第1話
白い光が、視界の奥でほどけた。
次の瞬間、ラビィは硬い地面の感触を足裏に感じていた。
月面都市ルナ=アルカディアの滑らかな床とも、フルダイブ特有の曖昧な感覚とも違う。
土だ。乾いた大地の匂いが、確かに鼻腔をくすぐる。
「ここが……過去の世界……」
声が震えそうになるのを、ラビィは意識して抑えた。
初めての過去遡行。
理屈では理解していたはずなのに、現実として突きつけられると、胸の奥がひどく落ち着かない。
自分の姿を確かめる。
長い耳は短く、目立たぬ形に補正され、衣服もこの土地に溶け込む簡素な旅装へと変わっていた。
違和感はない。少なくとも、外から見れば。
遠くで人の声がした。
馬の嘶き、金属が触れ合う音。
空気は張りつめ、どこか荒れている。
ラビィは深く息を吸い、歩き出した。
道の脇で水を汲んでいた老人に、慎重に声をかける。
言葉は自然に通じた。翻訳機構は正常に機能している。
「あの…ここは……どの国でしょうか」
老人は一瞬だけ訝しげにこちらを見たが、やがて溜息まじりに答えた。
「国、とな。今はどこも国らしい国ではないわい。
北では曹操、南には孫家、西には劉備……世は三つに割れようとしておる」
その名を聞いた瞬間、ラビィの胸が小さく跳ねた。
歴史の授業で聞いた名前ばかりだ。
だが、表情には出さない。
「争いが……多いのですね」
「賢しらな者ほど、世を憂える時代よ」
老人はそう言い残し、去っていった。
別の場所では、旅人同士の会話が耳に入る。
「蜀に、妙な男がいるらしい」
「妙な?」
「まだ仕官もしておらんが、臥龍と呼ばれているとか」
ラビィは足を止めた。
「臥龍…?」
だが、確信には至らない。
この時代には、まだ多くの「名を残さなかった才能」も存在するはずだ。
村外れへ進むと、喧騒は遠ざかり、風の音だけが残った。
竹林。
乾いた葉が触れ合い、さらさらと鳴っている。
その奥に、簡素な草庵があった。
戸口に立つ人物は、こちらを見ていた。
若くはないが、老いてもいない。
穏やかな眼差しの奥に、静かな鋭さが宿っている。
「旅の方か」
低く、落ち着いた声。
「はい。遠方より参りました」
ラビィは一礼した。
未来の話はしない。
ゲームの話もしない。
「学と、人の在り方を学びたく……この地に賢者がいると聞きました」
男はすぐには答えず、風に揺れる竹を眺めた。
「賢者、とな。世を救う知など、今はどこにもない」
「それでも……考え続ける人の言葉を、聞いてみたいのです」
しばらくの沈黙。
やがて男は、微かに笑った。
「面白い。若き身で、答えより問いを求めるとは」
草庵へ招かれ、二人は向かい合って座る。
戦の話、民の話、理想と現実の隔たり。
男の言葉は、柔らかく、しかし迷いがなかった。
ラビィは確信し始めていた。
この人だ、と。
「あの…名を、お聞きしても?」
男は一瞬だけ考え、静かに口を開く。
「諸葛亮。字を、孔明という」
胸の奥で、歴史が重なった。
教科書の文字ではない。
ここにいるのは、血の通ったひとりの人間だ。
ラビィは深く頭を下げる。
「お会いできて、光栄です」
孔明は首を横に振った。
「光栄などと呼ばれるほどの者ではない。だが、話し相手としてなら、付き合おう」
風が、竹林を渡る。
まだ誰にも知られぬ龍は、静かにそこにいた。
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