1-1 業界人、神様と出会う
7月になった。
中途半端な梅雨の中、夏の暑さだけが続く。
子どもの頃は6月中に梅雨が始まって7月にはもう完全な夏だったような気がするが、それは気のせいだろうか。
そんなことを思いながら、いつもと同じく世間よりは少し遅めの朝10時にマンションを出た私は、玄関先にセミの死骸があることに気がついた。
(まだ梅雨も明けてないのに相手も見つからなかっただろう。かわいそうにな)
そう思いながらポーチにあるプランターに埋めてやろうと手を伸ばした瞬間、セミは突然ジジジジジと鳴いて暴れだした。
「うわっ、びっくりした!」
久しぶりにセミ爆弾食らった。
これがあるから子供の頃からセミは苦手だったんだよな。
今日の出だしはアンラッキーからか。
よし、次は倍ラッキーだな
私は何事にもポジティブであろうと心がける性格だ。
ほんの些細ないいことでも幸運は積極的に数えるし、逆に悪いことで決してもネガティブには捉えることはせず、次に必ず訪れるラッキーへの布石だと考える。
能天気と言われればそれまでだが、私はこれで人生を楽しく生きてくることができたと思っている。
そんないい歳してラッキー! とか子どもかよって思うかもしれないが、男って10代には人格はおおよそ完成してる気がする。
いろんな経験を経て、いろんな知恵を得て、いろんな人を見て、すこし器用にはなるけれど、極論、本当はそのまま身体だけが大人になってるだけだと思う。
外にはどこかで『こう在りたい自分』を着飾ってる感じがする。
なので、45歳が実は「幸運」に一喜一憂していても別にいいんじゃないかと思う。
エントランスのポーチを出てエレベーターホールへと歩き出す。
11階建てのマンションのエレベーターはこの階で止まっていた。
(うん、1/11でさっそく幸運を引いた)
ひとつめのラッキーに感謝をしながら1階へ。
マンションの敷地を出て大通りの交差点へと辿り着いた。
信号待ちもタイミング良く、待ち時間はほんの少しだ。
(はい、ふたつ)
ふと空を見上げた。遠くには早くも力強く入道雲が立ち上っており、その横にはぽっかりと大きな白い月が浮いている。
私は昼間に見える月が好きだ。
まるでその間に暗い宇宙なんて存在しないかのように、青空に浮かぶ月はとても清々しく美しい。
同じく信号待ちをしている隣の人には聞こえない程度の声で、私は自分に声をかける。
「幸運みっつ」
すぐに信号が変わり、横断歩道を渡った私は少し先に空車のタクシーを見つけて手を挙げた。
ジャストタイミングでタクシーが見つかったことで、私はまたつぶやく。
「今日はついてるな。ラッキーが止まらないじゃないか」
ウインカーを出して左車線に寄せながら信号待ちをするタクシー。
ところが、後から少し遅れて横断歩道を渡ってきた若者が私の手前でタクシーに手を挙げた。
わざわざ「私が先ですよ」と告げるのもどうにもくすぐったい。
明らかに意図的な横取りなら文句も言うが、彼もこちらが先に手を挙げたのを知らずにいるのかもしれない。
なのでこんな時はよほど急いでない限りは大人の対応をすることにしている。
信号が変わり交差点を渡ってきたタクシーに若者が乗り込むのを見送りながら、誰にも聞こえない声で三度私につぶやく。
「ラッキーを譲った分、次はラッキー10倍だな」
こうやって考えれば、嫌な思いを忘れられる。
こっちが先だと伝えて乗り込んだとて、そのあと少し嫌な気分で過ごすのも目に見えている。
意図的に作り出したとはいえ「優しい気持ち」で、損した気分を補うに限るというもの。
その時だった。
若者を乗せたタクシーが私の前を通り過ぎ、少し先でふらっと車線変更をしたところに、猛スピードの大型トラックが突っ込んできていた。
「あ、マズい」
目の前に起きるであろう凄惨な場面を瞬間的に察した私は思わず目を閉じる。
「カラーーーーーーン」
けたたましい重低音のクラクションや背中をゾクッとさせるような衝突音が鳴り響くと思っていたところに。
突然、場違いな大きな鐘の音が鳴った。
時間にして体感10秒ほどか。
場違いな鐘の音が音叉のように残音を響かせる中、恐る恐る目を開けた私の前に見えた光景は理解を超えたものだった。
「え………なんだこれ」
ゆっくりと目を開けた私は周囲の様子に驚きを隠せなかった。
目に映るすべてのものが写真のように静止している。
そしてそのすべてが色を無くした灰色の世界だった。
―――――――
「え!? なんだ!?」
突然の状況に理解が追いつかない。
周りのものすべてが静止している。
後部座席がひしゃげる途中のタクシー。
車内には助手席へ吹き飛ぶ若者の後ろ姿が見える。
トラックでは弾け割れる寸前のフロントガラスに突っ込んでいる運転手の顔が見える。
私の隣にいた女性は悲鳴をあげている途中で、美人も台無しな残念な瞬間でフリーズしている。
「いやいや、なんやねんこれ、ありえへんやろ」
関西から上京して20年と少々。東京での生活が人生の半分を超えてすっかり標準語が馴染んでいたのに、とっさに言葉になったのは関西弁だった。
いや、どうでもいいな。
パニックになりながらも周りを見渡す。
目に映るそのすべてが色を失い灰色になっている。
まるでモノクロの写真のようにすべてが静止しており、なにひとつ音のない世界で、私にはなにが起きているのかまるでわからなかった。
あるいは私も止まっていて意識だけがあるのかと自身に目を向けてみると、私だけは色のついたままだった。
思わず身体を触ろうとして、自分だけはどうやら普通に動けることもわかった。
「何が起きてるんだ?」
思わず声に出して自問する私の耳に、答えとなる声が届く。
『時を止めたのだよ。君は本当は心の何処かで理解できているはずだ。わかるだろう。私は神だ』
―――――――
透明感のある、それでいて明らかにすべてを超越したような……威厳に溢れ、恐ろしくもありそれでもすべてを包み込むような優しさに満ちた声に、不思議と心は落ち着きを取り戻していく。
姿は見えない。でも声ははっきりと聞こえる。
空から届くようでもあり、目の前から聞こえるような、あるいは頭に直接届いているような。
ともかくも普通ではないことだけは理解できた。
「なにが……なにが起きているんですか?」
姿は見えないけれど、なんとなく正面の少し斜め上の方に向かって尋ねてみると、そこから声が返ってきた。
『うん、少し落ち着いたようだね。でももう少しかな。さあ、目を閉じて深呼吸してごらん』
言われたとおりに深呼吸をする。
足りずに二度三度。
すると心は落ち着きを取り戻し、ようやく冷静になった気がした。
「はい、もう大丈夫です。いったいなにが起きたのか教えていただけますか?」
『いいだろう。あまり時間がないので簡潔に伝えるよ』
『あと半年でこの世界は終わる。
そのことを君に伝えに来たんだよ』