表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

Shutters

作者: 遠響
掲載日:2026/07/07

午前三時、東京、渋谷界隈。


—————————————————————


看板の微かな光が落ちる片隅で、僕はコーラの空き缶を置き、服についた埃を軽く払った。こだわりのカジュアルスーツの襟を正し、立ち上がる。


僕は深夜が好きだ。とりわけ、この時間が。 なぜなら、僕という存在を映し出すあらゆるものから、逃れられるから。


視界の先、一軒のコインランドリーだけが煌々と灯りを放っている。誰かが洗濯の終わりを待っているらしい。MP3プレーヤーのイヤホンを外すと、ドラムが回る機械音と、水が跳ねる音が混ざり合って鼓膜を揺らした。


「部屋で眠る人たちにとっては、ただのノイズかもしれないな」


独り言をこぼしながら、胸に下げた年代物のフィルムカメラを構え、シャッターを切る。 カシャッというアナログな音が響いた。僕は再びイヤホンを耳に押し込み、胸ポケットから手帳とペンを取り出す。


『七月十四日、三時二十二分、〇〇坂〇丁目。シャッター13。幽霊は僕一人だけのランドリー。』


また一つ、インスピレーションが落ちていた。 手帳を閉じ、昼間の喧騒の残骸が散らばるアスファルトを歩き出す。


午前三時を過ぎた時間が好きだ。ここには、異常なまでに明るい群衆も、縛られるべきルールも、現代の車の波も、僕を見る人間もいない。 まるで再生が止まったカセットテープのような街。寄り添ってくれるのは、ひどく古いカメラと、薄暗く瞬く街灯、決して眠らないネオンサイン、そして時折すれ違う、僕と同じように彷徨う幽霊みたいな数人だけ。


道の突き当たり。誰のためでもなく点滅を繰り返す信号機が目に飛び込んでくる。イヤホン越しに、横断歩道のメロディが割り込んできた。 横断歩道を渡り、路地裏へ。そこはまるでルールの外側だった。散乱する空き缶、壁一面のグラフィティ、そして、打ち捨てられたブラウン管テレビ。 路地の入り口で、その光景をフィルムに焼き付ける。


『七月十四日、三時三十分、〇〇台〇丁目。シャッター14。忘れ去られた片隅。』


そのテレビを軽く叩くと、ジジッと砂嵐の音を立てて、また完全な静寂に戻った。 僕はさらに路地を進む。


静寂の底から、微かな足音が響いてきた。誰かいる? 速くなったり遅くなったり、でも不思議なリズムを刻んでいる。まるで、踊っているような。 好奇心に引かれ、音の鳴る方へ歩を進めた。

角を曲がると、小さな公園があった。二つのブランコと、ベンチの前の小さな広場。 そこで、誰かが踊っていた。 僕は遠くから見つめた。


彼女はオーバーサイズのジャケットを羽織り、キャップを後ろ被りにして、ワイヤレスのヘッドホンをつけている。ベンチにはスマホらしきものが置かれ、その画面を見ながらステップの確認をしているようだった。


「今どきだな。でも、厄介な酔っ払いより、こういう着こなしのいい人を眺めるのも悪くない。自分の日常を記録しているのか……。まあ、僕自身が忌まわしいスマホの画面に記録されるわけじゃないし」


ふと、彼女の動きが止まった。スマホに駆け寄り、画面をスワイプすると、また元の位置に戻ってステップをやり直す。


「やっぱり、ダンスの動画でも撮っているんだろう」


そう思いながら、僕はカメラを構えた。この光景を残したくて。 だが、シャッターを切る直前で指が止まる。


「……一応、本人に許可を取った方がいいか」


僕は服の皺を伸ばし、イヤホンをポケットにねじ込むと、遠くから少しずつ彼女に近づいた。


夜の街には誰もいない。自分の存在を知らせるために、わざと足音を強くしたつもりだったが、五メートルほどの距離まで近づいても、彼女は僕に気づく気配がない。


「あの、すみません……」 恐る恐る、声をかけてみた。


「ああっ! ごめんなさい!」 彼女は少し驚いたようだったが、すぐに元気な笑顔を作った。こんな深夜にうろついている人間から話しかけられるとは、思ってもみなかったのだろう。


「こんばんは。遠くから、踊っているのが見えまして。もしよければ、遠目からその後ろ姿を一枚撮らせていただけませんか……?」


警戒されないよう、申し訳なさを滲ませながら、できるだけ丁寧な言葉を選んだ。カメラを掲げ、シャッターを切る仕草を見せる。


「今夜はこの辺りで写真を撮りながら、インスピレーションを探していまして。深夜に踊るあなたの姿が、どうしてもフィルムに残したくて」


「全然いいよ!」 彼女は僕の言い訳を遮るように言った。

「いっぱい撮ってください! 私も見たい。この辺でどんな写真撮ってるの? 見せてもらっていい? そのカメラ、初めて見た!」


矢継ぎ早の質問に、僕は苦笑いするしかなかった。 「この辺りではまだ数枚しか……。それに、これはフィルムカメラなので、現像しないと見られないんです。もしよければ、また後日……」


「じゃあ、現像できるまで待ってる!」 彼女は屈託のない、弾けるような笑顔で答えた。 でも、なんだろう。昼間の太陽とは違う、夜の闇にだけ許されたような、そんな色合いの笑顔だった。

僕はそう思いながら少し離れ、アングルを探した。 ファインダーの中で彼女が舞う。その一瞬の軌跡を、シャッターで切り取った。


『七月十四日、三時四十五分、〇〇公園。シャッター15。午前三時のダンス。』


手帳を胸にしまい、彼女の元へ足早に戻る。 「このフィルムを撮り終えたら、お見せしますね。撮らせてくれて、ありがとうございました」 僕は軽く会釈をした。


「はい! じゃあ、LINE交換しよう! 送ってくれるの待ってるね! できれば他の写真も見たいな!」 相変わらず元気な声。


でも、僕にはスマホがない。LINEなんてもってのほかだ。スマホどころか、最新の電子機器は一切持っていない。新しい時代の産物が嫌いだから。 昼間は分厚い遮光カーテンを閉め切った部屋に引きこもり、太陽の下の現代生活から逃げている。だからこそ、毎晩こうして出勤するかのように、この時間に現れるのだ。


「すみません、僕、LINEはやってなくて……というか、携帯電話を持っていないんです」 思考の海から浮かび上がり、僕はそう告げた。


「えっ……!?」 彼女は驚きのあまり、首にかけていたヘッドホンを落としそうになった。 「じゃ、じゃあ普段どうやって出かけてるの? ていうか、どうやって生活してるの……?」


「この手帳と、ポケットの切符やレシートで」 僕はポケットを裏返して見せた。


彼女は少し考え込んでから、言った。 「それじゃ……明日、またここで会いませんか? 私、自分の写真がすごく見たいから!」


「分かりました。約束します」


短い別れの挨拶を交わし、僕は再び道の突き当たりへと歩き出した。

—————————————————————


「変な人だったな……」

さっきのやり取りを思い返しながら、私はスマホの画面をタップした。


「今の時代にスマホを持ってないなんて。本当は私に写真を送りたくなかっただけじゃないの?……ううん、本当に持ってないのかも。あのカメラだって、今どきのものじゃなかったし」


手慣れた動作で動画アプリを開き、自分のプロフィール画面を見る。


『フォロワー:970』


「なんでまだ千人いかないのかな……もうっ! このダンス動画をアップしたら、いけるかな? 絶対いけるよね! あ、そうだ。あの人が撮ってくれた写真を添えたら、絶対バズるかも。よし、決めた! この数日で動画を完成させて、写真をもらおう! ……待って、スマホがないのにどうやって写真くれるの? まさか現像した写真を手渡し!? ま、まあいいや、きっとなんとかなるっしょ!」


スマホの時計が「4:00」を指した。


「よしよし、私もそろそろ帰らなきゃ。明日は授業のあとにバイトもあるし。あー、109に新しい服も見に行きたいな。うわ、お財布ピンチかも」 私はヘッドホンをつけ、音楽に身を任せながら、家路を急いで走り出した。


—————————————————————

たった6帖の狭い部屋に戻り、床に座り込む。ベッドはない。床には無数のフィルムケースが転がっているだけだ。 ユニットバスへ向かい、洗面台に並んだ現像用の薬品ボトルを避けながら、蛇口から出る冷たい水を顔に叩きつける。


顔を上げると、そこには黒いガムテープで完全に塞がれた鏡がある。 自分のすべてを見るのが嫌いだ。何かの記録に残されるのも嫌だ。自分の存在を実感できないから。 それなのに、深夜の景色や、そこで生きる人々の姿を記録するのは好きだ。フィルムという形で、彼らが生きた証を残したいと思う。


「人間って不思議だな。僕自身も含めて」 そんなことを考えながら、僕は床の上で眠りに落ちた。


『ここはどこだ?』 確認するように小さく呟く。目の前には見知らぬ通り。道の果てで、誰かの後ろ姿が踊っている。見覚えのあるステップ。彼女だろうか? 確かめようと足を踏み出そうとしたが、なぜか、糸で吊るされた操り人形のように、その場で足踏みすることしかできない。 どうしても前の景色が見たいわけじゃない。でも、この気持ちの悪い感覚から逃れたくて、走ろうともがく。 だめだ、動けない。どうして。無力感が、這い上がる影のように僕の全身を浸食していく。


だめだ……だめだ……僕は……。


ジリリリリリリ! 古いぜんまい式の目覚まし時計が鳴り響いた。


「……夢か」

重い瞼をこじ開け、時計の針を見る。 三時……三十分?


待て。昨日の約束を思い出し、僕は身なりを整える余裕もなく、昨日と同じスーツ姿のまま部屋を飛び出した。 「ここから走れば、十五分で着くかもしれない」


—————————————————————

スマホの時計を見る。「3:45」


「やっぱり、あの人もう来ないのかな。このパートの練習が終わったら帰ろう。あと二、三日あれば投稿できるかな? でも、写真がないとやっぱりパンチが足りないかも。絶好のチャンス、すっぽかされちゃったな」


ヘッドホンから流れるビートに合わせながら、私はそんなことを考えていた。


「あーもう、ちょっと休憩!」 疲れた体をベンチに投げ出す。


遠くから、人影が近づいてくるのが見えた。輪郭がはっきりするにつれ、あの赤いカジュアルスーツが見えた。 彼だ。まさか遅刻してくるなんて。


彼は息を切らして私の前に駆け寄ると、膝に手をつきながら言った。 「すみません……まさか寝過ごしてしまうとは……」


おかしい。こんな時まで敬語なんて。すごく緊張してるみたい。


「そんなに固くならないでよ! 私だってまだ帰ってないんだから」


「はい、分かりました……」


「絶対分かってないっしょ!」


私は思わず吹き出した。なんだか面白い人。


そう思っていると、彼が口を開いた。


「今日は寝坊してしまって、このフィルムを撮り切れませんでした……あと一、二日、待っていただけませんか……」 彼は本当に申し訳なさそうに言う。


「もともと私からお願いしたことじゃん! むしろ、またここに来てくれてありがとうだよ!」


彼は照れくさそうに頭を掻き、小さく笑った。 「とにかく今日の練習はもう終わり! ねぇ、キミが写真撮るところ、ついて行ってもいい?」 私は少し考えて、そう提案した。


「構いませんが……僕が撮るものは、退屈な風景ばかりですよ……?」


「深夜に退屈なものなんてないよ!」


私は彼の肩をポンと叩き、笑声を上げた。


—————————————————————


それから、僕と彼女は親しくなった。毎晩三時、僕はあの公園で彼女と会い、周辺の風景をフィルムに収める。彼女は公園で懸命にダンスの練習をした。そのステップは日を追うごとに滑らかになり、一つ一つの動きが完成に近づいていく。 そして僕の手帳は、彼女を写したシャッターの記録で埋め尽くされていった。


『八月三日、三時三十五分、〇〇公園。シャッター24。水たまりに反射する新しいステップ。』 『八月十日、三時四十分、〇〇公園。シャッター29。薄着のパーカーに着替えた彼女。馬鹿みたいに笑う。』


「ねえ、カメラマンさん」 今日、最後の通し練習を終えた彼女は、無防備にベンチへ倒れ込み、少し息を弾ませながら言った。


「私の動画、もうほとんど編集終わってるんだから。あとはキミが現像してくれる写真だけ。いったいいつになるの?」


「明日」

僕は彼女から三歩離れた場所に立ち、赤いスーツのポケットに両手を突っ込んだまま答えた。


「最後のフィルムを、今夜撮り終えるから」


「本当? 絶対すっぽかさないでよ!」


彼女は僕を見つめ、その瞳に微かな好奇心を揺らした。


「でも、ずっと聞きたかったんだけど……キミ、昼間は何してるの? 昼間のほうがずっと賑やかなのに」


僕は少し黙り込んだ。彼女の肩越しに、遠くで瞬くネオンを見つめる。


「昼間のすべては、明るすぎるんだ。モニター、行き交う車、群衆。誰もが記録され、誰もが誰かを記録している」 僕は静かに口を開いた。 「昼間の僕は、まるで露出オーバーになったネガフィルムみたいだ。何も残せない。午前三時……この深夜だけが、僕がこの世界を『見つめている』と実感できる時間なんだ」


彼女はいつものように笑い飛ばさず、首を傾げて、静かに僕の言葉に耳を傾けていた。 やがて、彼女はふいっと立ち上がり、僕の目の前まで来ると、その手首を掴んだ。


「じゃあ、写真をもらう日、私に付き合ってよ。明後日の深夜三時、またここで」


それは、とても確かな温度だった。 僕はこのフィルムの最後の一枚で、僕の手首を掴み、明るく笑う彼女の横顔を切り取った。


『八月十二日、三時五十分、〇〇公園。シャッター36。暗闇に残る体温。』

—————————————————————


「なーにが『露出オーバーのネガフィルム』よ。あの人、いつも歌詞みたいに中二病っぽいこと言うんだから」


帰りの電車に揺られながら、私は上の空で動画アプリをスクロールしていた。 プロフィールのフォロワー数:999。 「あーあ……あと一人で千人なのに! もどかしい!」


窓ガラスに頭をもたせかける。口では彼に文句を言いつつも、暗い窓に映る自分の顔を見ていると、急に迷いが押し寄せてきた。 昼間は学校に行って、バイトをして、SNSのアルゴリズムに媚びるように、109の本当は買えないような新作の服を試着する。スマホの画面の中の私は、毎日必死に「元気」で「完璧」な自分を演じているけれど……どうして時々、自分の中身が空っぽの抜け殻みたいに思えちゃうんだろう。


逆に、あの深夜三時の、変な赤いスーツを着た、スマホさえ持たない変わり者。 彼がその古いカメラを私に向けた時だけ、私は「本当の自分として踊っている」気がするのだ。


「明後日は、最後の日。写真をもらえれば、動画も絶対千人いくよね」 私はカバンの中にこっそり忍ばせたものを確認した。

「……まあいいや。今度は私が、私の世界を彼に見せてあげる番」


時間になり、明後日の深夜三時。 私はカバンを背負って公園まで小走りで向かった。彼はもう、あの古いブランコの横に立っていた。


「写真は? 写真!」 私は待ちきれずに彼へ手を差し出した。


彼は懐から分厚いクラフト封筒を取り出し、私に手渡した。薄暗い街灯の下で、一枚一枚めくっていく。 フィルム特有のざらついた粒子の中に、練習で転んだ無様な姿、ベンチで汗を拭う瞬間、そして夜空の下で舞う姿が焼き付けられていた。


「……すごい」 形振り構わず大笑いしている自分の写真を見た瞬間、急に鼻の奥がツンとした。


「スマホの画面の中の私より、百倍可愛いじゃん」


「君が、生きているからだ」 影の中に立つ彼の声は、とても静かで、でも確かな重みがあった。


私は写真をそっとしまい、彼の手首をきゅっと掴んだ。相変わらず、彼の体温は冷たい。


「行こ、カメラマンさん。私の秘密基地に連れてってあげる。拒否権なし!」


私は彼を引っ張り、深夜の街を走り出した。 空き缶が転がる路地裏を抜け、誰のために点滅するのか分からない信号機を通り過ぎる。耳を掠める横断歩道のメロディと、二人の足音が重なり合って、まるで即興のワルツみたいだ。 私は彼を連れて、渋谷にある廃商業ビルの屋上へ駆け上がった。


屋上は風が強く、彼の赤いスーツがバタバタと音を立てて翻る。 スマホで時間を見る。4:30。


「あそこ、見て」 私は遠く、地平線の果てを指差した。


漆黒だった東京の夜空が、ふいに優しい色に引き裂かれた。

群青色が少しずつ退色し、眩い黄金色が、冷たい高層ビル群に惜しみなく降り注いでいく。 夜明けだ。


「ほら!」

私は振り返り、彼に向かって大声で叫んだ。朝の光が、戸惑うような彼の顔を明るく照らし出す。

「昼間の世界も、案外悪くないでしょ?」


—————————————————————


朝の光が、明け方の薄靄を突き抜けていく。昼間の喧騒はまだ目を覚ましていないが、世界はすでに輝いていた。 僕は無意識のうちに後ずさりし、その灼熱から逃れようとしていた。しかし彼女が僕の手を強く握りしめ、影の中へ後退することを許さなかった。


夜明けの光を浴びながら下を向くと、足元に落ちた自分の影が、もう僕を飲み込もうとする怪物ではなく、輪郭を持った確かな形としてそこにあることに気がついた。


「カメラマンさん、私の夜を記録してくれてありがとう」 彼女は昇る太陽に向かって、大きく背伸びをした。


「今度は、キミが昼間の世界を記録する番だよ」


彼女を見つめる。胸のノートが、ずしりと重く感じられた。 僕は初めて逃げることなく、ゆっくりとカメラを構えた。 東京中を照らし出す朝陽と、その光の中で僕に向かって微笑む彼女に向けて。 シャッターを切る。


『カシャッ。』


二十平米の狭い部屋に戻る。 床には座らず、真っ直ぐユニットバスへと向かった。黒いガムテープで塞がれた鏡を見る。


宙に浮いた手は、微かに震えていた。 それでも僕は、テープの端をつまみ、一気に引き剥がした。


鏡の中の男は、シワだらけの赤いスーツを着て、徹夜のせいで目の下に隈を作っている。決して完璧じゃない、むしろひどく無様な姿だ。 だが彼は、胸を大きく上下させながら、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んでいた。


「これが、僕か」 鏡の中の自分を見つめ、僕は一人、静かに笑った。


部屋を覆っていた分厚い遮光カーテンを引く。刺すような陽光が、瞬く間に部屋の隅々まで満たしていった。 手帳の真っ白なページを開き、ペンを走らせる。


『八月二十五日、十八時、渋谷スクランブル交差点。シャッター1。幽霊は、人間。』


軽やかな白いシャツに着替え、カメラを胸に提げて、ドアを開ける。 熱波と、昼間の喧騒が顔に吹き付けた。 行き交う車、人々のざわめき。 でも僕は知っている。この巨大なネガフィルムの中に、僕だけの確かな痕跡を残せることを。


—————————————————————


『ピコン。』 スマホが震え、バックグラウンドの通知がポップアップした。


【フォロワー数が1000人に達しました。】


私は渋谷で一番賑やかなスクランブル交差点の真ん中に立っていた。人波に飲まれながらスマホの画面を見たけれど、自分でも驚くほど、笑っていなかった。 スマホをポケットにしまい、キャップを後ろに被り直す。ヘッドホンから流れるビートを聴きながら、静かに青信号を待つ。


その千人の中に、彼はいない。 だって、あの変わり者は、相変わらずスマホを持っていないんだから。


「ピヨピヨ……ピヨピヨ……」 青信号が灯る。


四方八方から押し寄せる巨大な人波が、私を包み込む。

誰もがスマホを見つめ、誰もが足早に通り過ぎていくこの昼間の世界で。私は顔を上げ、冷淡な無数の顔の中から、彼を探していた。


ふと、横断歩道のちょうど真向かい。 清潔な白いシャツを着た男の子が、人の流れに逆らうように立っていた。 彼はスマホを見ていない。ただ少し身を屈め、胸に下げた年代物のフィルムカメラを構え、人混みの中にいる私へ向けていた。


周囲の吵闹そうぞうしい車の音も、電子看板の光も、現代の波も。すべてがこの瞬間、再生を止めたように思えた。


押し寄せる人波越しに、私は立ち止まり、彼のレンズに向かって、この昼間だけの、最高に明るい、とびきりの笑顔を向けた。


『カシャッ。』


あの古いシャッターの音が、確かに響いた気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ