金木犀の記憶、めくられたカレンダー
九月も下旬だというのに、朝から暑い。店の中のテレビの天気予報では「今日の最高気温は三〇度を超えます。残暑は十月中旬まで続きそうです」と軽快に告げている。
店先にユッカの六号鉢を置きながら、大きなため息をついた。
ここは花屋。
オーナーが「フラワーとオーロラを足してみたの! 素敵でしょう?」と得意げに話していたのを、就職初日に聞かされたことを覚えている。大学を出たばかりで、不安ばかり抱えていた私に気を使ってくれたのだろう。年齢不詳で、底抜けに明るい女性だ。
そんな店に勤めて三年。辛いこともあるけれど、不思議とこの仕事は性に合っている気がする。
市場から買い付けてきたオーナーが、金木犀の鉢を店に運び入れてきた。
その香りがふわりと広がった瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれる。橙色の花弁が散る景色は、三年前のあの日と重なる。
――圭が、いなくなった日。
運転者がアクセルとブレーキを踏み間違えた車に弾き飛ばされ、彼は一瞬にして奪われた。現場の道路わきには、満開の金木犀。
花の香りは、鮮やかすぎる記憶を呼び戻す。苦しくて、どうにもできなくて、悲しい思い出。どうして、どうして、と自分が叫んでいた思い出。
私はいまだに、あの日で止まった卓上カレンダーを机の上に置き続けている。三年前の九月、まるで時間を閉じ込めるように。
捨てられない。
捨ててしまったら、本当に圭がいなくなってしまう気がするから。「忘れない」と「前に進む」の境界線が分からず、私は立ち尽くしたままだ。
そんな私を、ずっと見てきたのが千華だった。
大学の頃から一緒にいて、圭のこともよく知っている。光馬と結婚して家庭を持った彼女は、私の沈黙や涙を、余計な言葉で誤魔化したりしない。
けれどある日、珍しく少し強い調子で言った。
「結衣、あなたが圭を忘れられないのは分かってる。でも……あなたまで止まったままじゃ、圭が悲しむんじゃない?」
その言葉に胸が痛んだ。思わず声を荒げた。
「分かってるよ! 忘れろなんて言わないで!大体、“圭が悲しむ”なんてどうしてわかるのよ!」
「忘れろなんて言ってない。ただ――あなたが生きてることを、ちゃんと大事にしてほしいの」
そんな彼女にとって、私の停滞は見ていて歯がゆいに違いない。わかってはいるけど、どうにもできなかった。
ある夕方、千華は穏やかな声で言った。
「ねえ、紹介したい人がいるの。不動産会社に勤めてる成也さん。光馬の取引先で、すごく真面目な人。会ってみない?」
「……私、まだ……」
「大丈夫。恋人になれってことじゃない。ただ、話してみて。新しい人と関わることを怖がらないでほしいの」
その人――成也と初めて会った日のことを、私は忘れられない。
特別愛想がいいわけでもないし、誰よりも親切というわけでもなかった。ただ、彼の静かなまなざしが心に残った。
私が無理に笑わなくても、取り繕わなくてもいいと、自然に許してくれるような眼差しだったから。
ある日の夕方、店先でユッカを片付けていると、成也は言った。
「香りって、不思議ですね。いいことも、つらいことも、呼び戻してしまう。記憶と香りは密接に関係しているんだそうです。――呼び戻せるのは、それだけ大事な思い出だからなんでしょう」
言葉に詰まった私を、彼は急かさなかった。その沈黙は、なぜか心地よかった。
けれど、家に帰るとまた葛藤が押し寄せる。
――圭を忘れてしまうのではないか。
――新しい誰かを想うことは、裏切りなのではないか。
夜、カレンダーを見つめながら涙がにじむ。捨てられない。めくれない。
でも、これを持ち続けている限り、私はずっと「三年前」で止まったままだ。
そのとき、スマホが震えた。そのとき、スマホが震えた。
画面には「成也」の名前。わずか数回のやり取りしかない彼の名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。罪悪感にも似た、熱い予感。
慌てて涙を拭い、一瞬深呼吸をしてから、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「夜分すみません。……あの、急にどうしても伝えたくなって」
彼の声は、昼間の静かな眼差しそのままに、穏やかで低かった。
「え?」
「今日もお店で一生懸命働いてるのを見て……」
彼は言葉を選んでいるようだった。
「あなたの時間が少しずつ進んでるのかなって、そう感じて、嬉しかったんです」
私の呼吸が止まった。自分が進んでいること。他人に、ましてや彼に、それが「嬉しい」と感じてもらえたこと。それは、圭の不在によって空いた、心の深い穴に、温かい光が差し込むような感覚だった。
胸がいっぱいになって、言葉が出ない。代わりに小さな声でつぶやいた。
「……ありがとう」
しばらく沈黙が流れた。電話越しに聞こえる彼の息遣いだけが、夜の静寂を破る。その沈黙は、居心地の悪い間ではなく、互いの感情をそっと見つめ合っているような、特別な時間だった。
やがて成也は、そっと氷を溶かすように、柔らかく言った。
「急がなくていいです。結衣さんの歩幅で。僕は、隣にいられたら、それで」
隣に――。その一言が、私の胸を激しく震わせた。それは、私の過去も、痛む心も、すべてを否定せず受け入れるという、静かな、しかし確固たる表明のように聞こえた。
「忘れない」と「前に進む」の境界線で立ち尽くしていた私の足元に、彼はそっと石畳を敷いてくれたのだ。その夜、私は初めて、圭の思い出に縛られている自分だけでなく、成也という新しい光を意識した自分も、好きになれそうだと感じた。
ある日、仕事の帰りに成也が店先で声をかけてくれた。ユッカの鉢を抱える私を見て、彼はすぐさま近づいてきた。
「重そうですね、それ」
抱えていた鉢を受け取りながら、彼は言った。
「無理して持ってると、腕も心も疲れますよ。手放すんじゃなくて、誰かと分け合うっていうのも、方法のひとつです」
その言葉は、まるで長年の呪文を解く鍵だった。私の心は、熱くなった。
圭との思い出を、重荷のように一人で抱え込み、守らなければならないと必死になっていた。手放したら、圭の存在そのものを失う気がしていたからだ。しかし、彼は言った。「分け合う」と。
忘れるのではなく、圭との愛おしい記憶を私の一部として持ち続けながら、その「重さ」を、今を生きる成也と分け合い、未来へ進む――。そんな考えは、今まで私になかった。
忘れないまま、新しい人を好きになることだって、きっとできる。いや、もしかしたら、新しい愛を知ることこそが、圭との思い出を永遠にする方法なのかもしれない。
その夜、部屋に戻り、机の上の卓上カレンダーを見つめる。
三年前の九月で止まったままの数字。その紙面が、私の停滞そのものを表していた。
捨てられない。けれど――いまは分かる。めくったからといって、圭を忘れるわけじゃない。圭は、私の深い場所、過去として、愛した人として、確かに生きている。
そっと指を伸ばす。紙の端をつまみ、大きく息を吸い込む。ためらいは、もはや恐怖ではなく、過去への感謝に変わっていた。
そして、一枚だけめくる。
ぱらり、と乾いた、しかし決定的な音がして、カレンダーは十月を示した。
胸の奥で涙がこみあげる。カレンダーをめくった手が震える。この涙は、過去を悼むだけのものじゃない。それは、新しい光に向かって、今、一歩を踏み出した自分自身への、許しと解放の涙だった。止まるためのものではなく、進むための涙。
千華の友情に支えられて、成也の静かな優しさに触れるうち、私の時間は、緩やかに、しかし確実に動き出していた。
金木犀の季節は、また巡ってくる。
その香りは、これからも圭を思い出させ、胸を痛ませるだろう。
しかし、その痛みはもう鎖ではない。それは、過去と現在を結ぶ細い糸。そして、その痛みの中に、成也という新しい愛と共に歩む、次の季節への小さな扉が、確かに開いているのだ。




