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夕凪のパン屋  作者: 藤和
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プロローグ:パン小屋から

「は? 工場閉鎖?」

 いつも通り朝早く工場に出勤してきた彼の目に入ったのは、プラスチック製の鎖で入り口が塞がれ、A4用紙に文章が書かれたものが貼られているところだった。

 紙にはこのような感じの内容が書いてある。

 この工場の経理が多額の横領をて借金がかさんだため、この工場を取り押さえる。それに伴いこの工場は閉鎖する。

 それを読んで、彼は顔を青くする。工場が閉鎖ということは、職を失ったということだ。

 上司に事情を聞こうとスマホで電話をかけるけれど、着信拒否をされているようでつながらない。

 ただ呆然と立ち尽くしてつぶやく。

「どうすんだよ、これ……」

 高校を卒業して三年。彼はずっとこの工場に勤めていた。その勤め先が潰れて途方に暮れるしかない。

 でも、いつまでもここにいてもなんにもならない。いやな動悸を感じながら、彼は家に帰るため人波に逆らって駅へと向かった。


 六畳一間のアパートに帰り、彼が真っ先にやったのはネットでの求人情報探しだ。

 ハローワークが開くまでの時間を潰しているだけと言えばそうなのだけれど、ネットでいい求人があるならそれに越したことはない。だから、スマホの画面を何度もタップしながら検索していく。

 なんとしてでも地元以外で職を見つけないといけない。地元には絶対に帰りたくない。そう思いながら求人情報を見る。

 ふと、求人サイトである広告が目に入った。それは、香川県が誘致しているIターンの広告だ。

 興味がないはずなのに、つい誤タップしてIターンのページに飛ばされる。そこで真っ先に目に入ったのは、香川に移住すれば、店舗付きの家を格安で借りられるというアピールだった。

 思わず目を奪われて説明文を読む。

 香川に移住すれば、店舗付きの家を格安で借りることができる。しかも、三年以上そこに住むことを条件に、はじめの三年間は店舗運営や家賃などの補助が出るとある。

「マジかよ……」

 咄嗟に、机の引き出しに手が伸びた。その中には通帳がある。通帳を出して残額を見ると、なんとか香川に引っ越せるだけの金額が残っている。けれども帰ってくるほどの残額はない。

 どくどくと心臓が鳴る。

 彼は夢中で、入居者募集中の香川の物件を見て回りながら先日のことを思い出していた。


 彼はパンを焼く。

 小さな店がひしめくビルのワンフロア、そこにある小さなパン小屋で、焼きたてのパンをオーブンから出しては袋に詰めていく。

 香ばしい小麦の香りを感じながら、パンを焼いたり袋に詰める作業はたのしいものだと彼は思っている。

 パンを焼くことを覚えてから、高校時代よりずっと吸っていた煙草もやめられた。煙草なんかよりも、焼ける小麦の匂いの方が魅力的なのだ。

 焼けたパンを大きなトートバッグにふわりと入れて、彼はパン小屋を出る。パン小屋を出てすぐ側にあるごくごく小さな本屋では、店員が黙って本を読みながら店番をしている。

 彼は本屋の店員に声をかける。

「どうも。パン小屋を使ってる者ですけど、よかったら焼きたてのパンどうぞ」

 そう言って温かいパンを差し出すと、本屋の店員は慌てたように笑ってパンを受け取る。

「ありがとうございますー!

 ちょうどおなかが空いてたので助かります!」

「ほんとですか? いやいや、よかったっす」

 それから少し話をして、彼は雑然としたフロアをぬけて階段を降り、ビルから出る。道路を挟んで目の前には公園。緑の葉をつけた桜の木がそよそよとそよぎ、合間から駆け回っている子供や、その面倒を見ている母親や父親の姿が見える。

 その光景になんの感慨も抱かないまま右手に向かって歩き出す。雑居ビルが並ぶ。しばらく歩くと、雑居ビルの一階に鳥が書かれた看板を出している店があった。

 『八咫烏)文庫』看板にはそう書かれている。

 彼は看板の側にあるガラス戸を開けて、中に声をかける。

「久しぶりー、店長いる?」

 店の中に入ると、文庫という名に違わず左手と奥の壁際には本棚が並び、その中にはぎっしりと大小様々な本が並んでいる。右手にはキッチンカウンターが、開いているスペースには大きなテーブルと椅子が置かれている。奥の壁の本棚の切れ目には隣の部屋へと続くドアがあるのだけれど、彼はあのドアの向こうに入ったことがない。

 人気のない店内をきょろきょろと見回していると、奥のドアからくせっ毛を編み込んで結い上げた、小柄な男性が出てきた。

「あ、大和さんこんにちわ。

 パン小屋に行ってきたんですか?」

 人懐っこく笑う男性に、大和と呼ばれた彼はパンの詰まったトートバッグをテーブルの上に乗せて機嫌良く答える。

「そうそう。久しぶりのパン小屋。

 いっぱい焼いたからよかったらお店に置いてくれよ店長」

 大和がテーブルの上にパンを広げると、この店の店長は早速大きな籠を持ってきてパンを入れていく。

「もちろん。

 ここに来るお客さんで大和さんのパンを楽しみにしてる人いっぱいいるから、ありがたいよ。

 さて、お代はいくら?」

 手際よくパンを盛った籠をキッチンカウンターに置いた店長が大和に訊ねると、大和は照れたように笑って答える。

「お金なんていいって。

 それにあの、あれだろ? パンとか焼いて売るってなると、なんか免許取らなきゃいけないんだろ?

 俺、そういう免許持ってないんだよ」

 その言葉に、店長は斜め上に視線をやって言う。

「うーん、免許さえ取ればパン屋さんとしてやってけそうなんだけどねぇ」

 店長がいかにも惜しそうにそう言うと、大和は困ったように頭を掻く。

「そうは言っても、工場の仕事が忙しくて免許なんて取りに行く暇ないよ。

 転職活動もできないくらい毎日働かせられるんだからさぁ」

 大和が勤めている金属加工会社は、いわゆるブラック企業だ。始業は朝九時だけれども、その前に着替えや工場内の清掃を済ませるために一時間は早く出社しないといけない。その時間の給料は出ないのにだ。しかも、終業は五時半と言うことになっているのに、終電近くまで働かされることも少なくない。それなのに残業代もほとんど出ない。出ないと言うよりも、保健だとか税金だとかでしこたま天引きされてしまう。

 そして休みの日はほとんど寝てばかりで、たまに有休を取ってあのパン小屋に行き、パンを焼くことが唯一のたのしみなのだ。

 そのたのしみに、より一層のよろこびをくれているのが、八咫烏文庫の店長だ。はじめはただただパンを焼いて自分で食べるだけだったのが、ある日パン小屋の側にある本屋に来ていた八咫烏文庫の店長にパンを分けたところ、店長の本屋に置かせて欲しいとの申し出を受けたのだ。

 店長は、大和にうれしい報告をたくさんくれた。ワークショップをやっている子供たちがおいしそうにパンを食べている写真を見せてくれたりとか、お客さんが書いてくれたパンの感想のメッセージカードを手渡してくれたりもした。

 パンを焼くこと自体もたのしいけれど、そのたのしいことでよろこんでくれる人がいる。その事実は疲れてひねくれてしまった大和の心を、多少なりとも立ち直らせてくれたのだ。

 店長がせめてものお礼にと出してくれたアイスコーヒーを飲んでから、大和は空になったトートバッグを持って八咫烏文庫を出る。

 明日からまた、暗くて騒がしい工場での仕事が待っている。


 そんな日々が続くと思っていたのに。

 香川へのIターンの広告を見た翌日、大和はすこし隈のできた顔で八咫烏文庫へと訪れた。

 いつものパンを持っていない大和の姿に、店長が少しおどろいた顔をする。

「どうしたの大和さん。なにかあった?」

 心配そうにそう言いながらキッチンカウンターを出る店長に、大和はたどたどしく口を開く。

「実は、工場が潰れて」

「うん」

「それで、求人情報を見てたら、香川のIターンの広告を見たんだ。

 移住して三年以上住むなら、はじめの三年間はいろいろな補助が出るらしいんだ。家もお店も借りられるし」

「うん、それで?」

 店長の視線に期待が籠もる。それを受けながら、大和は少し勢いをつけてこう言った。

「パン屋の設備のある物件もあったんだ」

 一瞬、沈黙が降りた。それから、店長がにやりと笑って口笛を吹く。

「いいね。これもなにかの縁だ。香川に行ってパン屋になっちゃいなよ」

 大和の予想通り、店長は背中を押してくれた。

「パンを焼くのが好きなんでしょ?」

「う、うん」

「まぁ、補助が出るっていっても、はじめは借金しないといけないだろうけど」

 店長の言葉に、大和の中で決意が固まっていく。けれども、固まっていく決意の中にもまだ不安はある。

 それを察したのか、店長がキッチンカウンターの上に置いているショップカードを一枚取って、大和に渡す。

「香川でお店を構えたら、連絡ちょうだいよ。

 お店に連絡くれれば返すから」

 八咫烏文庫のショップカードは、まるでお守りみたいだ。店長が応援してくれるなら、まだ大きくわだかまっている不安も乗り越えられそうだった。

 大和は店長に視線を返してはっきりと言う。

「わかった。香川でお店を開いたら、連絡するよ」

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