『 Same 』part.4
錯覚(illusion)
・感覚器に異常がないのにもかかわらず、実際とは異なる知覚を得てしまう現象のことである。
「も.....もう一回....言って......下さい...」
「だからー!金曜は家で普通に寝てたってば!...もう、何回言わせんの!?」
澄み渡る晴天の下。
広がる、青空の下。
校庭の隅に俺達はいた。
「......な...なんで....!?」
「は!?なんでって...夜寝てるのは当たり前でしょ??」
俺の目の前に立っているのは、紛れもなく彼。
なのに。
「ええと....あの.....何から......言えば....いい.....?」
「知らないよっ!黒乃どうしちゃったの!?」
俺は未だに、この光景を信じられないまま。
「.....あ....あはは......はははは....」
「...暑さで頭おかしくなった?まだそんなに暑くないと思うんですけどー?」
空は相変わらず晴れていて、俺は学校の校庭に立っていて....
目の前には彼がいる。
夢....なのだとしたら、その方が辻褄が合う。
先日見た、あの続きなんだろう、と。
しかし肌を撫でる風や暑い陽差し、聞こえるその声、そのどれもがあまりに鮮明で。
明らかにこれは現実だった。
「もしかしたら熱でもあるんじゃないの?...どれどれ」
何も理解出来ず立ち尽くす俺に近付いた彼は、手の平を額に押し当ててきた。
「.....っ!」
「うーん...熱はないっぽいな~」
手の平から伝わる、その温度も。
あまりに現実的で。
至近距離まで近付いたその表情を、ただ見つめる。
その大きな瞳に映っている俺はどんな顔をしているんだろう。
何も考えられないまま硬直してしまう視線は、そのままずっと彼を捉えている。
「体調も悪くなさそうだし....寝惚けてるだけなの?ねえ」
この目に映っているのは...
紛れもなく、由沙。
夢ではない。
現実に彼はいる。
「そういえば昨日のメール、ちゃんと答えてよ!この気温だったら夏服じゃなくてもよかったじゃんかー!」
...そして由沙はこう言っている。
あの日、金曜の夜。
その日は家で寝ていた、と。
「はぁーほんとに、後で教室に戻ったら水分補給しよ。黒乃もおかしくなる前に水でも飲みなよー、もうおかしいけど」
...俺はやはりあの日、夢を見ていたのか....?
日を跨いだあの深夜に、由沙を連れて川に行っていたのは...
本当はただの夢で、あの場所で見た景色、犯した過ちも。
全て幻だったというのか...?
あの夜、俺自身もただ家で眠っていただけなのか...?
でも、それならあれ以降の出来事はなんだ?
俺は翌朝の土曜、目が覚め、そこにはしっかりと彼の姿があった。
ベッドの上で由沙は静かに横たわっていたはずだ。
けれど....
その日の夕方...外から帰宅した時には、由沙の姿は消えていた。
俺はそこで恐らく....気が動転してしまったのだろうか。
そこからの記憶があまりない。
その後に浮かび上がるのは、突如として現れた、桜華の姿。
彼が何者なのか.....まだ何一つ分っていない。
そしてこの状況も...
「黒乃ー、もう先に戻るからねー!」
その声で我に返ると、由沙の姿は遠くにあった。
不意に鳴り響くチャイムの音。
休憩時間が終わったようだった。
足早に教室に戻る彼を追うようにして、俺も校舎へと駆け出した。
――――
開け放たれた窓から、微かな風が入る。
授業中の静かな教室が、何故か少し懐かしく感じた。
ノートに書かれていた過去の文字が、つい先日のものなのにも関わらず、長い年月が経ったかのように感じる。
その続きに、また新しく書き足している文字が、すごく真新しく見えた。
まだ、使い始めて間もない、このノート。
始まったばかりの高校生活。
まだ慣れない高校の環境にもそうだが、授業にもしっかりついていかなければならない。
そして...
(....由沙)
見失ってはならない。
それは....そう。ずっと前から。
必死で追いかけている。
...けれど今の俺はどこにいるんだ....?
本当に...かつてのように.....由沙と同じ世界にいるのか...?
ここは...何処なんだろう。
それはまだ分からない。
それでも、窓の向こうの空は、確かな空。
確かな色。
―――これは夢ではなく、現実。
――――
「ん?苗薔薇君どうしたの?」
「....いえ...なんでも!」
またか....!
「どうした苗薔薇、探しものか?」
「っ....!...大丈夫です!」
くそっ...
なんなんだ...
(俺に構わないでくれ...)
学校中の廊下をひたすら歩き回っている。
教室の前を通る度に中を見渡す。
周りから見ればおかしな行動だろう。
...今は周囲を気にかけている余裕なんてない。
もう一度...
俺はもう一度、この目で由沙の姿を捉えたい。
由沙の声を聞きたい。
この現実で。
...最後の授業が終わってまだ時間は経っていない。
まだほとんどの生徒が校舎にいる。
それなのに、どこを探しても彼の姿が見つからない。
由沙のいる三組を見た後、その周辺を探し、さらにそこから別の場所を探し続けている。
...恐らくもう、全ての場所を見ただろう。
一体...由沙はどこへ行ったんだ。
まだ、帰るには早すぎる。
「念のために、下駄箱を確認しようかな...」
俺はすぐに下駄箱のある校舎の入り口へと向かう。
足早にそこへ向かう途中、由沙のいる三組の担任の先生とすれ違った。
「あ...!ちょっと!すみませんっ」
「え?...ああ、あなたは五組の...」
「....た...鷹音由沙って今どこにいますか!?」
「ど...どこって....」
俺は唐突に変な聞き方をしてしまった。
普段はあまり話しかけることのない俺がそんな風に聞いてきたことで、驚いているようにも見えたが、何かを思い出したようにして言った。
「鷹音君は今日の午後の授業が始まる前に早退したわよ、その前に保健室に行ってたみたいだけど」
「えっ....?」
早退...!?
「なっ.....何かあったんですか...!?」
「私はその時外に出てて詳しく知らないのよ。ただ届け出が出してあったから...なにか用事でもあったの?」
「....あ、いえ!大丈夫です」
....一体...どうしたっていうんだ....?
―――早退って
俺はすぐに保健室の前まで行った。
扉は閉まっていた。開けようにも鍵が掛かっている...
その後、俺は職員室に向かい保健の先生を探したけれど姿がなかった。
校舎を出て駐輪所に向かうも、やはり由沙の自転車はもうなかった。
何もかもに違和感を感じながら、俺は自分の自転車が置かれている場所へ向かう。
...由沙は一体どうしたのだろう。
熱でもあったのか...?
今日...あんなに元気に見えたのに.....?
あの場所に、今日という日に、由沙に会ったのは事実で、話したのも事実。
なのに、それがまた幻かのように心の中で霞んでいく。
俺はその姿が消えないように何度も今日の景色を思い出す。
変わらず、今までのように接してくれたという、本来ならば...信じ難い事実。
今までのように...生きていたという事実。
俺はあの時....殺してしまったと.....そう思っていたのに。
未だに説明付かないその事実に頭が混乱している。
何かが....おかしい...?
いや....俺がおかしいのか...?
晴れない霧が視界を覆うように、思考を澱ませる。
俺はあの日一体、何をしていたんだ?
そして由沙には何があったんだ?
「.....?」
考えながら歩いていると自分の自転車の前まで着いた。
そこで何かが目に留まる。
「....なんだこれ」
自分の自転車の籠に何かが入っていた。
見るとそれは、体操着のようなジャージだった。
「....?.....なんで...」
こんなものが...?
恐る恐る籠に入ったそれを手に取ると、紺色のジャージの下に紙切れが入っていた。
「.....!?」
俺はわけも分らずその紙切れを手に取って見た。
手の平ほどの小さいそのメモ用紙のような紙切れには、一言こう書かれていた。
『君に任務を与えよう...黒乃君...!』
「....は?...」
その紙切れに書かれた言葉の下の方には小さく、電話してね!by 桜華、と書かれていた。
そして脳裏にはふと、真っ白な髪の人物が微かに笑っているという、そんな表情が浮かんできた。
「.....奴か.....。」
俺は鞄から携帯を取り出して電話帳を開き、手紙の送り主へと電話をかけた。
するとものの2、3秒で繋がった。
「もしもし、やあ黒乃君。学校お疲れ様」
「....ああ。...それより....これはなんなんだ.....」
「何処でもいいからそれに着替えて!着替え終わったらまたメールしてくれれば任務の詳細を送ろう」
「いや、ちょっと待ってくれ!...一体なんで....!」
疑問をぶつけようとした所、通話はぷつりと切れた。
俺は呆然と手に持ったそのジャージを眺める。
「.....なんなんだよ....これに着替えろって.....」
畳まれていたジャージを広げてみる。
紺色を基調に銀色と黄色のアクセントとなる二本線が袖に刺繍された、上は長袖、下はハーフパンツと、ごく普通の学校の体操着のような見た目をしている。
一つ確かなのは、ここ鈴蘭高校のものではない。
けれど、どこか見覚えがある。
この辺りの....どこか近隣の学校の体操着なんじゃないのか....
そう思いながら一通りジャージの上着を眺め続けていると、何かを思い出した。
「....これって...もしかして」
一つの記憶が頭をよぎる。
やはり、どこかで見たことがあると思ったら...
「泊高校の...だな....」
それは間違いなかった。
朝の登校中や、下校時に見かける、あの体操着だ。
....でも、それをどうして俺に...?
不思議なことに、そのサイズ感も自分の体に合っているようにも感じる。
まるで、俺自身のものかのような感じがする。
....これを着て、俺にどうしろというんだ...
それになぜ....奴は泊高校の体操着を持っている?
「....買ったのか...?」
そんな疑問を浮かべながら、俺は手に持ったジャージを眺めたまま立ち尽くしている。
...このままここで迷っていても埒が明かない。
早く着替えて桜華に連絡しよう。
どうせ、拒否することはできない。
ジャージを自転車の籠に入れ戻し、俺は足早に学校を出た。
....この付近で、着替えられる場所を一通り思い浮かべる。
一旦家に帰っても良かったが、万が一の為にもやはり誰の目にもつかない場所で事を終えたい。
着替えた姿を母親にでも見られたら面倒なことになる。
そうなると....最も無難な場所はコンビニのトイレぐらいだろう。
そのまま俺は学校のすぐ側にあるコンビニへ向かった。
客足も然程多くなく、学校終わりに立ち寄る生徒も少ないので、早いうちにそこで着替えてしまったほうがいい。
俺は到着するとすぐにトイレの個室に入り、例のジャージに着替えた。
「.....サイズ...ぴったりじゃないか?」
着替えると、予想以上にサイズが合っていて驚いた。
気味が悪い程ぴったりだ。
不思議に思いながらも、俺はすぐに桜華へと連絡を入れた。
「....一体...俺に何をさせる気なんだろう.....」
するとものの数秒で返事が返ってきた。
その内容を確認する。
『よし黒乃君、そのまま泊高校まで行ってもらうよ!』
「......は!?」
送られてきた文章に驚愕しながらも、その続きを読み進める。
『高校に着いたら校庭から少し離れた場所にある学校のテニスコートに行ってもらう。そしてそこの部室に忍び込んで、ある生徒の鞄の中を探ってほしい』
文章を読み進めていくうちに、俺は自分の目を疑いそうになる。
...これってつまりは俺に、
「盗みをやれっていうのか...!?」
そして最後にこう書かれていた。
―――『その中に細長いケースが入っていればそれを持ち帰ってほしい。ちなみにその生徒の名前は、』
そしてその続きを読んで、ふと何かが引っかかった。
『横井翼だ。他の生徒の鞄と間違えないようにね』
.....それはどこかで。
聞いたことのある名前だった。
「横井...翼....」
そのどこか聞き覚えのある名前が....
妙に引っかかり続けていた。
―――――
気が付けば空は薄暗く、雨が降って来そうな様子だった。
あんなに晴れていた昼頃とは真逆の空。
....まだどこか違和感のある着心地で、俺は他校の体操着を身に纏っている。
まるで敵国に侵入したスパイにでもなった気分だ。
....それを印象付けたのは、やはり校門を通った時だろうか。
周囲の人は俺を警戒することもなく、ましてや見ることもない。
まさにそこに馴染んだ様子で、俺の姿はあったのかも知れない。
服装一つで、こうも自然に出入り出来てしまうのかと少し恐ろしくなった。
けれどもそんなことは大したことじゃなかった。
今...この場所と比べれば...
(誰も....いないな....)
薄暗く静まり返ったここは、桜華の言っていた部室で間違いないようだ。
校舎のある校庭から少し離れたところにある小さいテニスコート。
その敷地内に立てられたこの小さい部室が、今回俺が....盗みをする場所だ。
何故盗みを働かなければならないのか.....そんな至極まともな疑問は今の俺は抱くことが許されていない。
まさにそれこそ....雇われたスパイのようなものだろう。
俺は自分の身に例え危険が降りかかろうとも、依頼主から与えられた依頼をこなす他ない。
桜華という謎の人物によって、掌握されたと言ってもいい俺の全て。
いいように扱われて最後に掃き捨てられたとしても....今はこうすることでしか自分を護るすべは無い。
それに今ここには誰一人いない。絶好の好機....とでも言うべきだろうか。
俺は心を決め、薄暗い部室の中を歩き出す。
壁際に設置された棚のような所に、いろんな物が置いてあった。
バインダーに挟まれた紙には部員の名前がいくつか書かれている。
名前の欄の横にはいくつかの項目があり、その中に施錠係という言葉が目に留まった。
(施錠...係....部室を閉める担当をローテーションしているのか)
つまりはここにいずれ今日の施錠担当の部員がやって来る。
悠長にはしていられない。
早く例の生徒の鞄を見つけて、桜華の言っていたそのケースを盗まなければならない。
この期に及んで罪悪感を感じて躊躇う時間なんて無いのだから。
俺はその棚の上を再び見渡す。
すると隅に一つだけ、学校の鞄と思われる物があった。
すぐにその鞄を手に取る。
あまり物が入っていないのか、中身が軽い。
閉められたチャックを開けると、何冊かのノートと筆記用具が入っていた。
俺は一先ず、一冊ノートを引っ張り出す。
表紙に書かれた名前が、薄暗いせいでよく見えない。
そこで携帯を取り出して、画面の明かりで名前を確認した。
「.....!」
書かれていた名前は、横井翼。
まさに、探していた本人の物だった。
俺は引き続き、急いで鞄の中を漁る。
あったのは、他の数冊のノートと筆記用具のみ。
桜華の言っていた、細長いケースのようなものは入っていなかった。
(....これだけ...か.....無いということは....)
すぐに退却して報告するしかないだろう。
俺は取り出したノートを全て鞄に戻し、ここから立ち去ろうと出口へ向かう。
その時、先ほど見ていた部員の名前が書かれた紙を再び注視してみた。
横井....翼...。
その名前が再び引っかかる。
この名前...どこかで....
紙に書かれたその名前をしばらく眺め続ける。
どこかで....会った......?
「......!?...」
すると一つあることに気付いた。
今日の施錠係、この横井翼じゃないか...
(その生徒が...もうすぐここに来る....?)
俺は我に返り、すぐにその部室から出た。
誰に会ってもまずいが、その本人に会うのが最もまずいだろう。
何の収穫も得られてはいないが、今はここから離れよう。
どこかのスパイが、まるで敵国の拠点に爆発物を仕掛けたかのように、俺はそこから立ち去る。
その時だった。
誰かが、こっちを見ていた。
「!!....っ!」
校舎側の道からテニスコートの入り口へと歩いてきたであろう誰か。
恐らく学校の生徒だ。
俺は咄嗟に逆方向へ向かう。
「とにかく....死角に隠れないと...!」
俺は一先ず部室の建物によって見えない、その向こう側へと身を潜めた。
すぐに辺りを見渡す。
...出口のような場所は他にない。
この敷地内の柵は高く、乗り越えられそうにもない。
今はここで...隠れてやり過ごすしかない...
俺はゆっくりと、建物の影に隠れながら入り口の方を覗き見た。
その生徒はまだそこに居た。
そしてそれは女子生徒だった。
まるで誰かを探すような様子でコート内を見渡しているように見える。
中に入ってくる様子は無い。
「....マネージャーか.....?」
部員を探しているのだろうか。
再び身を隠し、ポケットから携帯を取り出す。
桜華に、泊高校の外の部室へ忍び込んだ事、横井翼の鞄の中にケースは無かった事を書き記し、メールを送信した。
そして静かに画面を閉じる。
ここから....どうするべきだろう。
いっそのこと、ここの生徒を装って素早く去るか...?
でも、ここに俺だけがいること自体が怪しまれる。
やり過ごそうとしても引き止められるだろう。
それだけは避けなければ。
きっとばれたらそこで、この任務とやらは失敗になるのだろう。
失敗をすれば、俺の身もどうなってしまうか分らない。
....それ以前に、桜華が求めていた物は見つからなかったのだが...
「.....!?」
なんだ....?
....話し声が聞こえる。
.....声が近付いてくる。
俺は突然聞こえてきたその話し声に息を殺しながら、また入り口を密かに見た。
「......な....」
こっちに向かって二人の生徒が歩いてきていた。
一人はさっきまで入り口に立っていた女子生徒と、もう一人は...
「おい....嘘...だろ.....?」
その姿に俺は驚いた。
....いや...驚いただけではない。
「あれって.....」
それは既視感とでも言うべきだろうか。
記憶の中の、一つの景色が蘇る。
その姿は...
「.....俺...」
ではない、ということは、今だからこそ判る事なのかもしれないけれど。
まるで鏡でも見ているかのような錯覚を、俺は既に体験していたから。
俺はそれが誰であるかを理解したと同時に、桜華がこの任務を俺に課した意図を僅かに理解した。
「でも驚いたなぁ、夏樹さんが心配して探してくれてたなんて」
話す声が極限まで近付くと、そこで足音は止まった。
鼓動の高鳴りが極端に激しくなる。
ここに居れば恐らく.....見つからないはず...
俺はそのまま静かに息を殺した。
彼らが部室の中に入り、またすぐに出てくると扉を施錠したようだった。
そして再びまた足音が鳴る。
「.....行った....か...?」
俺はまたしてもゆっくりと、姿を忍ばせながらその様子を覗いた。
同級生であろう女子生徒と歩いている後ろ姿を見ても、それは間違いなかった。
....横井翼。
あの日...あの場所で初めて会った時の事を、俺は忘れてはいなかった。
...何もかもが酷似しているその姿を。
―――「ここでなにしてる...?」
「えっ....!?」
突然そんな声が聞こえて、慌てて振り返った。
「.....!?」
それは明らかに異様な光景だった。
気配すら、感じていなかったのに。
「.....だ...誰....」
異質な空気を感じさせるその存在は言葉を発しようと口を開いた。
その一言は聞こえなかった。
そして、その次がない、と言うことを俺は咄嗟に分かってしまった。
「――――っ」
「...うわあああああっ!!」
気が付けば走っていた。
来た道をただひたすらに。
後ろを振り返ることもなく、周りを気にすることもなく。
声を上げて気が狂ったように走った。
自分を支えていた何かが、音もなく崩れていくようだった。
雨が強く体を打つ。
その中を自転車に跨り全力で走る。
気が付くとそんな状況だった。
恐怖、という言葉で片付けられないような荒れ狂う感情に鞭を打たれている。
自分が今どこを走っているのかなんて分からない。
ただ衝動のままに走る。
恐れを振り払う様に、走って。
走って。
―――走って、
「うわっ......!」
強い衝撃が体を打つ。
同時に響き渡る音。
「っ....!!」
走り続ける中、避けようとしたそれを、避けきれずに。
「―――夏樹さん、大丈夫!?」
その場に俺は転倒した。
「大丈夫....ですか....?」
誰かがこっちに駆け寄ってくる。
すぐ目の前まで来ると、倒れている俺に手を差し伸べた。
その手をすぐにでも掴んで立ち上がりたかったが...
「あれ...?...もしかして」
その人は何かを思い出したかのように言った。
その言葉に、初めて俺もその顔を直視する。
「苗薔薇さん....ですよね!?」
「っ.....!」
目の前の彼は間違いなく、横井翼だった。
何もかもが俺に似ていて、俺ではない人物。
見上げたその瞳は、あの時と同じ。
「.....っ...!!」
「苗薔薇さん!お久しぶりで...あ....あれ?」
急いで立ち上がり倒れた自転車を起こす。
何も言わず、振り返る事もせず。
俺はその場から逃げ出した。
.....降り続ける雨の音。
冷たさに打たれ息を切らしながら自転車を走らせる。
「...はぁ.......はぁ....っ.....」
身に沁みる雨の冷たさが、あの時との違い。
...まだ変わらない恐れに揺り動かされながら.....
か細い鼓動を刻み続けた。
「......くっ....はぁ......っ」
急な勾配の坂道を登る。
より体力を奪われる。
空は、既に薄暗く視界は悪い。
「.....っ....!」
やっとの思いで坂を登り終えると、俺は体力の限界を感じて自転車を降りる。
自転車から手を離すと、当然の如くそのまま音を立てて地面に倒れた。
それを見た自分自身も、同じようにその場に倒れ込んだ。
...雨が体を打ち続けている。
通り過ぎた車の運転手がこっちを見ていた気がしたが、どうでもよかった。
すぐ横で、倒れた自転車が小さく哀しげな音を立てている。
雨音と絡まって、より哀れに感じた。
冷たいアスファルトに横たわったまま、その音を聞き続けていると、突然携帯が鳴る。
取り出して、電話に出た。
『もしもし黒乃君、メール見たよ。とにかく今はお疲れ様!』
「.....ああ」
『なにより無事でよかったよ。君に何かあったら僕も困るからね』
「......。」
『にしても、なかったか~。絶対持ち出してると思ったのに』
「......なぁ....俺は....」
『次は本拠地を調べるしかなさそうだね。まぁ、もう遅いかな』
「.....俺は...これから...どうなるんだ....?」
『なに?またその質問?』
電話の向こうで愉快そうに笑う声。
そしてあの時と同じく、ただ冷淡に言葉を紡ぐ。
『悪いようにはしない。ただ、君には手伝ってもらうだけ』
それだけ言うと、その先は何も言わなかった。
何も言わなかったから、俺は言った。
「あの場所....泊高校で、明らかに命を狙われた」
『....ほう』
「あれは一体なんなんだよ....!何か知ってるんだろ...?」
『...誰に会ったか知らないけど、君は殺人予告でもされたのかい?』
「...いや」
『君の憶測が正しいとは限らないよ、何故君は命を狙われたと思った?』
「それは....」
異様なその姿を思い出す。
俺は危機以外のなにも感じなかった。
その直感は間違いだと言うのか。
『...君の力にもなってあげたいけど、情報がないんじゃ何も答えられないよ。特徴でも教えてくれれば助かるんだけど』
「....いや...もういい....」
何も思い出したくない。
『そして君、今外にいるでしょ。早くお帰り。風引いたら困るでしょ?』
俺は寝転がった状態から上半身だけを起こし、相変わらず倒れたままの自転車を眺めた。
「桜華....一つだけ教えてくれ。あの横井翼のことだけど....」
『彼がどうしたの?』
「...どこまで知ってるんだ、あいつは一体なんなんだ!何か知ってるんだろ、あいつが...何を持ってるっていうんだ!?」
『...今度教えるよ』
「...分かった。それと....あと一つ、俺の友人のことだけど」
『君は一つだけって言ったよね?それに君は早く帰った方がいい』
その声は酷く冷たかった。
俺は何の返事も出来ず、最後のその声を聞いていた。
『忙しいから、そろそろ切るよ。おやすみ...黒乃君』
――――途切れる通話。
そのまま携帯でメールの画面を開く。
色んなことが重なりすぎて、限界だったのかも知れない。
気が付けば、由沙宛てにメールを送っていた。
ただ一言。小さく一言。
こんなメールは、由沙に迷惑だろう。
それでも抑えられなかった。
何もかもが怖くて。
「.....助けて....由沙.....助けてくれ.....っ....」
次第に濡れていく携帯の画面には、降る雨と小さな脆さが滲んでいた。
日の落ちた暗い景色の向こうに、健やかに生きる自分の存在はあるのだろうか。
何も見えない其処に。
――――
「.....で...今日がいいと」
「...ああ」
暑い日差しが照りつける野外。
強い直射日光は容赦なく肌を刺さる。
もう梅雨が明けたのかと思うほどに暑い。
空は青く、清々しい。
また.....あの夢を思い出してしまいそうなほど。
「はぁ.....分かってると思うけど、今日平日だよ?」
「ああ...分かってる」
「お家の人にはなんて言ってあるの?」
「ちゃんと休むって言ってあるから」
「...で、外出と....?」
「....いいんだ。....親は放任主義だから」
「ああ....それは素敵」
桜華は手に持っていた飲み物を一口飲んだ。
その時見えたネックレスのようなものが綺麗だった。
「君意外と.....強引なんだね。...見直したよ」
桜華は汗一つ流してはいなかった。
この炎天下で涼しい顔をしている。
「君は心が脆いのか、強いのかよく分からないねぇ」
小さく微笑んだ彼は何かを少し考えた後、いつかの日のように落ち着いた笑みを見せて言った。
「いいよ、君が決めたんだから.....僕もそれに乗るとしよう」
満足気に言った彼は歩き出し、俺もその後を追った。
今日は、雨も降りそうにない。
...to be continued




