はじめまして、男爵様。私はこれから断罪される(予定の)娘です
鼻腔をくすぐる匂いに誘われて、オスティンはゆっくりと目を開いた。
最初に視界へ飛び込んできたのは黒ずみの目立つ木の天井。雨漏りの跡なのか、板目に沿って大きな染みがいくつも広がっている。
少なくとも自分の屋敷ではない。それどころか三十年の人生で足を踏み入れたどんな部屋よりも粗末だった。
「……どこだ、ここは」
身体を起こそうとした瞬間、脇腹から右脚にかけて痛みが走る。息をゆっくりと吐きながら再び寝台へ沈み込むと、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「……あ、まだ起きちゃ駄目ですよ。お医者様も何日かは大人しくしていろって言っていましたから」
戸口から顔を覗かせたのは大きな瞳が印象的な幼い少女だった。
肩の辺りで無造作に切り揃えられた薄桃色の髪に、日に焼けた頬。身に纏う服は粗末なもので裾には何度も繕った跡がある。それでも不思議と不潔な印象はなく、少女は手にしていた盆を寝台脇へ置くと水差しへ手を伸ばした。
「お水、飲みますか?」
「……ああ。貰おう」
欠けた杯を受け取りながら、オスティンは途切れた記憶を辿った。
領地の視察を終え、自領を出て王都へ戻る途中だった。山道へ入って間もなく急に馬が暴れ、御者が必死に手綱を引いていたことまでは覚えている。その直後、大きく傾いた馬車から身体を投げ出され——そこから先の記憶がない。
「馬車はどうした。それと……御者は無事なのか?」
「御者さんは頭をぶつけていましたけど、もう大丈夫です。馬車は車軸まで折れちゃって村では直せそうにないので、村の人が麓の町まで職人さんを呼びに行っています」
「そうか。それならまだ、ましな状況ではあるな」
ひとまず胸を撫で下ろす。どうやら崖から転げ落ちて命を落とすという、男爵家当主としては何とも締まらない最期だけは免れたらしい。
「それで、私をここへ運んだのは君か?」
「見つけたのは私です。でも運んだのは村の男の人たちですよ。私一人じゃ、さすがにこんなに大きな人は運べませんから」
それもそうか。こんな幼い娘に担がれていたとあっては立つ瀬もない。少し考えれば分かることなのに、どうやらまだ混乱しているらしい。
オスティンは改めて粗末な小屋の中を見渡した。
小さな卓と椅子。棚には乾燥させた薬草や豆が並び、壁際には子どもの手には不釣り合いな弓まで掛けられている。
「随分と世話になったようだな。礼を言いたいのだが……君のご両親はどこにいる?」
「いませんよ。死んじゃいました」
あまりにもあっさりと告げられて返す言葉を失った。
少女はオスティンの戸惑いなど気にした様子もなく、先ほど盆に載せていた椀を差し出してくる。
「兎と豆の煮込みです。まだ熱いので気をつけてくださいね」
「待て。まさか君は一人で暮らしているのか?」
「はい。村に戻ってきてからなので、二年くらいでしょうか」
「戻ってきた?」
「私、小さい頃に神隠しに遭ったそうなんです。三歳の頃にいなくなって、三年くらいして帰ってきたら、父さんも母さんも亡くなっていました」
オスティンは目の前の少女をまじまじと見つめた。いくつになるのかと問うたら、八歳になったと言う。言動こそしっかりしているが栄養が足りていないのか、王都で見かける同じ年頃の子どもよりもさらに幼く見えた。
「……君は随分と肝が据わっているな」
神隠しも気にはなるが、今はそれよりも戻ってきた幼子がなぜ一人で暮らしているのかを知りたかった。
尋ねてみれば、遠い親類くらいはいるらしい。だが皆それぞれ事情があるからと引き取りを断り、結局は両親が残したこの小屋で暮らすことになったという。
「簡単な罠なら仕掛けられますし、小さな畑もあります。村の人から手紙を書く仕事も貰っているんです。だからそんなに困っていませんよ」
「困っているかどうかを八歳の子どもに判断させている時点で、周囲の大人が揃って役立たずだという証左ではないか」
「あはは……随分とはっきり言っちゃうんですね」
「私は昔から遠回しな物言いが嫌いでね。何を望んでいるのかも言わず、相手に察してもらおうとする人間ほど面倒なものはないと思わんか?」
少女は曖昧な愛想笑いを浮かべた。
これ以上この話を続けても仕方がないようだ。それよりも、肝心なことをまだ聞いていなかった。
「……まだ君の名前を聞いていなかったな」
「マヨイです。変な名前でしょう?」
そう言って、少女——マヨイはくすりと笑った。確かにこの辺りでは聞き慣れない響きだ。
「私はオスティン・ベイカー。王都に屋敷を構えるベイカー男爵家の当主だ」
「……男爵様、でしたか」
一拍置いて、マヨイは椅子から立ち上がった。
粗末なスカートの裾を摘み、すっと腰を落とす。視線の伏せ方から指先の置き方まで、田舎育ちの八歳児とは思えないほど自然な礼だった。
「知らぬこととはいえ失礼いたしました。ベイカー男爵様」
「……待て。君はどこでその礼を覚えた?」
「……本で読みました」
「本を読んだだけで重心の置き方まで身につくものなのか?」
「とても詳しい本だったんですよ」
疑わしげな視線を向けてもマヨイはにっこりと笑うばかりだ。
「……可愛らしい顔をしてなかなか食えない子どもだ」
「お褒めに与り光栄です」
「安心しろ、褒めていない」
そう返しながらも、オスティンは知らず口元を緩めていた。
神隠しから帰ってきたという、妙に肝の据わった八歳児。
どうにも調子の狂う娘だった。
それからオスティンは、馬車が直るまでマヨイの小屋で世話になることとなった。
怪我のせいで自由に動き回ることもできないとあっては、寝台や窓辺から小屋の周囲を眺めて過ごすしかない。
そうして数日も滞在するうちに、この村に漂う微妙な空気にも気づかされた。
どうやらこの閉鎖的な村では余所者であるオスティン以上に、小屋の主であるマヨイの方が避けられているらしい——と。
子どもが一人で暮らしているというのに日常的に行き来する者はいない。文字が必要な時だけは戸口越しに代筆を頼む者もいたが、顔を合わせようとはしない。村長だけはオスティンに礼を尽くしたが、マヨイへ視線を向けることすらない。
あからさまな悪意をぶつける者はいない。ただ、誰も彼女へ近づこうとはしなかった。
「……あれはいつものことなのか?」
代筆を頼むだけ頼んでそそくさと立ち去る村人の背中が見えなくなってから尋ねると、マヨイは手にした紙へ目を落としたまま不思議そうに瞬きをした。
「ええ、いつものことですよ。あまり私に近づけない方がいいと思っているみたいです」
「神隠しとやらのせいでか。君は、それで腹が立たないのか?」
「別に。遊んでくれる人がいなくても畑がありますし、森には恵みもありますから。代筆のお礼にとたまに薪や食料を置いていってくれますし、案外ひとりでも困らないものですよ」
恨み言の一つでも出てくるものと思っていたのに、少女は本当に何でもないことのように笑っている。
それがオスティンには、どうにも気に食わなかった。
各所への手紙も書き終えて暇を持て余したオスティンは、自然とマヨイの様子を眺めて過ごすようになった。
朝になれば小さな畑を見回り、森に仕掛けた罠を確かめる。戻ってくれば薪を割って手紙をしたためる。オスティンの食事や薬の世話まで当たり前のようにこなしていた。
だからといって何でも上手くできるわけではないらしい。
ある日の昼、薪を細く割っていたマヨイが珍しく短い悲鳴を上げた。
「どうした」
窓辺から声を掛けると、マヨイは慌てて左手を背中へ隠した。
「何でもありません。ちょっと木のささくれが刺さっただけです」
「見せろ」
「本当に大したことありませんよ」
渋るマヨイを呼びつけて手を取ると、掌には思ったより深い傷が走っていた。薪が割れた拍子に尖った木片で切ったらしい。血が小さな指を伝っている。
「これのどこが大したことないんだ。布を持ってこい。傷を洗うぞ」
「でも、まだ薪が残っていて」
「薪など後でいい。化膿して手が使えなくなった方がよほど困るだろう。まったく、八歳児というのは自分の怪我の程度すら判断できんのか」
ぶつぶつと文句を言いながら傷を洗い、清潔な布を巻いてやる。
そのうちマヨイはすっかり大人しくなり、手当ての済んだ左手をじっと見つめていた。
「……何だ」
「いえ。男爵様って、こういうこともできるんですね」
「馬鹿にしているのか? これくらい応急処置の範囲だ」
「そうじゃなくて……私が怪我をしたら、気にするんだなぁと思って」
思わぬ言葉に、オスティンは顔を上げた。
怪我をした子どもがいれば声を掛けるのが普通で、泣いていれば理由を聞くのが道理というものだ。
だがこの娘には、そんな当たり前すら与えられてこなかったらしい。
「……もういい。今日は薪割りをするな。残りは御者にでもやらせる」
「男爵様、結構ひどいことを仰いますね」
「給金もあいつの宿代も私が払っている。少しくらい働かせても罰は当たらん」
ようやくいつもの調子に戻ったマヨイを見て、オスティンは小さく息を吐いた。
その夜。
身体の痛みですっかり眠りが浅くなっていたオスティンは、微かな衣擦れの音で意識を浮上させた。
誰かがこの部屋に近づいてくる。足音からいってマヨイだろう。夜中に何の用だと思いながら寝たふりを続けていると、少女は寝台の脇まで来たところで動きを止めた。
何かをするでもなく、ただそこに立っている。
さすがに気味が悪くなり、そろそろ声でも掛けようかと思った、その時。
「……生きてる……」
今にも消え入りそうな小さな声が暗闇の中に落ちた。
ほっと息を吐く気配がして、やがて足音が遠ざかっていく。
隣室との間に掛けられた布が僅かに揺れ、再び部屋が静まり返ったところでようやくオスティンは薄く目を開いた。
村人から遠巻きにされても平然としていて、怪我をして血を流しても誰かを頼ろうとはしなかった。
そんな娘が夜中にわざわざ自分が生きていることを確かめに来た。
「……本当に、妙な娘だな」
独りごちて、目を閉じる。
命にかかわるような怪我ではないと彼女も理解しているだろうに。なぜそこまで気に掛けるのかは分からなかったが、自分を案じているのだと思えば悪い気はしなかった。
その後も数日を共に過ごすうち、オスティンはマヨイという少女について少しずつ知ることとなった。
読み書きができるだけではなく計算にも明るい。本人は本で覚えたと言い張っているものの、食事の際には背筋を崩さず、食器を扱う手つきにも妙な品がある。この村で一人暮らしをしてきた娘にしてはどうにも所作が整いすぎていた。
加えて物怖じしない性格で、生意気なことを言ってこちらを腹立たせたかと思えば、次には何事もなかったように屈託なく笑う。
要するに、人の懐へ入り込むのが上手いのだ。
村人たちは神隠しから戻ってきた彼女を気味悪がっているが、そんな事情さえなければきっと年長者から可愛がられる子どもだっただろうに。
それだけに、この閉ざされた村で誰からも顧みられずに育つのは惜しいと思った。
そこである日の食事中、オスティンは何でもないことのように切り出した。
「マヨイ。私の養女にならないか」
思いがけない提案だったのか、マヨイは匙を口元へ運びかけた姿勢のままぴたりと止まった。
「養女、ですか?」
「ああ。君を王都へ連れて帰る。衣食住は当然私が保証するし、教師もつけよう。望むなら音楽でも絵でも習わせてやる。毎朝兎の罠を見回らなくても肉は食えるし、そんな鼠が齧ったような服ではなく、仕立屋を呼んでまともなドレスも作らせる」
「失礼ですね。鼠には齧られていませんよ」
「……そこは気にしなくてよろしい。だいたい普通はもう少し喜ぶところではないか? 貴族の養女になれるという話、こんな辺鄙な村の小娘がそう何度も聞けると思うなよ」
オスティンとしては破格の申し出をしているつもりだった。看病をしてもらった礼にもなるし、この娘の才能を埋もれさせずに済む。妻子のない自分が養女を一人迎えたところで困ることもない。
それに——ここへ一人残していくことを想像すると、どうにも後味が悪かった。
だからこそ、マヨイも喜んで頷くものとばかり思っていたのに。
「ご厚意はありがたいのですが、遠慮します」
「……何?」
予想もしなかった答えに、オスティンは思わず聞き返した。
「聞き間違いか? それとも私の話を理解していないのか? こんな村で一人暮らしを続けるよりも遥かに良い暮らしができると言っているんだぞ」
「良い暮らしができるからといって幸せになれるとは限らないじゃないですか。それに良い話には裏があるものです。どこかに売り飛ばされてしまうかもしれませんし」
「その慎重さは褒めてやるべきなのだろうな。だが安心しろ。私も貴族の端くれだ。世間に顔向けできないことをするつもりはない」
「それはそうでしょうけど、見返りもなしに八歳の子どもを養おうなんて随分と気前のよいお話だと思いまして」
「可愛げのない娘だな。世の中には純粋な善意というものもある。昨今ではノブレス・オブリージュという言葉もあってだな」
「ただの平民の娘を気まぐれに引き取るのも、高貴なる者の責務なんですか?」
そう言ってマヨイは小首を傾げた。
しっかりしているからつい忘れてしまうが、彼女はまだ八歳だ。彼女なりに混乱しているに違いない。少し考えるための時間も必要だろう。
「今すぐ答えろとは言わん。だが、私は一度決めた以上は簡単には引き下がらんぞ。断るのであればそれなりの理由を用意することだ」
「……そうですね。男爵様は強情な御方ですものね」
目を伏せながら頷いた彼女は匙を取り、残っていた豆を口へ運ぶ。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音だけが小さな部屋に響いていた。
*
傷が癒え、杖を使えば小屋の周囲を歩ける程度まで回復した頃には、馬車の修理も終わりが見えていた。
やはり村人たちはマヨイの小屋を遠巻きにしている。オスティンは、切り株に腰を下ろしていた御者へ声を掛けた。
「ご苦労。もうじき動かせそうか?」
「これはオスティン様。すっかりお待たせしてしまって申し訳ございません。職人の手配に時間がかかりまして……」
「それは構わん。村人たちも協力してくれたのだろう? 王都に戻ったら謝礼を送らねばなるまいな。……ところで、どうしてこの村の連中はあの小屋の娘と関わろうとしないのか、聞いているか?」
「私も小耳に挟んだだけなのですが……」
声を潜めた御者に、オスティンは僅かに顔を寄せた。
どうやらマヨイが避けられているのは、神隠しから戻ってきたというだけではないらしい。
「彼女の本当の名前は『ミア』というそうです。ところが神隠しから帰ってきたら『ミアは死んだ』と言い張って、自分はマヨイだと名乗ったそうなんですよ」
「なるほど。たしかにそれだけ聞けば気味の悪い話ではあるな。だからといって子どもの言うことを真に受けるか?」
「それだけではなく、『両親が亡くなる前に飲んでいた山腹の川の水が怪しいから近づくな』と言い出したそうでして。その川は山神の神聖な水として扱われていますから、罰当たりなことを言う娘だと余計に気味悪がられるようになったそうです」
『ミアは死んだ』と言い、別の名を名乗る娘。
そこへ土地の信仰を否定するような言葉まで重なれば、閉鎖的な村で恐れられるようになったのも分からなくはない。
「あまり居心地のいい村とは言えませんからね。早めに修理を終わらせるようにしますので、もう少々ご辛抱ください」
「いや……そう焦らんでもいい。家のことは家令が取り仕切っているであろうしな」
『時は金なり』が口癖のようなオスティンの言葉とは思えなかったのだろう。
御者はどこか釈然としない表情を見せ、「はぁ……」と曖昧に頷いた。
もうじき修理は終わる。そうなればこんな村に用はなく、二度と訪れることもないだろう。
本来なら喜ぶべきところなのに、胸の内には妙な引っかかりが残ったままだ。
その日は夕飯を終えると、向かいに座ったマヨイがすぐに手紙の下書きを始めた。時節の挨拶も淀みなく書き進めている。
ぼんやりと眺めているうち、以前「本で覚えた」と言い張っていたことを思い出した。
「……そういえば君は、本を読むのが好きだったな」
「好きですよ。ここではあまり手に入りませんけど」
「そうだろうな。ならばなおさら王都へ出た方がいい。我が家の蔵書を見れば腰を抜かすぞ」
「……まだ諦めてなかったんですか?」
「商談と同じだ。前の条件で落ちないなら別の利点を提示するのは当然だろう。それに、君ならきちんと勉強すれば貴族院へ通うこともできるはずだ。王国中の貴族子女が集まる場所だからな。ここでは決して得られぬ経験を積めるぞ」
「……貴族院、ですか」
その言葉には少し興味を惹かれたらしく、マヨイは筆を持つ手を止めた。
「男爵様も通われていたんですか?」
「当然だ。もっとも当時の私は、金で爵位を買った商人上がりの倅だと散々陰口を叩かれたものだがな」
「へえ。男爵様にもそんな時代があったんですね。今の姿からは想像もつきません」
「そうだな。今ならその家の商売を一つ潰してから、翌朝笑顔で挨拶するくらいはするかもしれん。手を出さないだけ紳士的だと思わないか?」
「全然思いません。むしろ性質が悪いと思います」
即答され、オスティンは喉の奥で小さく笑った。いちいち生意気な娘ではあるが、こうして言葉を交わしていても退屈はしない。
「もっとも、私は爵位そのものに大した思い入れはないがな。ベイカー家は元々商家だ。商売に都合がいいから得た看板に過ぎん。貴族院に通ったのも顔を売るためだ」
「そんな学生生活でお友達はいたんですか? 女生徒からは怖がって遠巻きにされていたりして」
「失礼なやつだな。私にも友人のひとりやふたりいたさ。親しくしていた令嬢もな」
「まあ、どんな御方だったのでしょう」
妙に楽しそうに身を乗り出してくるあたり、こういう話には年相応に興味があるらしい。
「クレアという女性で、今は公爵夫人になっている」
「……公爵夫人様、ですか」
思い返せば、クレアは学生時代から優しく、どこか放っておけない危うさのある女性だった。
そんな彼女は周囲から成り上がり者と嘲られていたオスティンにも態度を変えず、陰口を耳にするたび慰めてくれた。
『あなたがどんな家の出だって、わたくしは気にしないわ。皆はあなたのことを誤解しているけれど、本当はとても優しくて誰よりも頼りになる人だって……わたくしだけは知っているもの』
あの言葉に何度救われたことか。
卒業後、彼女は公爵家へ嫁いだが交流は途絶えず、今でも折に触れて手紙を寄越してくる。
「今でも仲が良いんですね」
「ああ。昔から困ったことがあると私を頼るんだ」
どこか誇らしげにそう答えると、マヨイはほんの少しだけ眉を寄せた。それまで楽しげだった表情に薄い影が差す。
「……困ったことがあると、ですか?」
「ああ。それがどうした?」
「いいえ。随分と男爵様を信頼していらっしゃるんですね」
言葉だけを聞けば感心しているようなのに、どうにも機嫌が悪そうだ。
はたして何が気に入らないのやら。オスティンが首を傾げていると、マヨイはふと思いついたように尋ねてきた。
「その公爵夫人様、お子さんはいらっしゃるんですか?」
「ああ。君と同じくらいの年の娘がいてな。今は王太子殿下の婚約者に選ばれている」
「王太子殿下の? それは……ずいぶんとすごい方なんですね」
「家柄も本人の資質も申し分ない。幼い頃から王太子妃となるための教育を受けているそうだから、将来はこの国で最も高貴な女性の一人になるだろう」
そう話しながら、何度も手紙で聞かされてきたクレアの言葉を思い出す。
『あの子は本当に立派なのよ。でもね、少し可愛げがなくて心配になるの』
『皆から未来の王太子妃と呼ばれて、ずっと気を張っているの。無理に王太子妃にならなくてもいいんじゃないかしら。見ているだけのわたくしが辛いわ』
「クレアも娘が重責を背負うことに思うところがあるのだろうな。娘想いの、立派な人だ」
「公爵令嬢ご本人は、王太子妃になることを嫌がっているんですか?」
「いや、むしろ真面目に務めているらしい。だからこそ無理をしているのではないかと、母親としては心配なのだろう」
「……公爵夫人って、男爵様にはずいぶん何でもお話しになるんですね。旦那様にはお話になれないような内容も」
その含みのある問いに、オスティンの眉が上がる。
「夫婦だからといって何でも話せるとは限らんだろう。昔から知っている相手だからこそ、話しやすいこともある」
「そういうものなんですね」
嫌味を言われたわけでも、何かを咎められたわけでもない。
それなのに妙に引っかかりを覚えて、オスティンはむきになったように言葉を重ねていた。
「それに、クレアは昔から何をしてほしいと自分から頼むような人ではなかったからな。こちらで察してやらなければならんこともある」
「あれ、おかしいですね。男爵様、遠回しな物言いは嫌いなんじゃありませんでしたっけ?」
「何?」
「この前、ちょっと偉そうにそう仰っていたじゃありませんか」
言われて、オスティンは一瞬言葉に詰まった。
「……それとこれとは話が違う。クレアは昔から、自分から助けを求めるような女ではない」
「では、男爵様が察してあげるんですか?」
「当然だ。友人が困っていると分かっているんだ。いちいち頼まれるまで待つなど、無能のすることであろう」
マヨイはそれ以上追及しなかったが、何やら得心がいったように何度か小さく頷いた。
頼まれずとも力になるくらい、友人なら当然のことだ。
そう思いながらクレアとその娘のことを考えているうち、オスティンの視線は自然と向かいに座るマヨイへ向かった。
今は痩せっぽちの田舎娘にしか見えないが、顔立ちは悪くない。薄桃色の髪もきちんと手入れをすれば目を惹くだろうし、何より物怖じしない性格と人の懐へ入り込む愛嬌がある。
やはり自分の養女として教育を施し、いずれ貴族院へ通わせれば——。
「……男爵様?」
視線に気づいたマヨイが怪訝そうにこちらを見た。
「どうかしましたか? 何か企んでいる顔をしてらっしゃいますよ」
「人聞きの悪いことを言うな。少し考え事をしていただけだ」
「私を見ながら?」
勘の鋭い娘である。オスティンは少し迷ったものの、特段隠すようなことでもないと思い直した。
「仮の話だ。もし君が私の養女となって貴族院へ通うようになれば、王太子殿下と知り合う機会もあるだろう。君のその性格なら、案外気に入られるかもしれんなと思ってな」
マヨイは筆を置き、じっとオスティンの話に耳を傾けている。
「……それで、王太子殿下が私を気に入ったら?」
「そこから先は殿下次第だが……もしかしたら今の婚約を見直すきっかけにはなるかもしれんな」
「まさか、私が王太子妃になれるかもしれないと?」
「フッ、それは限りなく可能性の低い話ではあるがな。だがもしもそうなれば、少なくとも君にとって悪い話ではないだろう」
平民出身の男爵令嬢が王太子妃に選ばれるなど、まさに夢物語であるが——この娘であればそれも不可能ではないかもしれないと、そう思わせる不思議な魅力がある。
「男爵様らしいお考えですね。ひょっとして、公爵夫人は男爵様にそんなお願いをしていたんですか?」
あまりにも何気ない調子で問い掛けられ、茶を飲んでいたオスティンの手が止まった。
「……何のことだ? クレアのことは今は関係ないだろう」
「娘の婚約をどうにかしてほしいとか、別の道を用意してほしいとか。そういうお願いをされたんでしょう?」
「いや。そこまで具体的なことを頼まれたことはない」
「ふぅん」
マヨイはそれだけ返すと、また手を動かし始める。
それきり何も言わないものだから、かえってオスティンの方が落ち着かなくなった。
「何だその顔は。言いたいことがあるならはっきり言え」
「いえ。なんでもありませんよ」
妙に納得したような顔をしているものだから余計に腹が立つ。言い返してやろうとしたものの、マヨイは片付けに入っていた。
結局オスティンもそれ以上は何も言わず、カップに残された茶を一息に飲み干した。
その夜、なかなか寝つけずにいたオスティンは眠ることを諦め、枕元へ置いていた荷物へ手を伸ばした。
旅の間にも何度か読み返したクレアからの手紙がその中に仕舞われている。
『ごめんなさい。こんなことばかりあなたに聞かせてしまって。あなたにはつい弱音を吐いてしまうの』
これまでなら何度読んでも悪い気はしなかった。
公爵夫人となった今でも昔と変わらず自分を頼り、誰にも言えない弱音を聞かせてくれる。そのことを、とうの昔に諦めた想いの代わりに残されたささやかな特権のように思っていた。
だから彼女が困っていると聞けば自分に何ができるかを考えてきた。
それも当然のことだと思っていたし、頼まれるより先に彼女の望みを察してやれることを、どこか誇らしくすら思っていた。
——なるほど。あの娘が妙に納得した顔をしていたわけだ。
「……まさかあんな子どもに見透かされるとはな」
オスティンはしばらく手紙を眺めたあと、畳んで荷物の中へ捻じ込んだ。
そして乱暴に毛布を引き上げると、今度こそ眠るために目を閉じた。
翌朝、いつもより少し早く目を覚ましたオスティンは、世話になった礼に朝食くらい作ってやろうと思い立った。
料理などまともにしたことはなかったが、棚にあった麦を鍋へ入れて水で煮る程度ならわざわざ人から教わるほどのことでもないだろう。
商会を三つ束ね、何十人もの使用人を抱え、領地経営までこなしている。
麦を煮ることがそれらより難しいはずがない。
そう結論づけたことがそもそもの間違いであったようで——。
「……男爵様。こちらは朝食として認識してよろしいのでしょうか」
起き出してきたマヨイは、鍋の底にこびりついた黒い塊を前にしてしばらく沈黙した末、何とも遠慮がちな声で尋ねてきた。
「それ以上何も言うな。失敗したことくらい私にだって分かっている」
「いえ。王都では麦を炭になるまで焼くのが流行しているのかと思いまして。田舎者は都会の食文化に疎いものですから」
「朝から結構な嫌味を吐いてくれるではないか。私がせっかく君のために作ってやろうとしたのだぞ」
「私のためだったんですか?」
マヨイは目を丸くしたあと、改めて鍋の中を覗き込んだ。
「それはありがとうございます。ここは健気にぜんぶ食べて『美味しい!』って言う場面なんでしょうけれど……」
「そんなことはしなくていい。余計に腹が立つ。さては君、私を馬鹿にしているな?」
「だって昨日まで偉そうに私の将来を語っていた方が、麦一つまともに煮られないんですよ。これで笑うなという方が——」
どうやら堪える気もなくなったらしい。
肩を震わせていたマヨイはとうとう吹き出し、腹を抱えるようにして笑い始めた。
「ふふっ……あははは! 駄目、やっぱ無理。こんなに真っ黒になることってあります?」
そこまで言われては、さすがのオスティンも言い返す言葉がなかった。
黒く焦げついた鍋を睨んでいるうちに自分でも馬鹿らしくなってくる。
やがて小さく息を漏らすと、それを見たマヨイがさらに楽しそうに笑った。
——そうか。
目の前にいるのは炭になった麦を見て遠慮なく自分を笑う、ひどく生意気な八歳児なのか。
そう思うと、オスティンもつられるように笑った。
昼を過ぎた頃、馬車の修理が終わったとの知らせが届いた。明日の朝まで待つ必要もなく、今から出発すれば日が暮れる頃には麓の町へ辿り着けるらしい。
御者の説明を受けたオスティンが窓の外へ目を向けると、マヨイがいつものように薪を割っていた。
自分が去れば、この小屋にはまたあの娘一人だけが残る。
怪我をしても誰にも頼らず、村人たちに遠巻きにされながら、それでも「ひとりでも困らない」と嘯くのだろう。
やはり、どうにも気に入らない。
「……マヨイ。やはり、私と来い」
外へ出て声を掛けると、手斧を振り上げかけていたマヨイの手が止まった。
「また養女のお話ですか? 本当に諦めが悪い人ですね」
「ああ。ただし、昨日までとは少し話が違う」
オスティンは杖に身体を預けながら、改めて少女を見る。
「貴族院へ行きたくなければ行かなくていい。王太子殿下と知り合う必要もないし、クレアの娘の事情も君には関係のないことだ。勉強がしたいなら教師をつけるし、森へ入りたいなら私の領地にも狩りができる場所くらいある。君が何をしたいのかは、王都へ来てから自分で考えればいい」
「……ずいぶん条件が変わりましたね」
「考え直しただけだ。私にもその程度の柔軟性はある」
じっと見つめられ、オスティンは少しだけ居心地の悪さを覚える。
しかし、ここで先に目を逸らしてやるのも癪だった。
「もちろん男爵家の娘になる以上、最低限の教育は受けてもらう。好き勝手に振る舞っていいという意味ではないぞ」
「……私を連れていっても、何の得にもならないかもしれませんよ?」
「それならそれで構わん」
口をついて出た言葉は、自分でも意外なものだった。
「何の得にもならない娘を一人育てるくらい、今の私にはどうということもない。たまには採算の取れないことをするのも悪くないだろう」
「それだと、王太子妃になれないかもしれませんよ?」
「そんなことはどうでもいい。クレアが心配しているからといって、娘本人まで同じことを望んでいるとは限らん」
そう返すと、マヨイはまたしばらく黙ったままオスティンを見つめていた。
いつものように軽口を返してくると思っていたのに、薄桃色の瞳が僅かに揺れたのが見えた。
「……本当に、私を連れていきたいんですか? お役に立てないかもしれないのに?」
「ああ。理由を挙げろと言われればいくらでも並べてやるが、結局のところ一番気に入らないのは、君がここへ一人で残ることらしい。だから……つべこべ言わずに一緒に来い」
マヨイも今度ばかりは笑わなかった。手斧の柄を両手で握ったまま俯き、何かを飲み込むように小さく息を吐く。
「……もう少しだけ、考えてもいいですか?」
「ああ。ただし、あまり長く待たせるな。私は気が長い方ではない」
「そういうところですよ」
「何がだ」
ようやくいつもの調子で返され、オスティンは僅かに口元を緩めた。
マヨイは返事の代わりに手斧を振り上げる。
乾いた快音とともに薪が真っ二つに割れ、透き通るような青空へ向かって小さな木屑が舞い上がった。
*
——マヨイが『ミア』という名を持っていた一度目の人生でも、同じ男がこの村を訪れた。
その時は神隠しになど遭っておらず、ミアは生まれてからずっと両親と三人でこの村で暮らしていた。
ただ、楽しかった思い出はあまりない。両親が村に古くから伝わる掟を破ったことで一家は村人たちから疎まれていたからだ。
井戸を使えば露骨に顔を背けられ、祭りの日になっても家に声が掛かることはない。道端で同じ年頃の子どもと目が合って足を止めても、その母親がすぐに手を引いて連れていってしまう。
幼いミアには両親がいったい何をしたのかよく分からなかった。
ただ、父と母が嫌われていること。そしてその娘であるというだけで自分も同じように嫌われていることだけは分かっていた。
それでも両親がいるうちはよかった。家へ帰れば母がいて、食事の席には父がいた。三人だけでも家族として暮らしている間は、村の人間に好かれなくとも寂しさを紛らわせることができた。
けれど謎の奇病で両親が相次いで亡くなると、その小さな家には本当にミア一人だけが残された。遠い親類も、近所の大人も引き取ろうとはしなかった。
今のマヨイならば一人でもどうにか暮らしていけるだろう。
けれど一度目のミアはそんな器用な子どもではなかった。
字など読むことも書くこともできなかったし、計算も少し複雑になれば指を折らなければ分からない。まともな礼儀作法など知るはずもなく、食べられるものと食べられない茸を見分ける方がよほど得意だった。
何よりも、一度目のミアはごく普通の子どもだった。
一人で食べる食事は味気なかったし、日が暮れてからの家はひどく広く感じた。朝になって目を覚ましても誰もおらず、夕方に家路についても出迎える声はない生活が当たり前だった。
誰かと一緒に食卓を囲みたかった。
帰ってきた時に、「おかえり」と言ってくれる人が欲しかった。
そんな頃だった。
『私の娘にならないか』
村の近くで馬車の事故に遭い、村長の家で療養していた男爵がミアを見かけてそう手を差し伸べてきた。
『どうして、私を?』
『ちょうど養女を迎えてもいいと思っていたところでな。それに、高貴なる者の責務というものもある』
当時の王都ではノブレス・オブリージュという思想が流行していたらしい。貴族たちはこぞって慈善活動に精を出し、孤児を引き取る者も珍しくなかった。
オスティンにもそんな思惑があったのかもしれないが、一度目のミアにはどうでもよいことだった。その手を取らない理由などなかったのだから。
王都での暮らしは何もかもが初めてで、何もかもが輝いていた。
毎日決まった時間になれば温かな食事が出てきて、冬になっても指先をひび割れさせながら薪を拾いに行く必要はない。夜になれば広い屋敷のどこかに必ず人の気配があり、廊下を歩けば使用人たちが声を掛けてくれる。
けれど何より嬉しかったのは、そんな立派な屋敷でも綺麗な服でもない。
『おかえり、ミア』
ある日、教師との授業を終えて居間へ戻った時、書類へ目を通していたオスティンが何気なくそう言った。
顔を上げて笑ったわけでもなければ、両手を広げて迎えてくれたわけでもない。ただ書類から目を離すこともなく、そこに帰ってくることが当然であるかのように口にしただけだ。
それでもミアは、しばらく扉の前から動けなかった。
『……何をしている。いつまでも突っ立っていないで入りなさい』
喉の奥が詰まって上手く声が出せなかった。
それでもどうしても言いたくなって、ミアは小さく息を吸った。
『ただいま、お父様』
オスティンはようやく書類から顔を上げ、少しだけ怪訝そうに眉を寄せた。
『ああ。だから、いつまでそこにいるつもりだ』
オスティンにとってはなんでもない出来事だったはずだ。
けれどミアは、その日のことをずっと覚えていた。
もっとも、父親となったオスティンは決して甘い男ではなかった。
『ミア。その紙を貸してみろ。……何だ、この字は。伯爵家へ礼を伝えるどころか相手に暗号解読をさせる気か?』
『この前より綺麗になりましたもん』
『以前が酷すぎただけだ。ほら、最初から書き直せ。泣きそうな顔をしても駄目だからな。あと「もん」はつけるな、「もん」は』
礼の角度が悪ければ何度でもやり直させられ、食事中に肘をつけば容赦なく指先を叩かれる。
教師から覚えが悪いと言われた日は悔しくて、皆が寝静まってからも机に齧りついた。
ミアは賢くなりたかった。綺麗な字を書けるようになりたかったし、どこへ連れていかれても恥ずかしくない礼儀を身につけたかった。
そうすれば、オスティンが自分を拾ったことを後悔しないと思ったから。
今は娘と呼んでもらえているけれど、血が繋がっているわけではない。何もできない田舎娘のままでいれば、いつか「やはり間違いだった」と捨てられるかもしれない。
口に出したことは一度もなかったが、そんな小さな恐怖がいつも胸の奥にあった。
だからミアは頑張った。オスティンから叱責されるたびに期待されている証拠なのだと思って、必死に応えようとした。
ある日、父への感謝をつづった手紙を初めて教師に褒められた。
嬉しくて堪らなくなって、その紙を握りしめたままオスティンの執務室へ駆け込んだ。
『お父様、見てください! 先生が初めて褒めてくださったんですよ!』
『廊下を走るな。それと、令嬢がそんな勢いで扉を開けるものでもない』
『それはあとで気をつけますから。ほら、見てください!』
『まったく……』
呆れながらも受け取ったオスティンは、紙へ目を走らせたあと、いつものように鼻を鳴らした。
『……まあ、これまでよりは人間が書いたものらしくなったな。これなら相手も読めるだろう』
『それは、褒めてくれているんです?』
『十分褒めている。これ以上を望むな。ほら、さっさと次の授業へ行ってこい。時間は待ってはくれないぞ』
結局それだけ言って追い出された。せっかく自分なりに心を込めて書いたのにと、当時のミアは頬を膨らませたものだ。
けれど数年後、探し物をしていた時に、その紙が父の机の引き出しに丁寧に仕舞われているのを見つけた。
もしかしたら、仕舞ったことさえ忘れていただけなのかもしれない。それでもミアは嬉しかった。
——ああ、この人は口ではあんなことを言いながら、ちゃんと自分のことを見てくれているんだ。
それを知ってから、父のことがますます好きになった。
やがて年月が流れ、ミアは父の勧めに従い貴族院へ入学した。
ただ努力はしたものの、生まれながらの貴族令嬢のようには最後まで振る舞えなかった。
作法はすべて後から死に物狂いで覚えた付け焼き刃だし、油断をすれば田舎育ちの癖が顔を出す。難しい話が続けば表情にも出たし、美味しい菓子を前にして「まあ素敵ですわ」と澄ました顔をするよりも素直に目を輝かせてしまった。
けれど、そんなところを面白がる者もいた。
その一人が王太子だった。
『君と話していると気が楽だ』
最初にそう言われた時、ミアは何と返せばいいのか分からず目を瞬かせた。
『皆、私が何か言うたびに正解を探すような顔をする。君は違うだろう。この前など、私の話より目の前の菓子に夢中だった』
『だって、あれは本当に美味しかったんですもの』
『ほら、そういうところだ』
笑われても嫌な気はしなかった。
相手が王太子であることは忘れなかったが、話す回数が増えるにつれて過度に緊張することもなくなり、いつしか茶会へ呼ばれれば素直に嬉しいと思うようになった。
そのことをオスティンへ報告すると、彼も満足そうだった。
『殿下が君を気に掛けているなら、その縁は大切にしろ。人の懐へ入り込むのは君の長所だ。私には真似できん』
『お父様は最初から人の懐に入る気がないだけでしょう?』
『そうだな。私に入ってほしければ、最初から扉を開いたまま膝をついて待っているべきだ』
そんな父の言葉に笑いながらもミアは嬉しかった。
自分が上手くやれば父が喜んでくれる。それは幼い頃からずっと続く、何よりも分かりやすい指針だった。
やがて王太子から個人的な贈り物が届くようになり、茶会へ招かれる回数も増えた。
舞踏会で婚約者である公爵令嬢より先に声を掛けられた時には、さすがに胸が高鳴った。
——王太子から特別に扱われている。
それだけでも十代の少女には十分すぎるほど嬉しかったのに、その話をするたびオスティンまで機嫌を良くするのだからなおさらだ。
その頃からオスティンが夕食の席に姿を見せない日も増えていったが、仕事が忙しいのだと言われればミアは素直に頷いた。父が何のために夜遅くまで王都を駆け回っているのかなんて、尋ねようとも思わなかった。
父と夕食を囲まない日が続いても寂しいと思わなくなった程度には、ミアも浮かれていたのだと思う。
王太子にはすでに婚約者がいることも、その令嬢の自分を見る目が少しずつ険しくなっていることも、気づかなかったわけではない。
それでも父が止めないのだから大丈夫なのだと思っていた。
——それなのに、断罪はあまりにも突然だった。
ある舞踏会の夜、それまで王太子の振る舞いにもミアの存在にも黙って耐えていた公爵令嬢が、初めて大勢の前で声を上げたのだ。
王太子からミアへ送られた手紙の数々と、婚約者には贈られていない宝飾品。
そして何より決定打となったのは、王太子と公爵令嬢の婚約を見直すよう、オスティンが裏で複数の貴族へ働きかけていた記録だった。
会場がざわめきに包まれる中、何が起きているのかミアにはすぐに理解できなかった。
ただ、つい先ほどまで自分に笑いかけていた人々が一斉に距離を取り、王太子の顔から血の気が引いていくのを見て、ようやく何か取り返しのつかないことが起きたのだと気づいた。
「お父様……?」
助けを求めるように振り返る。
いつだって正しい答えを知っていた父なら、この状況だってどうにかしてくれると思ったから。
けれど、そこにいたオスティンは何も言わない。
ただ青ざめた顔で公爵令嬢が並べた証拠を見つめていた。
そこから先は、あらかじめ筋書きが決まっていたかのように事が進んでいった。
王太子は廃太子となり、オスティンは王家と公爵家の婚姻へ意図的に干渉した罪を問われた。
そしてミアもまた、婚約者の存在を知りながら王太子へ近づき、その寵愛を利用して公爵令嬢を貶めた悪女として父と共に牢へ送られた。
自分はそんなつもりではなかったと何度も訴えた。父に言われたから殿下との縁を大切にしただけだ。贈り物をねだったこともなければ、公爵令嬢を追い出してほしいと願ったことだって一度もない。
けれど、何を訴えても言い逃れだと笑い飛ばされるばかりだった。状況が覆るどころか反省の色がないとされ、冷たい石造りの牢獄でミアとオスティンは同じ檻へ入れられた。
舞踏会が始まる前までは立ち居振る舞いや挨拶の順序まで細々と言い含められていたのに。今のオスティンは壁に背を預けたまま、ほとんど口を利こうとはしない。
聞きたいことはいくらでもあった。
王太子妃になりたいなんて願っていなかったのに、どうして王太子と公爵令嬢の婚約を壊そうとしたのか。
自分を王太子へ近づけたのも、父自身の立身のためだったのか。
自分は——父にとってはただの駒に過ぎなかったのか。
けれどオスティンの横顔はあまりにも固く、幼い頃から何度も見てきた「今は話しかけるな」という顔をしていた。
やがて牢番が現れ、鉄格子の向こうからふたつの杯を差し入れた。
「王家より最後の慈悲だ。公爵令嬢の嘆願を容れ、どちらか一人が毒杯を飲み干せば、もう一人は罪を赦すとの沙汰が下った」
何を言われたのかすぐには理解できなかった。
ただほんの一瞬だけ、ミアは隣にいる父を見た。
「……赦された者は、どうなる」
オスティンが低く尋ねると、牢番は妙に楽しそうに口元を歪めた。
「さあな。あとは好きに生きればいいんじゃないか?」
通路の暗がりから、誰かの忍び笑いが聞こえた。
オスティンはそれ以上何も問わず、二つ並んだ杯のうち一つを手に取ると——迷うことなくミアの前へ差し出した。
「飲め、ミア」
いつものように、宿題をしろと命じるような口調。一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思ったほどだった。
鼻をつくような甘い匂いが、冷えた牢の中へゆっくりと広がっていく。
ミアの指先が震えた。
「……嫌です」
「飲め。今すぐだ」
「嫌……嫌です、お父様。私、死にたくない……!」
首を振りながら後ずさると、背中が冷たい石壁にぶつかった。
逃げる場所などどこにもない。オスティンは表情を変えず、ただ杯を差し出したままこちらを見ている。
胸の奥でそれまで押し込めていたものが、一気に弾けた。
「私、お父様の言うことをずっと聞いてきたじゃない! 字だって綺麗に書けるようになったし、礼儀作法だって覚えた! 貴族院にも行ったし、殿下とも仲良くしたでしょう?! お父様がそうしろって言うから、私、ずっと頑張ったのに!」
声が震える。涙で父の顔が滲んだ。
「なのに、どうして……どうしてこんなことになったの? 私のこと、最初から使うために拾ったの?!」
オスティンの瞳が揺れる。
けれど彼はミアが望む言葉を最後までかけてはくれなかった。
「……飲め」
「嫌!」
差し出された杯を払い落とそうとした腕を、オスティンが掴んだ。
「嫌っ、離して! お父様、お願いだから……!」
「……すまない」
絞り出すような声。何に対する謝罪なのかを考える暇もなく、次の瞬間には顎を掴まれ、無理やり顔を上げさせられていた。
冷たい杯が唇へ押しつけられる。
必死に顔を背けても逃げられず、甘ったるい液体が口の中へ流れ込んできた。
「や……っ」
「飲み込め、ミア」
鼻を塞がれ、息ができなくなる。
吐き出そうとしてもオスティンは許してくれない。
「これで最後だから……頼むから、私の言うことを聞いてくれ」
いつもの父のものではない、ひどく切実な声。
とうとう耐えきれずに喉が動く。
すぐに喉から胸へ焼けるような痛みが広がり、身体から力が抜けていく。
嫌だ。
嫌だ。
死にたくない。
私は何も悪いことなんてしていない。
父の言うとおりにしただけなのに。
父に褒めてもらいたくて、父の娘でいたくて、ずっと頑張ってきただけなのに。
「……すまない」
崩れ落ちかけた身体を、オスティンの腕が抱き留めた。
意識がもうろうとする中で、強く、痛いほどに抱きしめられる。
「すまない、ミア。怖かったな……全部、私が間違えたせいだ……」
耳元で声が震えている。頬に何か温かなものが落ちてきて、ミアはぼんやりと目を開ける。
父が泣いている。
いつも偉そうで、何でも知っているような顔をして、ミアが泣けば「泣いても何も解決しない」と呆れていた男が、子どものように泣いていた。
耳鳴りが酷い。
身体の震えが止まらない。
ひどく寒かったのに。
抱きしめる腕だけが、まだ温かった。
どうして。
どうして私を利用したの。
どうして何も教えてくれなかったの。
どうして私に毒を飲ませるの。
——どうして、そんなに泣くの。
答えを聞きたかった。
けれどもう、声を出すこともできなくて。
最後に感じたのは、幼い頃から何度も頭を撫でてくれた父の手の感触だった。
そうして何一つ分からないまま、ミアの一度目の人生はオスティンの腕の中で終わった。
胸に残ったのは、深い未練と恨み。
——それでも最後まで消えてはくれなかった、父への愛情。
次に生まれたのは、日本という国だった。
二度目の人生で与えられた名前は、真宵。
一度目の人生とは何もかもが違った。
寒い夜に薪が足りなくなる心配もなければ、家柄ひとつで誰かに避けられることもない。進む道は自分で決めていいのだと教えられ、失敗すれば叱られはしたもののそれだけで居場所を失うようなこともなかった。
だから真宵は、その人生を普通に生きた。
ただ時折、自分のものとは思えない記憶が胸の奥へ浮かぶことがあった。
薄桃色の髪をした少女。
広い屋敷と、冷たい牢獄。
そして最後に自分を抱きしめながら泣いていた男。
夢にしては妙に鮮明で、けれど本当に自分が経験したことだと言い切るにはあまりにも現実離れしている。
幼い頃には両親へ話したこともあったが、大きくなるにつれて口にしなくなった。
前世の記憶があるなどと言ったところで困らせるだけだ。
自分でもいつしか子どもの頃に作り上げた空想のお話だと思うようになっていた。
そんな記憶が再び鮮明に蘇ったのは、大人になってから偶然読んだ、ある小説がきっかけだった。
主人公は、幼い頃から王太子の婚約者として育てられてきた公爵令嬢。
立派な王太子妃となるため自分を律し続けてきた彼女の前に、ある日一人の男爵令嬢が現れる。
田舎育ちで身分も低い。けれど明るく飾らない性格の少女を王太子は気に入り、やがて婚約者を差し置いて特別扱いするようになっていく。
そこまで読んだところで、真宵の指が止まった。
男爵令嬢の名前は、ミア。
養父の名は——オスティン・ベイカー。
続きを読み進めていくうちに、頭の片隅にぼんやりと残っていた記憶が輪郭を取り戻していく。
「……これ、私だ」
美しく聡明な公爵令嬢はひとしきりの復讐を果たしたのち、自分を大切にしなかった人々を捨て、自分だけを選んでくれた相手の元へ行く。見事なハッピーエンドだ。
長い夢に過ぎないと思っていた記憶が、そこには物語として存在していた。
『ミアざまあ!』
『毒杯だけなんて優しすぎる』
『ヒロインを苦しめたんだから当然の報い』
——どうやらあの世界では、ヒロイン様の機嫌を損ねることは国家反逆罪より重い罪らしい。
ミアがどうしてああなったのかなど、この物語ではただの舞台装置に過ぎない。
そう考えると妙に可笑しくなって、真宵は小さく笑った。
もう終わった人生だ。今の自分には両親もいれば仕事もある。それが本当に前世だったのか、ただ小説と昔の夢を混同しているだけなのか。今となってはどちらでもいい。
今さら物語の中の人間へ文句を言う気にもなれなくて、残っていた感想にざっと目を通したらそのページを閉じるつもりだった。
『もしオスティンが毒杯を飲んでいたら、ミアは助かったんでしょうか?』
深い意味もなく、その下にある作者の返信に目を移す。
『一応処刑は免れます! でもその後は兵士たちの慰み者になる予定でした^^ 男爵がそれを知っていたかは皆様のご想像にお任せします~』
——あまりにも軽い文面に、眩暈がするようだった。
『嫌……嫌です、お父様。私、死にたくない……!』
脳裏に、あの牢獄が蘇る。
泣いて拒む自分。
何度嫌だと言っても杯を下ろさなかった父。
「……お父様」
口から零れた声は、自分でも驚くほど幼かった。
父は保身のために自分を殺そうとしたわけではなかったのかもしれない。
最後の最後まで、父なりの方法で自分を守ろうとしていたのだとしたら。
確信はないけれども、胸の奥に刺さったままだった棘が一つ抜けた気がした。
でも、それならどうして。
なぜ王太子と公爵令嬢の婚約を壊そうとしたのか。
小説を最初から読み返してみても、その答えだけはどこにもなかった。
当然と言えば当然だ。この物語において、オスティン・ベイカーは娘を利用して王家へ取り入ろうとした悪役に過ぎない。彼が何を思ってミアを育てたのかも、どうして最後に泣いたのかも、公爵令嬢を主人公とした物語には必要のないものだ。
やがて連載版が始まったものの、すぐに更新は途絶えてしまった。
それからもごく普通に生きた真宵は、長い年月の果てにある日ふつりと意識を手放した。
そして二度目の人生を終えて再び目を覚ました時、真宵はあの世界へ戻っていた。
三歳の頃に神隠しに遭ったミアとして、三年後の村へ戻ってきたのだ。
日本で何十年も生きたはずなのに、こちらでは三年しか経っていないらしい。
何がどうなっているのか考えても分からなかったが、一度目に牢獄で死んだ記憶は鮮明に残っていた。
『本当にミア……なのか?』
恐る恐る尋ねる村人に、少女は首を横へ振った。
『いいえ。ミアは死にました。私は……マヨイです』
当然ながら村人には気味悪がられた。それでもマヨイは頑なに村から出て行こうとはしなかった。
もしも一度目と同じなら、二年後にオスティンがこの村の近くで馬車の事故に遭うと分かっていたから。
新たな人生を切り開くことよりも、もう一度あの人に会いたかった。
——そして、こうして再び出会ってみれば。
長年考えても分からなかった答えは、呆れるほど単純だった。
完璧な人だと思っていた父はただ、昔好きだった女に頼られたことが嬉しくて勝手に張り切った、とんでもない大馬鹿者なだけだった。
父は娘を利用した。
父は娘を愛していた。
ずっと相反するものだと思っていた二つの答えは、オスティンの中では最初から並んで存在していた。
「……マヨイ。いつまで考えている」
聞き慣れた尊大な声に顔を上げると、修理を終えた馬車の前でオスティンが腕を組んでいた。
すでに荷物は積み終えているらしい。御者は少し離れたところで馬具を確かめながら、こちらの会話を聞いていないふりをしている。
「私は今日中に王都へ向かいたいんだが。まさか日が暮れるまで悩むつもりではないだろうな」
「女の子の人生が決まる大事な場面なんですから、もう少しくらい待ってくださってもいいでしょう?」
「昨日まで十分待った。私は気が長い方ではないと何度言えば分かる」
相変わらずである。娘になってほしいと何日も口説いておきながら、最後の返事を待つことすらできないらしい。
一度目の人生ではそんなところさえ頼もしく見えていた。この人についていけば間違いない。この人の言うとおりにしていれば自分はきっと幸せになれると、そう信じて疑わなかったのだ。
今なら、それが間違いだったことも分かる。
オスティンは何でも知っているわけではないし、何でも正しく選べるわけでもない。料理をさせれば麦一つまともに煮ることもできず、好意を抱いていた女に少し頼られれば、自分だけが何とかしてやれると思い込む程度には間の抜けた男だと知った。
だから——。
「……それなら、一つだけ約束してください」
「内容による。聞きもしないうちから何でも約束するほど私は迂闊ではないぞ」
「分かってますってば。私はただ、男爵様が王都にいる日は夕食を一緒に食べたいだけです」
こんな望みは予想もしていなかったのか、オスティンは虚を突かれたように僅かに目を瞬かせた。
「……何を企んでいるんだ?」
「何も企んでいませんよ。人を勝手に王太子妃にしようとした男爵様と一緒にしないでください」
「簡単には約束できん。仕事で屋敷を空ける日くらいある」
「だから家にいる日だけでいいんです。私もそれくらいの分別はありますから」
思わず笑ってから、マヨイは少しだけ声を落とした。
「その日あったことも、私たちに関わることも。ぜんぶお話ししたいんです。男爵様はお忙しいからそんな時間は夕飯時くらいしか取れないでしょう?」
オスティンは怪訝そうにこちらを見る。
「……今さら子どもみたいなことを言うのだな」
「だって子どもですもん。まだ八歳になったばかりの」
拗ねたように頬を膨らませてみせる。オスティンはじっとマヨイを見つめた後に、呆れたように肩の力を抜いた。
「分かった。王都にいる日は、できる限りそうしよう」
「できる限り?」
「絶対などと軽々しく約束する方が信用ならんだろう」
ふん、と腕を組んで偉そうに鼻を鳴らす姿は一度目のオスティンと何も変わらない。
けれどもう、それでいいのだと思えた。
「分かりました。では、これからもよろしくお願いしますね。……お父様」
オスティンの目が見開かれる。あまりにも分かりやすい反応に、マヨイは今度こそ笑ってしまう。
「……もう娘気取りとは。随分と切り替えが早いじゃないか」
「お嫌でしたか?」
「誰がそんなことを言った。勝手に人の気持ちを決めつけるな。……ほら、さっさと行くぞ」
ぶっきらぼうに言いながら顔を背けた。
けれど、横を向いたせいでかえって耳が僅かに赤くなっているのがよく見える。
それがなんだか嬉しくて。
オスティンが差し出した手をするりとすり抜けると、訝しげに眉を寄せる暇も与えずにその腕へ思い切り抱き着いた。
*
それから数年後。
王立貴族院に、新入生を迎える春が訪れた。
磨き上げられた講堂には色とりどりの正装に身を包んだ少年少女が集い、その視線は壇上に立つ一人の令嬢へと注がれている。
公爵家の一人娘にして、王太子の婚約者。
幼い頃からその立場に相応しい教育を受けてきた彼女は、新入生代表として一度も言葉に詰まることなく挨拶を終えると、割れんばかりの拍手に送られながら静かに壇上を降りた。
「素晴らしいご挨拶でしたわ。さすがは殿下の婚約者でいらっしゃいます」
真っ先に駆け寄った令嬢から賛辞を受け、公爵令嬢は美しい微笑を返した。
「ありがとう。それより、一つ尋ねてもよろしいかしら」
「もちろんですわ」
「ミア・ベイカーという令嬢は、入学していらっしゃらないの?」
尋ねられた令嬢はしばらく考えたものの、やがて申し訳なさそうに首を横へ振った。
「ミア・ベイカー……。存じ上げませんわ。ベイカーというと、少し前まで男爵家だった御家でしょうか?」
「少し前まで?」
「ええ。元々は商家から爵位を得た御家でしたが、少し前に当主が爵位と領地を王家へ返上なさったとか。王都のお屋敷や事業も整理して、国外へ移られたそうですわ」
「それは——随分と思い切ったことをなさったのね」
「商品を愛用していた母も残念がっておりました。今では海を越えた国で、かなり大きな商会を営んでいらっしゃるそうですよ。ですから、もしお嬢様がいらしたとしてもこの貴族院へ入学することはないのではないかと」
「……そうなの」
公爵令嬢はゆっくりと瞬きをした。
その表情には驚きこそあったものの、大きく落胆した様子はない。
「お知り合いだったのですか?」
「いいえ。まだ一度もお会いしたことはありませんの」
——少なくとも今世では、一度も。
王太子の隣へ現れ、自分が積み上げてきたものを何も知らない顔で奪っていった娘。
そんな存在が今回も現れるものと思っていたのに、どうやら当てが外れたらしい。
「せっかく、仲良くして差し上げようと思っていましたのに」
「まあ。それでしたら残念でしたわね」
「ええ。本当に」
いないのならば仕方ない。別に地の果てまで追いかけて対峙したい相手でもない。
それよりもっと大事な相手がいたはずだ。
たとえば、昔から自分を嫌った王太子とその取り巻き。
愚かな息子を正そうともしない国王夫妻に、何の役にも立たない父。
そして——。
「どうかなさいました?」
隣にいた令嬢から尋ねられ、公爵令嬢は我に返ったように微笑んだ。
「いいえ。何でもありませんわ」
そして春の陽射しが差し込む講堂を眺めながら、ひどく楽しそうに目を細める。
「ミア・ベイカーがいないのなら——今度はお母様に、少しお付き合いいただこうかと思っただけですの」
「公爵夫人に?」
「ええ。母娘ですもの。随分と私の将来を案じてくださったようですから。たまにはゆっくり、お話をしなくては」
何一つおかしなことは言っていない。
声は穏やかで、口元には貴族令嬢として非の打ち所のない微笑を浮かべている。
それなのに隣にいた令嬢は、なぜか背筋を撫でられたようなうすら寒さを覚えた。
*
一方、その頃。
王都から遥か海を越えた遠い国では、かつて男爵と呼ばれていた男が、新しく建てた商館の前で額に青筋を浮かべていた。
「だから何度言えば分かる! 商会の看板というものは、一目見て何を扱っているのか分かる方がいいんだ。意味の分からん洒落た名前をつけてどうする!」
「だからって『ベイカー総合交易商会』はあんまりでしょう! 固いし長いし、何より全然お洒落じゃありません!」
「商会に洒落っ気など必要ない! 信用が第一だ!」
「お父様はそうやって何でも実利だけで決めるから駄目なんですよ!」
「言わせておけばこの娘は……!」
商会の前に立て掛けられた真新しい看板を挟み、父と娘の言い争いは朝から一向に終わる気配がない。
少し離れた場所では、荷物を運び終えた従業員たちがすっかり慣れた様子で二人を見守っていた。
「今日も仲がよろしいのは結構なのですが……そろそろ夕飯の時間ですよ」
「なんだ、もうそんな時間か。腹をすかせたままでは建設的な意見が出るはずもない。続きは食事をしながらにするか」
「お父様はワインを開けたいだけですよね? 深酒は控えてくださいね。もう良い御年なんですから」
「今日くらいはいいだろう。だいたいそんなに年は食っていない」
「駄目ですよ。お父様にはずっと、長生きしてほしいんですから」
さすがのオスティンもこれには言葉を返せなかったようだ。
僅かに眉を寄せたまま黙り込む父を見て、マヨイはとうとう堪え切れずに吹き出した。
二人とも、遠い王都で新たに始まろうとしている物語など知る由もない。
そしてそれは知る必要のない物語であった。




