第三章 時の涯 一-1
季節は暑い夏を迎え、夏休みに入った高校では夏季講習が始まった。参加する意味はないけれど、出ないわけにもいかない。
ヴェルフェンの告知が真実なのだと、本当は判っている。けれど、それでもという希望の火が気持ちの奥深いところで昏く燈り続けていて、解けなかった問題が正解だったとき、苦手な英語のリスニングが聞き取れたとき、時計を見て右肩上がりの数字だったときなどのふとした瞬間にそれは燃えあがり、死ぬなんてないはずだと、はるかの覚悟を翻弄する。
来年も、夏を過ごしてみせる。
回避してみせる。
絶対に、死を回避してやるのだ。生き抜いてみせる。
根拠のない自信。空虚な覚悟だと自覚しつつも、それでも、手放すことのできない思いだった。
ヴェルフェンが現れないまま、はるかは生と死の間で翻弄されながらも、一日一日をただ流れるに任せるしかなかった。
夏休みが終わり、蒸し暑い残暑の中、二学期が始まる。
焼けつく暑さも、薄皮を剥ぐように、無情にも前日に比べるとしのぎやすくなってきている。季節が少しずつ動いていくたび、刻一刻と、確実に死へと時は刻まれていく。
減っていくばかりの残り時間。
まだ、答えは見つからない。選択肢を見つけることすらできていない。
九月になってもヴェルフェンは現れなかった。遠くから見ているのだという感覚すらない。そっと名を呼んでも、気配はどこにも見当たらなかった。
彼の姿が見えない、気配を辿れないただそれだけで、胸の底に穴が開いてしまった気がした。そこから気力や踏ん張りが、底のない奈落へと流れ落ちている。最後に別れたときのヴェルフェンの切ない声が、頭から離れない。痛みを伴う寂しさが、息をするにもなにをするにも指の先にまで絡みついてきて、振り払うことができない。
どうして。
ヴェルフェンのせいで苦しい思いをしているのは、はるか自身なのに。
どうして。
そんな自分に戸惑いながらも残暑は終わりを迎え、季節は秋、そして十月も終わろうとしていた。
命の期限を宣告されて五ヵ月以上が過ぎたこのときになっても、はるかはいまだ、自分がなにをしたいのか答えが見つからないでいた。
迫る死への時間を独りで経ていく恐ろしさに苛まれながらも、それにもましてヴェルフェンが姿を一向に現さないことが、不安でならなかった。
声を聴きたい。そばにいて欲しい。あのくしゃりとなる無防備な笑みを見せて欲しい。
―――寂しい。
ただ、逢いたかった。
心が餓えるほどに。
不思議なほど、胸に浮かんでくるのは、はにかみながらも笑む彼の優しい顔ばかりだ。
彼の気配がないのがこんなにも心細いだなんて、自分でも信じられない。
たった数回しか会っていないのに。
キスをされたからでも、愛していると言われたからでもないとは思うけれど。
突き放した形での別れ。それが、罪悪感となって引っかかっているのかもしれない。
(それに)
彼が気になるのは、きっと、罪悪感からだけではない。心がいま、どうしようもなく弱っているからだ。誰かに無性に縋りついて、泣いて喚いてひとりじゃないと思いたいから。お前は孤独なんかじゃないと、言ってもらいたいから。そう、はるかは思う。
ここのところしばらく、エリとの間に距離を感じるようになっていた。
模試の結果が続けて悪かったとは聞いていたが、はるかに対してだけよそよそしくなっていた。
エリに気兼ねしてか、早紀の態度もどうもぎこちない。
中学からの友人、早紀と、高校に入ってからの付き合いのエリ。そんな違いなど関係なく仲が良かったのに。
どうすれば元のように戻れるのだろうと思っていたとき、こっそり早紀が教えてくれた。
いずれ死んでしまうはるかが受験をやめれば、自分は合格できる。そうエリが思っているのだと。
「あたしははるかが死ぬなんて信じてないよ。でもさ、エリはそういうこと信じちゃうからさ。ほら、定期も模試もやばかったみたいだし」
気遣わしげに早紀は言ってくれたが、これには、文字どおり目の前が真っ暗になるほどに打ちのめされた。
不安を抱えたまま、日々を過ごしていた。死の覚悟はなんとなくはあるものの、それでも死んだりなんかしないという、根拠のない自信も存在している。
エリのこの意見は、はるかのそんな希望を少なからず打ち砕いた。そんなこと、正直教えて欲しくもなかった。
自分は死にはしない。そう毅然と反論できないから、はるかはなにも、どうすることもできない。
エリが、自分で自分の気持ちに折り合いをつけるのを待つしかない。
頭ではそう判っていても、やりきれなかった。
自分では、どうすることもできないのだから。
なにも、なにひとつどうすることもできない。なにをすればいいかも判らないのだから、なにができるはずもない。
無力だ。
なんて無力で情けないのだろう。
なにもできない―――なんの意味も、ない。
自分は、本当はもういないほうがいいのでは。そんな暗い不安も湧き起こってくる。
なにもできない自分に、これ以上、生きていく価値や意味があるのだろうか。なんの意味もないから、なにもできないのでは。いっそのこと、期限を待たずに儚くなるべきではないのか。
(あたしは、どこに、いるんだろう……?)
胸の底に生まれた、黒い沼と化したマイナスの思考。冷たく乾いた風が、時折思い出したかのように吹き抜けていく。その風が巻き起こした波の間から突然伸びた冷たい手に捕らえられ、はるかはずるずると昏い思考に満ちた沼の中へと引きずり込まれていく。
(あたし……)
どこに行けばいいのだろう。
確かにあると思っていた道。この先に待ち構えている〝死〟に対峙するために、どんな道を選択をすべきか模索しているというのに、本当は、道自体が存在していないのかもしれない。〝死〟に立ち向かえるだけの道があるのだと、思いあがっていただけ。
足元にあるのは、奈落へと落ちるばかりの闇に張り渡されただけの、細い細い糸。蜘蛛の糸よりも細く儚いそれは、未来を見つめるそれだけで、音もなく切れ果ててしまうのだ。
道なんてない。選択なんて、あるわけがない。
本当は、誰からも生きることを望まれていないのでは。これから先、生きていっても、全然意味などないのではないか。
生きていっても、いいのだろうか?
いいのだと、即答ができない。
自分がなにもしないことで助かるひとが、少なくともひとりはいる。
もしかしたらそれは、エリだけじゃない、世界中のみんななのかもしれない。
エリにとっても早紀にとっても、自分の存在は受験の前にはかすんでしまうような、どうでもいい存在だった―――のかもしれない。
なんのために、自分はのうのうと生きているんだろう―――。
朝の教室の中、答えが出るわけでもないのに、はるかは溜息をつくばかりだった。
クラスメートたちが次々と登校してきている。
ふと、はるかの横を通り過ぎた人影を見上げる。彼女もまた、その気配に気付いたのか、歩みを緩めてこちらを振り返った。
数瞬のためらいのあと、ぎこちない笑みが彼女の口元に薄く貼りつけられる。
―――それだけだった。
咄嗟に声が出ないまま、硬い眼差しでおはようと告げるはるか。
エリも小さく頷いただけで、すぐに目をそらし、自分の席へと向かう。
早紀はまだ、登校してきていない。
いつもだったら、誰かが誰かのところへ行っておしゃべりを始めていたのに。いまでは、お互いの席に着いたまま、全然違う場所を眺めているばかり。お互いがお互いを意識しているというのに、歩み寄って他愛のない話ができない。
形ばかりの挨拶なんてしている意味が、あるのだろうか。
(あたしが、生きてるから? 死ぬって判ってても、受験するから?)
はるかとエリの志望大学は、重なっている。
(あたしがいなくなれば、合格……できるんだよね?)
死んで、欲しいの?
つい、口をつこうとした言葉に、はるかは身震いする。
そんなこと、訊けるわけない。
肩の上にのしかかる重圧が重たくて、どうすることもできなくて、たまらず机に突っ伏した。
いっそこのまま、消えてしまえたら。
耳に飛び込んでくるばかりの朝の喧騒が、頭の中でうるさく反響しあい、出口を求めて暴れている。
このざわめきに、自分の存在がすり潰され、溶けて、希薄になって、無くなっていく気がした。
このまま。
そうだ。このまま、消えてしまえばいい。
死んでしまえばいいんだ。
そうすれば、胸にわだかまる不安や不満、無への恐怖、すべてから解放されるはずだから。
溜息が、詰まる喉の隙間から細くやるせなくこぼれる。
―――死にたくなんか、ない。
(でもあたしがいなくなれば)
死にたくない。死にたいわけじゃない。消えたいわけじゃない。
なのに。
どうすればいいのか、もう、判らない。
(ヴェルフェン)
ヒントを教えてくれるだろうヴェルフェンは、ここにはいない。きっともう、最期のときまで現れないに決まっている。酷い物言いではるか自身が追い払ってしまったのだから、当然だ。あのどこか深淵を覗き込むような深い眼差しを見つめ返せば、なにか答えが見つかるかもしれないのに。肝心のその眼を曇らせてしまったのは、はるか自身だ。愚かなはるかの自分本位な言動のせいだ。
答えなんて見つからなくてもいい。ただそばにいてくれるそれだけでいい。それだけでいい。彼がいてくれるだけで、きっと、不安な思いも和らぐはず。
(ヴェルフェン……)
気配だけでも感じることができれば、それだけで、道が照らされる気がするのに。
莫迦だ。
本当に、自分は莫迦だ。
なくしてから思い知るだなんて。
なにをすべきか、なにをすればいいのか、全然わけが判らない。
(助けて。ねえ。どうすればいいの……!)
ヴェルフェン。
胸の内でその名を叫んでも、振り返ってくれる眼差しも、そっと差し伸べられる手もあるはずもない。
潔く消えるべきなんだろうか。
机に投げ出した腕の隙間から、ちらりと窓の外を見る。
このまま、四階のこの教室から飛び降りてしまおうか。
ひらりと、晴れ渡った窓の向こうへと飛び降りる自分を想像する。その眼が、歪む。
(―――それで、もしも苦しむような後遺症が残っちゃったら?)
苦しんで苦しんで、そうしてヴェルフェンの言った命の期限の日を迎えるのだとしたら?
苦しい思いをするのは、イヤだ。
それこそ、なにもできないまま死へのカウントダウンを待つだけになる。
なにをしても、死は揺るぐことなく近い未来に居座っている事実は変わらない。
どうあっても、逃げることなんて、できないのだ。
(あたし……死なないんだから……)
数日後の土曜日。
はるかはいまだ、昏い闇に囚われていた。
高校の補習の帰り道、どうしようもないことを思う。いままでなら早紀と一緒だったこの道は、今日もひとりきりだった。
取り残されている。
世界にたったひとりきりになってしまったような、言いようもない孤独が身を蝕んでいる。
寂しくて、もどかしくて、無性に切ない。
(どうして、あたしが……)
不条理な運命に、込み上がる涙を抑えられない。
死にたくない。死にたくなんかない。消えてなくなりたくなんかない。みんなとまた一緒に笑いあっていたいのに。
失いたく、ない。
ずっと、まだまだずっとずっとここにいたい。
ひとり切り離されたくなんかないのに。
(もう、どうすればいいのか判んないよ……)
すり減らす魂もないほどに、疲れていた。
誰にも相談できない悩みに翻弄され続け、疲労ばかりがたまっている。胸の奥底が、引きつれるように痛い。
きっとこのまま、答えもその道筋もなにも見つけられないまま、死んでしまうのだ。
ぼろぼろになって、負け犬になって。
(死んじゃうんだ……)
目頭が熱くなったそのときだった。
きゅっと唇を引き結んで堪えているはるかの背後から、大きな風がひとつ、吹き抜けていった。
「!」
自転車ごと持っていかれそうなほど、強い風だった。
思わず閉じたまぶたを上げたその光景に、はるかははっと目を瞠り、言葉を失った。
道の両側は刈り入れを待つばかりの稲穂の海。駆け抜けていった風は幾つもの小さな風を従え、その金の海を踊るように渡っていく。
夕暮れに向かう空の青。陽の光を受けて黄金に輝く稲穂。揺れる風の姿。
なんでもない、どこにでもある光景。
(―――あぁ……!)
けれど、目の前に鮮やかに示されたそのあまりの美しさに、気付けばはるかは自転車を降り、言葉も忘れて立ちつくしていた。
目の奥が、きらきらと煌めいて、痛い。
眩しい。
なんて、眩しいのだろう。
世界がこんなにも輝いていたなんて。
いつもこの横を通っていたのに、いままで、気付きもしなかった。目を向けることすら、意識することすらなかった。
目の前に広がっていたのは、世界の、文字どおり世界のすべてだった。
とろりとした太陽の光を浴び、大地から栄養を吸い上げ、黄金色の海となって輝く一本一本の揺れる稲穂。その籾殻に包まれた米のひと粒ひと粒。なんでもない光景が内にはらんでいるたくさんの繋がりが、いまはるかの目の前に広がっていた。幾万幾億粒もの米。それらはいずれ刈り取られ、ひとの体内へと取り込まれて―――めぐりめぐって再び大地へと戻っていく。そしてひとはそれを刈り取り―――。
目の前に広がるのは、壮大な生命のワンシーン。その、一瞬。
収穫に石包丁を使っていた遥かなる太古の昔から続く、食物の、命の流れ。
命は、この惑星の表面で発生をし、同じ表面に還っていく。
(ひとの命も、また)
同じ。
男と女が出逢い、子供が生まれる。子は赤子から成長をし、あまたの過程を経て、死を迎える。死を迎えた身体は焼かれるなり埋められるなりして、時間をかけ、いつかは再び土へと還る。
ひとすくいの土に潜む数えきれない微生物の働き。さまざまな物質。水と光。害虫や草。肥料、その素となる有機物や化学物質。その原料となる、元素となったひとや動物、あらゆる生命体の身体の一部。
ひとが耕し整えた土から稲は、植物は栄養を受け取り、動物たちがそれらを食し、またその動物たちをひとは身体を維持するため食してゆき、そうして……。
輪廻転生。
生まれ変わりとは、意識―――魂だけではない。肉体もまた転生をする。新たな形を得、別の生命として、命は受け継がれ続いていく―――。
命の果てた後、焼かれ、見えない煙となって空に撒き散る肉体の成れの果て。吸い込む空気、肺に取り込まれる空気。
循環、している。
すべてが、見事にめぐっている。なにひとつ、無駄なく、漏れることなく。この、世界を。
風が、稲の海を渡っていく。
目の前が、眩しく煌めいていた。
自分の前にも命はあり、死した後も受け継がれていく。
自分は、世界と繋がっている。
ひとりでも孤独でもなく、無でもない。
死を、恐れる必要もない。
(あたしはまた)
帰ってこれるのだから。
この世界に、この大地に、戻ってこれるのだから。
『なにか』を模索する必要などないのだ。ただ生きていく、それだけで既に、世界とひとつになれているのだから。
いま、このとき、なにかを突き抜けたと、はるかははっきりと悟った。
音をたてて世界が眩しく鮮やかに塗り替えられていく。
光が溢れている。
世界にも、自分にも。
眩しい光が、満ちている―――。
ヴェルフェンに死期を宣告されて、半年ほどが経っていた。




