爆弾と跳び箱
跳び箱の前に俺は座っている。小さな体を丸めて、体育着の膝に大きな涙のシミを作って。俺を見降ろす跳び箱の野郎は、さも偉そうに、無愛想なツラで俺を見降ろし、無言で圧迫してくる。
「全く君は、何度言ったらわかるんだね、本当に使えないな」
そう、ちょうどこの憎たらしい上司みたいに。
「……すいません」
俺は拳を握りしめることすら我慢し、従順な振りをして頭を下げる。俺が本気になったら、こんな禿げ頭なんか爆発させてやれるんだ。俺の怖さを、このおっさんは知らない。
「いつまで突っ立ってるんだ。さっさとお客様に連絡しなさい」
「はい」
もう一度頭を下げて、俺は席に戻る。周りの連中は馬鹿面を下げてへこへこと、機械人形のように働いている。本当なら俺は、こんな所に居る必要のない人間だ。豚箱の方がいくらかましなのではないか、とさえ思う。
屈辱に耐え抜いて一日が終わると、今度は帰宅する俺を、嫌なプレッシャーが襲う。誰かに見られている、という感触だ。本心を隠している俺を世界は無視し続け、俺の方も世界からは離れて行っているはずなのに、この視線だけは、いつもどこからか俺を付け回して離そうとしない。
俺が孤独を確信し始めたのは、十二歳の時だった。ちょっとした事故で脳震盪を起こしたのがきっかけだ。きっと俺だけ、何かを悟ってしまったのだろう。目覚めた途端、周りのすべてが白々しいものに見えた。同時に、子供の頃の一番惨めな記憶がよみがえった――体育の時間、一人だけ跳び箱を跳べず、体育館に残されてうずくまっていた記憶。無力感に押し潰されそうな背中が、その事故以来、常に瞼の裏に張り付いている。
「ただいま」
家に帰りつくと、娘たちが俺を迎えてくれる。あの時以来作り続けているカプセル爆弾だ。部屋いっぱいに積み上げたこの子たちを見ると心底ほっとする。普段は俺を拒絶している世界だが、ひとたび俺がその気になれば、偽りの自分ごとすべてを壊すことができるのだ――そう思えば、大抵の屈辱には耐えられた。
先日完成した九九九個目の爆弾を手にして、ベランダに出る。柵から右手を差し出して、下向きにぶら下げてみる。
分かっている。結局、俺がこれを使うことはないのだ。そのくらいの常識はわきまえているつもりだ。跳び箱は跳べないもので、そのことを俺はこれまで幾度となく思い知らされてきた。鬱陶しい女を殴ろうとした時。大学を辞めるための書類を投函する時。上司の机を、爆弾を仕込むつもりで開けた時。何かを壊しどこかへ行こうとする行為はいつも、あの情けない背中に止められてきたのだ。
――お前は、何もできない。
跳び箱の前に、俺は立ちあがることさえできないのだった。
翌日。俺は会社から言い渡されていた健康診断を受けに行った。自分では全くの健康体のつもりなのだが、周りからはそうは見えないらしい。型どおりの問診だのバリウム検査だのから、CTや脳波検査まで、妙に綿密な検査が行われた。俺の勘違いなのだろうが、心の中まで覗かれているようでとても不愉快だった。
「先生、もう帰っていいですか」
「え、あ、うん。いやちょっとまって」
長時間の検査に焦れた俺を、医師は妙に焦った調子で呼びとめた。
「そのう、仕事はうまく行ってるかな? もし合わないとか、ストレスが堪るとかなら、僕に相談してくれていいからね」
「相談? 私は大丈夫ですが」
「いや、僕もね。心配だから。自分で判断しちゃ、その、危ないからね」
きょろきょろと目を動かしながら喋る医師に、俺は眉をひそめた。それを目にとめたのか、医師がいっそう慌てる。
「いやいや、健康には、うん、問題ないけどね。君の上司がその、気を付けてやってくれと」
「余計なお世話です」
自分でも意外なほど強い言葉が出たが、そんなことはもうどうでもよかった。すぐに立ち上がって診察室を去る。あの禿が、俺のことを気にしている? そんなはずはない。百歩譲っても心配などでは断じてない。俺の仕事ぶりがそんなに気にくわないのか。あの医師も腫れものを扱うように俺の顔色をうかがってばかりで、あれではまるで、俺がすぐ癇癪を起すヒステリー患者のようではないか。
気にくわない。何もかもが気にくわない。街が俺を笑っているようだ。いや、昔から、街も世界も俺を笑っている。跳び箱も跳べないで、ただ蹲っているだけのことがそんなにおかしいのだろうか? 俺はお前らのために大人しくしてやっているのに。
俺は帰宅すると、パソコンを点け、戸棚をひっ掻きまわし、材料をかき集めた。今まで使ったこともない量の火薬を、慎重に大胆に調合していく。深夜を過ぎ、窓の外が明るくなって、千個目の爆弾が完成した頃にはもう昼が近付いていた。
一息つくと、溜まった疲れがどっとあふれた。頭の中まで真っ白になり、俺は大きなあくびをしながら、ベッドの上に倒れ込んだ。重い眠気が、瞬く間に俺を押しつぶした。
――見てたよ、××君
夢を見た。
――すごいね。とうとうやったんだね
少女の夢だ。ちょうど僕と同じくらいの体格で、体操服を着ている。僕は尋ねる。
――何が? 何をやったっていうんだよ
僕はできなかったんだ。どこに行っても同じ、体育館なんだ。
あれ? 体育館?
――できたじゃない。跳び箱
視界が開けている。僕は二本の足で立っている。目の前には、体育館の扉が大きく開いて、夕日がさし込んでいる。
僕は振り向いた。跳び箱が間後ろにある。
そうだ、思い出した。僕は、跳べたんだ。
頭の後ろで何かがはじける。ずっと突っかかっていたものが外れて、全てが繋がったような気がした。跳ね起きると、クリアになった頭の中で、少年の日の自分が笑っている。そうしてそのまま去っていく。僕を縛り付けていた視線は、夕日の彼方へ消えていってしまった。
やっと分かった。僕は、あの事故で何かを得たんじゃない。忘れていたんだ、前に進む方法を。
僕はボストンバッグを持って、家を飛び出した。
【人工的トラウマ操作による犯罪抑制効果についてのレポート(抜粋)】
『……人身事故の際、脳波検査及び遺伝子照合により同被験者は危険因子を保持しているものと判断され、当研究所によるトラウマ操作を行われている。尚、20××年×月×日、同被験者の手よる××県×市内における大規模爆破事件について、当実験の効果を行動観察などから具体的に検証するとともに、被験者の精神的作用によるトラウマ解除の可能性を……』
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