1:香川からの誘い
満員電車を降りた中年男性。よれたグレーのスーツに黒縁眼鏡、黒いビジネスバッグを持った彼は、行き交う人に紛れながら駅を出た。
向かう先はこの町にあるちいさなビル。観光地や商業地として名を馳せている京都駅から少し離れた、都会的とも牧歌的とも言えないこの町に、彼が二十年以上勤めているIT企業がオフィスを構えている。
IT企業といってもちいさな会社だ。十人ちょっとの社員でなんとか回している、下請けを主にやっている会社。名前を出しても聞いたことがあるという人は同業者以外にほとんどいないだろう。
盆地ならではの蒸し暑さと容赦無い日差しに耐えながら出社すると、オフィスの入り口に張り紙がされているのが目に入った。
「……不良債権でオフィスを取り押さえ?」
思わず彼の顔から血の気が引く。
社長は行方不明、社員は全員解雇という、まさか自分の身に降りかかるだなんて想像もしていなかったことが書かれている。
「うそでしょ?」
呆然としながら彼はスマートフォンを取り出して他の社員にアプリでメッセージを送る。
メッセージアプリが騒然となった。
他の社員といろいろやりとりをした結果、社長が行方不明……おそらく夜逃げをしたのだろう……なのが事実だとわかった。
そしてもうひとつわかったのが、社宅として住んでいるアパートの部屋から今日にでも退去しなくてはいけないということだった。
男性は慌ててアパートに帰り、どうしても手放すわけにはいかない大切な荷物……特に妻と娘の位牌……をまとめ、ビジネスバッグの中に詰め込む。
それから、スマートフォンで電話をかけた。
「もしもし。はい。そちらの数学科卒業生の香川啓介ですが、寮の部屋は空いてますか?
実は……」
通話先は彼、啓介の通っていた大学。そこには在学生だけでなく卒業生も利用できる学生寮があって、一時的にすみかを移さなくてはいけない卒業生なども在学生と一緒に生活をしている。もっとも、卒業生が寮に住むのは短期間だけだけれども。
在学中、寮で学生と胡乱な話をしていた卒業生を度々見ていた啓介は、あの大学の寮なら一時的に逃げ込めると思ったのだ。
そして事情を説明すると、こんなことは慣れているといったようすで返事が返ってくる。
『それはえらいですねぇ。
いつもの大部屋なら余裕ありますので来てください。
寮母さんには話通しときます』
「ありがとうございます!」
とりあえずの借宿は確保できた。
啓介はビジネスバッグを手に持ち、ドアを叩く音が途切れた隙にアパートの部屋から逃げ出した。
「へえ、新入りさんは卒業生ですか」
ビジネスバッグを持って大学の寮に転がり込んだ啓介を迎えたのは、おそらく今年四回生か修士かという、Tシャツにトランクス姿の学生の一言だった。
二十畳ほどの畳の大部屋にはいくつかちゃぶ台が置かれている。そこで、講義の空きコマの時間を潰している学生や、図書館で大量に取ってきたコピーを広げながら論文を書いている学生が、卒業生の来訪はもう慣れたといったようすでちらちらと啓介を見る。
啓介は、声をかけてきた学生に汗を拭いながら言葉を返す。
「一応僕は、この寮にもいたんだけどね」
「おや、ほんとに先輩ですわね。ちなみに学部は?」
「数学科だよ」
「なるほどねえ。
それじゃあ、学部生なのにABC問題を卒論で扱ってリジェクトされた人って知ってます?」
「いたね、そんな子……」
思わず学生時代を思い出す質問をされ、気持ちが過去に戻る。そう、この大部屋も啓介がこの大学に在学していたときとほとんど変わっていない。目に見えて変わったとわかるのは、エアコンが設置されていることと機動隊が来る気配がないことくらいだろうか。住人は毎年入れ替わっていくので、変わったこととして数えるほどのことでもないだろう。
ふと、話していた学生が付箋になにかメモを書いて手渡してきた。
「はい、先輩。
これ、この寮のwifiのパスワードです。
これがないと新しい家探せへんでしょ」
「あ、ああ。ありがとう」
啓介は少しおどろきながらメモを受け取る。それから、大部屋の中を見回す。よく見ると部屋の中でもいちばん涼しそうな物陰に、インターネット用のルーターが置かれていた。
この寮もインターネットが使えて当たり前か。そう思いながらwifiの設定をしようとした啓介が、学生に訊ねる。
「ところで、この寮のwifiはどれかな?」
「応仁のLANってやつです」
「ほんとうに、相変わらずだよこの大学は」
寮の変わったところと変わらないところを実感しながら、啓介はスマートフォンのwifi設定をいじり、接続する。これで通信量を気にせずに家と職を探せそうだ。
ほんとうは、この寮を終の棲家にするのがいちばん楽なのだろう。なんせ、月数千円の家賃で食事までついてくるのだ。常に人が出入りする部屋で生活をすることに耐えられて、満足できるのならそれがいちばん楽だ。そして、啓介の親の代にはそういった卒業生がいたことも知っている。
それでも、そういった生活は寮を経営する大学だけでなく、寮生にも迷惑をかけてしまうのはわかりきっている。だから、一刻も早く職を家を見つけてここを出なければならなかった。
wifiがつながるなり求職サイトを見はじめた啓介に、先ほどの学生がお菓子の袋を差しだしてくる。
「おせんべい食べます?
ここに来るなりそんなことしてちゃ持たないでしょ。
そんなせかせかして、東の人みたいやわ」
その言葉に、啓介は袋の中に入ったちいさなせんべいを見る。関西で親しまれている、厚くて甘塩っぱいせんべいだ。この学生にとって馴染みのあるこのお菓子で、啓介のことを安心させようとしてくれているのだろう。
「ありがとう。一個いただくよ。
あと、僕の生まれは神奈川だからね?」
そう言ってせんべいを囓る啓介を、学生がおどろいた顔をして見る。
「これは失礼。
神奈川の方となると、余程優秀なんでしょうねえ」
「ほんとうに優秀だったら、ここに出戻りなんてしてないよ……」
せんべいを飲み込んでため息をつく啓介に、学生は怪訝そうな顔をして訊ねる。
「そういえば、なんでここに来はったんです? ご実家は?」
実家と聞いて、啓介の脳裏に学生時代のことがよみがえる。それをなぞるように、学生の質問に答えた。
「僕の両親は、僕がここに在学している間に交通事故で亡くなってね。
持ち家もあったけど、相続税も所得税も払えないから遺産放棄したんだ。
だから僕の実家はもうないし、もしかしたらあそこには他の人の家が建ってるかもね。
義実家を頼るにも、妻は出産の時に娘と一緒に他界しているからなぁ」
すると、学生は気まずそうな顔をしてせんべいを囓る。お互い少しの間黙ってから、学生が言う。
「まぁ、ここも実家みたいなもんですしねえ。
お盆が終わるまではゆっくりしてもいいんじゃないです?」
学生の言うとおり、この寮は啓介にとって第二の実家とも言える場所だ。そうでなかったら今こうやって頼ってきていない。
だから、啓介は笑う。
「そうだね。お盆まではいられないけど、少しゆっくりしようかな」
「それがいいです。
それに、先輩がせかせかしてると、俺も論文急かされてる気になるんでねえ」
気がつけば、空きコマの時間つぶしをしていた他の学生は姿を消し、論文を書いていた学生は居眠りをしている。
啓介は眼鏡を外して畳の上に寝転んだ。
それから学生達と語らいながら一週間ほど経って。啓介はさすがに職と家を探しはじめていた。
ハローワークにも登録したし、ネットの求人サイトのチェックも欠かさない。けれども、なかなか条件に合う職場がない。
その条件というのは、住宅補助か社宅があること。
まずは住む場所を確保できないとどうしようもないので、給与よりもその条件を優先して探しているのだけれども、不況が続くこのご時世、まともな会社だと社宅があるところはほとんどない。社宅があるところといえば、啓介のスキルではこなせない業種か、とんでもないブラック企業かだ。
学生たちも夏休みに入った。啓介がスマートフォンで職探しをしている周りで、学生たちが寝転がったりボードゲームをしたりしている。
普通なら、自分が必死になっているのに周りがこんなにのんきだと苛立つのだろうと啓介は思う。実際、勤めていた会社ではそうだった。
けれども今は、周りで学生たちがのんきにしてくれていることで逆に安心できた。ここなら、何度失敗しても受け入れてくれるとそう思えた。
寮母の声が聞こえる。夕飯の時間のようだ。
思い思いに夕飯を取りに行く学生に混じって、啓介も立ち上がった。
蝉の声も聞こえない暑い日。お盆にさしかかる直前のこと、啓介の職探しに進展があった。ハローワークで職探しをしていると、住み込みの仕事の求人があったのだ。
早速その情報をプリントアウトして職員のところへと持っていき、問い合わせる。
「あの、この求人の募集ってまだしてますか?」
その質問に、職員は不思議そうな顔でプリントされた用紙を見る。
「ちょっと今調べてみますね。
……なんで香川県の求人が来てはるんやろ」
すこしだけ不安になるようなつぶやきが耳に入ったけれども、啓介は職員の動向をじっと見守る。
そして、職員は調べた結果を啓介に告げる。
「まだ募集してるみたいですね。
でも、これ、この仕事住み込みですし、就職するなら香川県に引っ越さないといけませんけど大丈夫ですか?
それに、これIT系じゃなくてパン屋さんですよ?」
そう、啓介が見つけたのは住み込みのパン屋店員の求人。できればIT系でという希望を出していたので、職員の方が戸惑ってしまっている。
正直言えば、IT系で見つけられるに越したことはなかった。
けれども。
「住む場所と人権があるなら大丈夫です」
啓介の決意の籠もった言葉に、職員は戸惑いながら返す。
「それでは、こちらはオンライン面接とのことなので、日時がわかったらまたご連絡します」
「はい、よろしくお願いします」
どことなく気が抜けたような職員とは対照的に、啓介は絶対に就職するという決意と緊張でいっぱいだった。
「パン屋さんの面接ぅ?」
ハローワークでようやく面接までこぎ着けたという話を、親しくなった学生たちに報告すると、みんな面食らった顔をして声を上げる。
「そう。住み込みの仕事だから、そこに決まればもうここにも迷惑かけなくていいしね」
すると、文庫本を片手に持った学生が啓介に言う。
「パン屋さんみたいな食品系の仕事だったら、いつもみたいなよれっよれの服じゃだめだよ。シュッとした格好しないと」
「……いつもそんなよれよれの服かな?」
「よれよれだよ!
おっさん、面接の時に着るシャツ貸してみ? アイロンかけとくから」
その学生の言葉を皮切りに、周りの学生たちがあれこれと啓介の世話を焼きはじめる。
「でも」
誰かがつぶやく。
「おっさんがここ出て行ったら寂しいなぁ」
啓介はその言葉に、返事も頷きもせず、どうしたらいいかわからなくて、ただ笑みを浮かべた。
面接は、お盆が終わった頃に行われた。
ハローワークの一室で、パソコンを使って面接をする。着ている服は寮の学生がきっちりとアイロンをかけてくれたおかげで、会社に勤めていた頃よりもしゃきっとしている。
パソコンの画面越しにいるのは、寮の学生たちと同い年くらいの青年。髪型や服装を見ると、すこし不良っぽいやんちゃさがある。
その青年が、パソコン越しに口を開いた。
「はじめまして。ベーカリーつきおれの店長、岩瀬大和です。今日はよろしくお願いします」
「はい。私、香川啓介と申します。よろしくお願いします」
まさか、寮にいる学生たちくらい若い相手が店長だとは思っていなかった。ついおどろく啓介に、店長の大和が言う。
「うちの店で主にやってもらうことはパンの販売ですが、そのほかに経理や税金の申告なんかもやってもらいたいんですが、その辺はできますか?」
「経理や税金の申告ですか?
はい。パソコンを使っていいならできます」
「すぐに高松まで引っ越せますか?」
「住む家があるなら引っ越せます」
この辺りは店員を雇うに当たって、聞いても問題のない質問だろうし、啓介としては問題はない。しかし、過去の就職活動の経験から、この後とてつもない質問をされるというのが身に染みている。
啓介が身構えていると、大和はこう続ける。
「なにか質問はありますか?」
「給与などの条件は、求人票にあったとおりですよね?」
「はい、その通りです」
「では、質問は以上です」
ここで下手なことを聞くと悪い方へ動きかねない。だから、確認を兼ねた最低限の質問だけを啓介がすると、大和はしれっとこんなことを言った。
「じゃあ採用ということで」
「え?」
啓介は思わずぽかんとする。まさかこんなにすんなりと採用されるとは思っていなかったのだ。
「住む部屋は開けてあるんで、引っ越しの準備ができたらまた連絡ください。
できれば一週間以内かな」
大和は素っ気ない態度で一方的に話を進めていく。啓介は強引な大和のペースに飲まれていた。
「え? あ、はい。わかりました」
起こっている出来事に啓介の理解が追いつかない。
戸惑っている間にもパソコンの画面から大和の姿が消える。啓介も呆然としたまま通話アプリを閉じた。
ベーカリーつきおれの面接を受けた次の週、啓介は四国の土を踏んでいた。
京都から電車を乗り継いでやってきた高松は、京都よりも日差しが強く、そのかわり湿気が少ないように感じる。日向は肌が焼けるようだけれど日陰は風が吹けば涼しい、厳しさの中にも爽やかさのある暑さだ。
駅を出て、時折目に入るうどん屋の誘惑を振り切りながら、奥まったアーケード商店街にあるベーカリーつきおれへと向かう。
「失礼します。先日面接を受けた香川ですが」
店のドアを開けてそう声をかけると、中から香ばしいパンの匂いがあふれてくる。引かれるように中に入ると、店内には客の姿がない。
ただひとりそこにいたのは。
「どうも香川さん、いらっしゃい」
愛想笑いすら浮かべない、気難しそうな店長、大和だった。
どうにもとっつきにくそうな大和を和ませようと、啓介はぎこちなく笑ってこう言う。
「いやぁ、店長さんにそんな丁寧に呼ばれると、なんか照れちゃうな」
すると、大和は仏頂面のまま返す。
「わかった。じゃあおっさんって呼ぶよ」
「たしかにおじさんですけど……」
大和のこのようすを見ていると、打ち解けるのには時間がかかりそうだ。そう思った啓介は、気を取り直して別の話を切り出す。
「それで店長、引っ越しの荷物を置きたいので、部屋に案内して欲しいのですが」
「ああ、そうだったな。部屋にはこの奥から入れるからこっち来て」
大和に促されて、啓介はレジカウンターの内側に入る。レジカウンターの後ろの壁にはドアがあって、そこを入ると右手の壁際に階段が、左手の奥にはパン焼き用のオーブンとおぼしきものが見えた。
靴を脱いで階段を上る大和の後をついて啓介も上る。二階に上がってすぐのところにドアがあり、横に電気のスイッチがあるところを見るとどうやらトイレのようだ。トイレの隣はシャワールームに続いてちいさな洗面所になっていて、洗濯機も置かれている。
一連のものがある廊下を歩いて行くと、廊下の突き当たりに一部屋、そこと直角の左手に一部屋あるようだ。
大和が奥の部屋を指さして言う。
「あそこが俺の部屋。おっさんは脇の部屋使って。六畳あれば足りるよな?
あれ? そういえばおっさんの荷物載せたトラックが来てないんだけど渋滞してんのかな」
怪訝そうな顔をする大和に、啓介は手に持ったビジネスバッグを見せて返す。
「僕の荷物はこれだけ。トラックで運ぶほどじゃないですよ」
両手で抱えるほどのサイズだけれども、たったそれだけの荷物しかないときいて大和は驚きを隠せないようだ。
しかし、それはそれと思ったのだろう。脇の部屋のドアを開けて啓介に指示を出す。
「それじゃあ、そこに荷物置いて早速店に出て。軽く研修するから。
制服はエプロンと帽子とマスクだけ。OK?」
「はい、わかりました」
啓介が返事をして荷物を部屋に置いていると、大和が自分の部屋から赤いエプロンと紺のキャップを持ってくる。
「エプロンと帽子のつけ外しは基本一階で。
わかった?」
「了解です」
廊下を歩いて階段を降りていく大和に、エプロンとキャップを持った啓介がついていく。
システムエンジニアとして二十年以上働いてきた男が、パン屋になった瞬間だった。




