宵闇幻想
※暗い描写があります。というよりむしろ、暗い描写しかありません。苦手な人はご注意ください。
「だいじょうぶだよ……おにいちゃん。わたしはどうなっても、このきもちにかわりはないんだから…… あのひから、ずっと、わたし、の……な、か……は……」
またひとつ、耳元で立ち去っていく足音がした。真夜中。暗黒から閃光へ。星明かりは雲に邪魔された。天から地へ。地から天へ。
徐々に、障子の隙間から橙色の光が差し込んできた。浅く深呼吸をし、そっと整えてやる。彼女の赤い斑点模様の服が橙色と共鳴しているように見えた。まるで出来の悪い素晴らしい絵画のようだった。世の中には、ある大人の書いた子供の絵に億単位の値段がつくことがあるという。ならば、ある子供で作った絵画にも価値があるだろう。子供が作ったようなお遊びの切り絵ではないのだ。
やり残したことはない、とすぐさまくるりと踵を返し、障子を開く。外に足を踏み出し、部屋に熱気が入らないようすぐに閉めた。俯くと庭の変化のない湖面に、登っていく夕陽が見えた。肉眼で見れば沈んでいるが、湖面に写せば登っている。俺は生きているのかもしれないが、他人の目に映したときに死んでないと言い切れるのだろうか?
俺は立て掛けてあったスコップを使って庭に穴を掘り、また埋めた。スコップを池の中に放り込み、家の門をくぐった。湖面が揺れ、歪んだ橙が残された。
あの時も、丁度今と同じ真夜中だった。一年と一ヶ月と前の、恐らく午後一時ごろ。夜が顔を引っ込め、昼が挨拶してきたあの時間に、俺は二度目の人生を与えられたのかもしれない。きっとそうであるだろうし、そうではないのだろう。
あの日、太陽が上ると同時に、世界は暗黒に包まれた。
太陽が地面を焦がそうとした日だった。周りの見えない暗闇の世界の中、俺は一人で座っていた。割りと広めの部屋の中、環境を考えない空調がその機能を全うし、部屋のじめじめした空気により一層の湿気を与えていた。受付の案内の声が聞こえ、部屋に設置された椅子に座る気配がした。相変わらず、俺は部屋に一人で座っていた。
「外は暑いですなぁ…… 涼しい部屋に入らないと茹で蛸になってしまいそうですわ」
「ほんと、全くです。本当を言えば自室に籠っていたいのですが、さすがに出ないわけにもいきませんでしたので……」
「本当にそうですなぁ…… しかし、あれはただの置物ですかねぇ? さすがあの人間どもが残すモノですな全く」
「まぁまぁ…… 早いとこ終わらせてそこらで一杯でもやりましょう。たまには私が奢って差し上げますから、そうピリピリせずに」
空調の効いた部屋は、話し声すら耳に聞こえないほど暑かった。俺は上半身の黒服を脱ぎ、下の白服を脱ぎ、そして全部着た。服を脱いだからか、今度は心持ち寒くなった。
式は恙無く進行し、俺がやったことといえば僧侶のお経をひたすら復唱したくらいだった。参列者は俺だけのはずなのに、僧侶が焼香の時間を長くとったのが不思議だったが、あまり気にならなかった。どうせ、もう両親はいないのである。短い昼も、長い夜もないのに、時間など気にする意味があろうか? 式の途中なので、俺は笑いながら出て行った。途中見かけた部屋に積んであった、無意味に並べられた食べ物に吐き気を催しつつも、俺は外に出た。
式場の駐車場で、一人の女の子が遊んでいることに気付いた。歳はわからない。そういえば、あの子は俺の妹だった。鉄の塊の間を抜け、そばに近寄り彼女の手を取った。驚いて見上げる大きくまんまるな目が可愛らしい。
「ほら、何してるの。そんなところで座り込んでると、汚れるよ」
俺は彼女を抱き上げると、そっと膝についた汚れを払ってやった。彼女の体は人形のように軽く、彼女の命は露のように儚い。大人である両親でさえあんなにも簡単に死んでしまったのだ。彼女を殺すのに、ナイフなんて手の込んだものは必要ないだろう。ほら、爪がこんなにも簡単に食い込む。肉に血がにじむ。じわり、と爪が赤で彩られる。ああ、俺の汚い爪でも、似合わないマニキュアをすればこんなにもきれいになるのだ。
「い、いたいよおにいちゃん!」
当たり前だ。痛みのない死なんてない。痛みのない生なんてない。痛みと無縁の人間はいても、痛みのない人生と無縁の人間なんていない。痛みが避けられないのなら、受け入れるしかないだろう。
「や、やめて、はなしてっ!」
口ではそう言いつつも、別段抵抗らしきものをしない彼女を屋内に連れ込む。そうだ、人間は食べないと生きていけないんだった。何か食べさせないと。俺は目の前にある肉を食べさせようとしたが、彼女は真っ青になって拒んだ。仕方がないので、別の食べ物を探す。
俺は、痛そうにしている彼女を引き摺りながら、先ほど通りかかった場所へ連れて行った。食べ物は食べるためにあり、人間は死ぬために生きている。食べられない食べ物は無用の長物であり、死なない人間は等しく無価値なのだ。
無意味な追想に浸りながら、俺は無意味に生きている。無価値な色に染め上げられながらも、俺は無価値に生きていた。どう自分を装っても、どう周りを装っても、すべては同じことなのだ。人生の目標なんかない。ただの使い古された古道具は、変わらず使い古されるだけなのだ。最初から、傍にあった三つの道具はボロボロになって破棄される運命にあったのだ。
家の門を出て、しばらくあたりを徘徊した後、交番に入った。何も知らない男が近寄ってくる。この男も、俺もまた無価値だ。変化しない物事はなく、変化する物事もない。す、とナイフを突き出した。それを見た男は、す、と蒼白な表情で後ずさった。片方が変化すればもう片方も変化する。変化は一つによって収束しない。俺は未熟なのだ。そんな単純なことすら理解できなかったのだから。
ナイフをそばの机に置いた。机に設置された電燈の明かりを受けて、ナイフが白く煌めく。控室であろう後ろの部屋から出てきた男の、驚いた表情を余すことなく写し出す刀身を見つめながら、俺は今までのことをすべて話した。現在の家の状況、彼女の状態、白銀の一閃。慌てて相棒らしき男が出ていく。おそらくは俺の家に行くのだろうか。まぁ、そんなことはどうでもいい。俺は大口を開けて笑い、外れた音程で歌い、不協和音を叫んだ。今にも踊りだしてしまいたいくらいだ。あからさまに警戒され、手錠をかけられたようだが、そんなことはどうでもいいではないか。この湧き出すような快感に勝てるものなどないのだから。
しばらくして、戻ってきた男はこちらをちらりと見ると、他方に耳打ちした。揃って苦々しい表情を浮かべた彼らは、それに理解できないといった表情を追加しながらも、俺の手錠を外した。そして揃って、たまった膿を出すかのように、俺を追い出した。自由だ。つまり不自由だ。俺はこの場所に存在しない。俺がここに存在しているからだ。彼女は俺が家を出るまで俺の目の前にいたが、男が見た時にはいなかった。そして、彼女は俺の目の前で今現在生きており、今現在家の中で死んでいるのだ。それは終わりのない繰り返しであり、始まってすらいないループなのだ。
愛も友情も平和も憎しみも戦争もいつか終わりが来るだろう。そして永遠の不変の名で以て全てに終止符を打つのは、死に他ならないのだ。人は不変に憧れ、不変になりたがる。変化のない金を貴重とするように。永遠不変の神を求めるように。万人が認める揺るがぬ真理を追究するように。いかなる絵画も死によって永遠に不変となり得るのだ。そして、不変のモノが変化することなどあり得ない。最後の総仕上げを以て、絵画の終止符としようではないか。
その夜、鈍い白銀の閃光が、鋭く闇を切り裂いた。
部屋の中で切り裂かれた人形と、登っていく朝日だけが、彼が世界に存在していたことを知っていた。