時の涯 一-2
「ヴェルフェン。ヴェルフェン。いる? お願い、逢いたいの……!」
自室に駆け込んで、はるかはヴェルフェンの名を呼んだ。避けられてはいたが、いまの自分になら逢いに来てくれるはず。判ってくれるはず。
部屋を四方見渡す。
彼の気配は、微塵もない。
―――仕事で、ここにはいなかった。
いつだったか、そう言っていた。
仕事、かもしれない。
(仕事……)
ヴェルフェンの仕事とは、もちろんひとの命を奪うことだ。半年ほどあとに自分の身に起きることを経験しているひとが、いま現在存在している。彼がどのように人間に死をもたらすのか、はるかには判らない。ただこの瞬間にも、ヴェルフェンの大鎌がどこかに住む誰かに向けて、振り下ろされているのかもしれない。
でも、―――それが、ヴェルフェンの仕事なのだ。
避けることはできない。ひととして生まれた以上、必ず誰の身にも起こること。
以前ならば拒絶感ばかりが先に立っていたが、覚悟にも似た決意が生まれたからだろうか、冷静に受け入れることができている。
(いつかは、逢いに来てくれる)
いますぐにでも逢いたかった。なのに、はやる胸にもかかわらず不思議と気持ちは穏やかで、彼を待とうと自然に思えた。
自分が呼んだそのときに逢えなくても、いずれは逢えるのだから、と。
宿題や夕食を済ませ、部屋で世界史の問題を解いていると、背後に懐かしい気配を感じた。
弾けるように振り返る。
息せききった様子のヴェルフェンがいた。
数ヵ月ぶりの彼の姿に、はるかの胸はほとばしる熱い想いに躍る。
ヴェルフェンがそばにいる、見つめてくれている。それだけで、自分のすべてが彼に向かって流れていく。
「魂の輝きが見えた。いてもたってもいられなくて……。―――は。身勝手と言われるのも当然だよな」
数ヵ月前の彼女の言葉をいまになって思い出したのか、彼は自分を責めるように顔を歪ませる。
はるかは、ちぎれるほど首を振った。
「そんなことない、違う。あたしひどいこと言ってヴェルフェンを傷付けた。ごめんなさい。会いたくなかったなんて、そんなことない」
揺れる彼の瞳を、はるかはまっすぐに見つめ返す。
「ヴェルフェンがいたから判ったの。世界の一部なんだって判った。生きてることがすごいって判ったの。ヴェルフェンがいたから。死んじゃうってこと教えてくれたから。お礼を言いたかった、ありがとうって」
眩しそうに目を眇め、ヴェルフェンははるかを見つめた。その眼差しはくすぐったく、同時に胸の芯がとろけるほど熱くなった。
「なにかしなくちゃって焦ることなかった。まっすぐ毎日生きていけばよかったのよ。それでよかったの。だからね、見て、ほら。すっごい苦手な世界史。ずーっと後まわしにしてたけどやってるんだ。ひとの名前がごっちゃになって、ややこし」
「許してくれるのか?」
遮るヴェルフェン。
一瞬言葉を失うはるかに、彼は重ねる。
「お前を苦しめた。許してくれるのか?」
何度自分を責めただろう。
自分にどれだけの覚悟があったとしても、彼女に苦しい思いを強いた事実に変わりはない。
人生を返してと詰られてようやくそのことに気付き、自分のあまりの軽率さを呪った。
なんという愚かなことをしてしまったのか。
はるかの死は、変えられない。
ならば死ぬその瞬間まで、なにも知らないほうが幸せではないのか。
自分を知ってもらいたいのなら、どうして死ぬという事実を隠して出逢おうと思わなかったのか。
魂の輝き。
彼女の人生を狂わせてまで押し切らねばならないことだったのか。
光が大輪の花を咲かせたような、あんなにも美しく輝く魂は見たことも聞いたこともなかった。
ヴァルドウの中でも長い時を過ごしているほうだった。ヴァルドウとしての自分を倦んだこともなければ、疑問に思ったことも飽きたこともない。
だが、あの輝きをもう一度目にできるのなら、消えてしまっても構わないとすら思えた。
もう一度、あの輝きを取り戻して欲しかった。
そうしてあわよくば、自分を受け入れて欲しいと―――。
なんという傲慢な自己満足。はるかの言うとおり、自分勝手の極みだ。自分の望みのために、彼女の幸せを踏みにじってしまった。
なのに彼女は、身勝手な我儘に人生を振りまわされたというのに、謝罪を、礼を口にした。
自責の念に、逢うことすら怯えた男に。
驚いたようにじっとヴェルフェンを見つめていたはるかは、目を軽く伏せた。
「死ぬって判ったから、ひとりじゃないんだって気付けたの。いいかげんに生きてた。あたしを苦しめるために教えたんじゃないんでしょう? そうだとしても得るものがあった。許すとか許さないとか、そんなんじゃないよ」
「!」
言葉が、出なかった。
魂の輝きなんて、はるかを知ったきっかけに過ぎない。
はるかだから、惹かれたのだ。誰でもない、このはるかが、愛しくてならないのだ。
黙り込んでしまったヴェルフェンに、はるかは勇気を出し、告げる。
「―――逢いたかった。すごく」
「……」
「もう逢えないのかもって。死んじゃうときまで」
「……済まない」
「そんなのイヤだって思った。おかしいよね。ヴェルフェン、死神なのに。あたしの命を取りに来る死神なのに、逢いたいだなんて」
不意打ちを食らったように、ヴェルフェンの表情が無防備になる。
この想いに向き合うたび、はるか自身、困惑した。
彼に逢えて、あたたかで穏やかな想いに満たされている自分がいる。
胸が強くときめくような感情が恋なのだと思っていた。けれど、存在をそばに感じているだけで呼び起こされる深い安心感のようなものも、恋なのかもしれない。
(あたしは、ヴェルフェンが好きなんだ)
いつの間にか、彼に心奪われていた。
ヴェルフェンの手が、静かにはるかの頬に伸びた。
水に映る影のような、儚く透ける彼の身体が近付いてくる。
(あ……)
真っ黒だと思っていたヴェルフェンの瞳は、夜空のような深い藍色なのだと、いま、初めて知った。
触れられる感覚はないはずなのに、目を伏せたはるかは、唇に甘いぬくもりを感じたような、そんな気がした―――。




