手を中に突っ込む。
「お兄ちゃんのことだから、結局なんとかなってるんじゃない?」
なにも考えてないようで、いつも収まるところに収まってしまう要領のよさがある。
「そうだといいんだけど、こればっかりはねぇ」
母親は半ば諦めるように溜息を重ねる。
母は、どちらかといえば心配性だった。
土日に出かけるようになったはるかに、康介や母親は最初、彼氏でもできたのかと訊いてきた。ぎくりとした。反対されると思ったから、咄嗟に曖昧に誤魔化した。正直に「いる」と答えて、「受験生なのに」と眉を顰められても困るからだった。
はっきり答えたわけでもないのに康介は、「高杉は振られたかー」とあっけらかんと笑い、母親は、受験勉強に響かない程度にしなさいよと、思いもかけず応援する発言をしてくれた。両親が付き合いだしたのは、母親が高校三年生のときだとは聞いていたけれど、受験直前の時期だとは知らなかった。プライベートが充実していたから受験もうまくいったのだと少し自慢げに、目を丸くするはるかに教えてくれた。だから、ちゃんとけじめをつけられるのなら、いいんじゃないの、と。
もちろん家族は、はるかの相手が死神だなんて知るはずもない。知られたらきっと、受験どころじゃなく、病院に連れられる。無難に、模試で知り合った別の高校の子だと言ってある。
冷たい風が、緩く流れている。
はるかは懐かしい眼差しを、前方にある小学校の校舎に向けていた。
「アサミくん、どうしてるかなぁ」
卒業して以来足を運んだことのない小学校を前にしたとき、初恋の相手を思い出した。中学が違ってしまったから、どこの高校に行ったのかは判らない。
「……。『浅井』じゃなかったか?」
「……あ、そうか、浅井くんだったか。―――って、あたし。え。……声に出してた?」
一緒についてきてくれたヴェルフェンに冷たい声で訂正されて、はるかはぎょっとなる。
見上げるはるかに一瞥を落とし、
「出してなかったら、ずっと間違えたままだったろうな」
ヴェルフェンはにべもなく返す。
「不憫だよな。初恋相手だろ? その名前を間違えてたなんて、本人知ったら泣くよな」
「……」
寒いはずなのに、なんだか汗が出てくる。
小学校三年生あたりの記憶なんて、似たような名字の子がいたせいであてにならない。十年近く前のことだ。そんな大昔のこと、はっきり覚えてなんていられない。
そう反論を試みると、
「『あさいはるか。すっごい素敵に似合ってる名前よね!』って、そのときの友人に目を輝かせて喋ってたのも忘れ」
「あああーッ! やだダメ、ごめん、いい。それ以上言っちゃダメ!」
ヴェルフェンの前で発言をかき消すように両手を振りまわす。言われて思い出したけれど、その時期、『素敵』という言葉をなにかで聞いて、音の響きが気に入ってよく使っていた。ヴェルフェンが声真似までして再現した台詞も『素敵』という大人ぶった言葉にはまっていたことも、はるかにとっては黒歴史だ。
「ちなみに、同級生に『アサミ』はいなかった。『宇佐美』という名の男に一時期熱をあげていた頃はあったけど。あれはいつ頃だったかな。浅井の数年後だったか」
「ちょ。もう。言わないでよ。意地悪ッ!」
下から睨み上げると、面白がるような顔で小さくヴェルフェンは笑った。悔しい。
「……えーっと。三階の端からふたつ目の教室……、あ。あそこだ」
話を無理やり変えようと、棒読み気味にはるかは校舎の窓を指で辿った。
ふたりは、小学校の北側の道から校舎を眺めていた。浅井とふざけあっていた三年生のときの教室は、その当時と変わらない形で窓を並べている。
自分のときと変わらず、あの教室をいま使っている児童たちも、誰かが好きだとかバレンタインにはチョコをあげるあげないとか、小学三年生なりにいろいろ悩んだり笑ったりしているのだろう。十年近くの時間の違いはあっても、同じように日々を送っている。
知らず、はるかの眼差しはその先にある校舎を超え、遠い記憶を漂っていた。
ヴェルフェンとは初恋相手のことを話していたけれど、胸の内に生まれていたのは、何故か仲の良くなかった子のことだったり、あまり話をしたことのなかった子のことだった。
彼らはきっと、はるかが死んだことも知らずに時を過ごし、何年か後に開かれるクラス会で初めて知るのだろう。そうしてきっと、また忘れられていくのだ。
はるかには決して辿り着くことのできない遠い未来の時間。もしも、もしも命の期限が延びてクラス会に出ることができたなら、今日のことを話してみようか。初恋相手の名前を間違えていたとか、死神に出逢って、恋をして―――。
そこでふと、思考の海から引き上げられる。
(もしも命が延びたら、あたしとヴェルフェン、どうなってくんだろ。いつかは、別れることになっちゃうのかな。結婚とか、できないわけだし)
そんなの、イヤだ。
もしもヴェルフェンと結婚することができるのなら――そんなこと決してありえないけれど――義従姉が着たあの憧れのウェディングドレスで彼の横に並びたい。
ぼんやりと感傷に浸って小学校の校舎を見上げていると、そっと優しい気配に包まれた。ヴェルフェンが背後から包み込んでくれていた。彼の顎が、ちょうどはるかの頭に乗せられている。
「浅井に会いたいのなら、会いに行けばいい。おれに遠慮なんてするな。はるかの思うようにすればいい」
「……ん。ありがと」
浅井のことを考えていると思われたのだろう。気遣ってくれるヴェルフェンの優しさが嬉しい。そんな相手が彼氏だという幸せに、はるかの頬は緩んでいく。




