表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

習作短編集

灰燼の種、暁の風

作者: 照己かど

乾いた風が、灰と砂塵を巻き上げて空を舞う。エルドラ大陸を覆う鉛色の空の下、ゼノン・クレイヴンは荷馬車に揺られていた。六十を過ぎた元騎士の顔には深い皺が刻まれ、その鋭い目は、過去の亡霊と、この荒廃した世界の行く末を同時に見据えているかのようだった。諦念と、それでも捨てきれない観察眼が同居する瞳。

彼は戦商。だが、それは表向きの姿。かつて所属した「銀狼騎士団」が「カルナスの惨劇」で壊滅し、汚名を着せられ追放同然となったあの日以来、彼は終わりのない巡礼の旅を続けていた。失われた命への贖罪、そして戦乱の現実を見届け、成すべきことを見つけるための旅。そして、あの惨劇の日以来、時折彼の精神を苛む奇妙な「視界」――差し迫る危険や強い悪意、人々の絶望や恐怖といった感情の奔流が、断片的な映像や、時に焼け付くような痛み、あるいは冷たい色として流れ込んでくる、呪いとも祝福ともつかぬ能力の意味を探る旅でもあった。


荷馬車が、焼け落ちた村の残骸に差し掛かる。ゼノンは馬を止め、瓦礫の中を歩いた。鉄屑、割れた陶器、使い物にならない武具。虚しい喪失の残滓。その時、彼のこめかみに鋭い痛みが走った。目を閉じると、暗闇の中に、弱々しく明滅するか細い生命の光と、それを押し潰そうとする深い絶望の「色」――暗く、冷たい藍色――が視えた。まただ、とゼノンは眉を顰める。この忌まわしい感覚は、いつも不意に訪れ、彼にカルナスの惨劇の記憶を呼び覚ます。

感覚が示す方へ足を向けると、崩れた石壁の影に、煤と泥に汚れたエルフの少女がうずくまっていた。リラと名乗った少女は、ゼノンの差し出した食料を貪るように食べた。その必死な姿に、ゼノンはカルナスの戦場で守れなかった者たちの面影を見た。あの時も、こんな絶望の色が戦場を覆っていた。見捨てるという選択肢は、彼にはなかった。それは騎士の矜持か、あるいはこの「視界」がもたらす共感の痛みか。


「……俺についてくるか? 保証は何もできん。それでも、飢え死にするよりはマシかもしれん」


リラはゼノンの目をじっと見つめた。その翠色の瞳の奥に、恐怖と疑念、そして縋るような小さな希望の灯火が見えた。やがて、彼女はこくりと頷いた。

こうして、老いた追放者とエルフの孤児の旅が始まった。ゼノンは、この出会いが自身の巡礼と、そして忌まわしい「視界」に何か変化をもたらすかもしれないと、漠然と感じていた。この少女の持つ純粋な生命力が、彼の呪われた能力に影響を与えるのだろうか?

遠く離れた丘の上、フードを目深にかぶった人影――カラス――が、手のひらに収まる滑らかな黒曜石の装置を覗き込んでいた。装置の表面には、ゼノンとリラの姿が淡く映し出されている。


「対象ゼノン、ステージ1クリア。予期せぬ変数(エルフの孤児)との接触を確認。興味深い。監視を継続、ステージ2へ移行する」


***


旅の中で、ゼノンはリラに知識を教え、リラはゼノンに心を開き始めた。読み書き、計算、生存術。ゼノンが授ける知識は、単なる生きる術ではなく、かつて銀狼騎士団が重んじた「知性による克己」の精神の断片でもあった。そして、リラは自身が持つ古代エルフ魔法の断片――遠くの音や光景を知覚する力――をゼノンに明かした。


「すごいな、エルフの魔法か。失われたと思っていたが」


ゼノンは感心した。リラが集中し、小石に淡い翠色の光を灯す瞬間、ゼノンの「視界」が奇妙な反応を示した。普段は制御不能で苦痛を伴う感覚が、リラの魔法の穏やかな波動と共鳴するように、わずかに静まり、クリアになるのを感じたのだ。まるで濁った水が澄んでいくように。これは一体……? リラの魔法は、彼の能力に干渉するのか?

その夜、野営の焚き火の揺らめきを、闇に紛れて一羽の鴉が見つめていた。その知性的な双眸は、リラの魔法の波動と、それに呼応するゼノンの微かな精神的変化を正確に捉えているようだった。鴉は音もなく飛び立つと、夜空へと消えていった。


数週間後、彼らは街「ボルゴス」に到着した。ゼノンは物資の補充と情報収集を行う。市場の喧騒の中、ゼノンの「視界」が再び警告を発した。人混みの中に、粘つくような強い悪意の感覚が渦巻いている。同時に、リラもまた、市場の隅に立つ屈強な男たちの殺気にも似た不穏な気配を、エルフの鋭敏な五感で察知する。傭兵団「鉄血団」の者たちだった。二人の感覚が、異なる経路で同じ危険を捉えていた。


「……行くぞ」


ゼノンはリラの手を引き、人混みに紛れる。背中に突き刺さる視線を感じながら。彼らが立ち去った後、市場の屋根の上でカラスが黒曜石の装置に記録を残していた。


「対象、危険察知能力向上。エルフの娘との感覚共有、あるいは能力の共鳴現象か? 興味深いデータだ。鉄血団による刺激は有効と判断。次の段階へ」


その夜、宿屋でゼノンは鉄血団の存在に眉を顰めた。彼らのような無秩序な暴力は、ゼノンが最も嫌うものだ。同時に、昼間の「視界」とリラの感覚が連動したことに、彼は新たな疑問と、そして微かな希望を抱いていた。この忌まわしい力は、あるいはリラと共にいることで、制御可能なものになるのかもしれない。だが、それは同時に、リラを更なる危険に晒すことにも繋がるのではないか?


***


ボルゴスを出て数日後、夜の野営中にリラが鉄血団の騎馬隊の接近を察知した。ゼノンは即座に身を隠し、難を逃れる。鉄血団は東の「砂岩のオアシス」へ向かっていた。市場で聞いた噂――オアシスに税が保管されている――がゼノンの脳裏をよぎる。


「リラ、頼みがある。さっきの魔法で、連中の目的を探れないか?」


ゼノンは言った。 リラの魔法は、鉄血団が税を強奪し、住民を皆殺しにする計画であることを明らかにした。その情報と共に、ゼノンの「視界」にも、オアシスで繰り広げられるであろう惨劇の断片――炎、悲鳴、血の匂い――が、カルナスの記憶と共にフラッシュバックし、激しい苦痛をもたらした。

見捨てるか? 戦商ならばそうするだろう。だが、脳裏に焼き付く惨劇の光景と、騎士としての魂がそれを許さない。そして、この奇妙な力が、まるで「行動せよ」とでも言うように、彼を突き動かしていた。


「リラ、お前の魔法で、連中の邪魔をする」


ゼノンは決断した。それは合理的な判断ではなかったが、彼の中の何かが、そうすべきだと強く訴えていた。これは贖罪なのか、それとも新たな責任の始まりなのか。その頃、鉄血団が通り過ぎた道を見下ろす別の岩陰で、カラスが通信用の魔法具に囁いていた。


「鉄血団、砂岩のオアシスへ向かう模様。予定通り。対象ゼノンの精神的負荷、能力の活性化を確認。エルフの娘の介入も想定内。観察を継続せよとの指示に変更なし」


***


リラの魔法――偽りの魔物の咆哮と、夜明け前の偽りの閃光――によって、鉄血団の襲撃計画は阻止された。谷間の入り口で傭兵たちが混乱し、撤退していくのを、ゼノンとリラは丘の上から見守っていた。リラは疲労困憊だったが、その瞳には達成感が浮かんでいた。


「やった……」

「ああ、お前の力だ」


リラが安堵の息をつく。 ゼノンは頷いた。だが、彼の心は晴れなかった。鉄血団の動きはあまりにも都合が良すぎる。まるで、誰かがこの状況を作り出し、自分たちを試しているかのように……。彼の「視界」が、背後にある冷徹な意志の存在を捉えていた。


その時、背後に静かな気配を感じ、ゼノンは振り返った。いつの間にか、黒い外套をまとった人物――カラス――が立っていた。感情の読めない瞳が、ゼノンとリラを射抜いている。


「興味深い結果だ、ゼノン・クレイヴン。そして、エルフの娘。お前の力は、我々の予想を超えて成長しているようだ。特に、その娘との共鳴は興味深い」


カラスは抑揚のない声で言った。


「貴様……」


ゼノンは剣の柄に手をかけた。


「鉄血団の動き、お前が仕組んだのか? 我々を試すために?」

「我々は観察者だ。時に、事象の流れを僅かに変えることもある。お前の力が、この世界の混沌にどう作用するかを見極めるために」


カラスは淡々と答えた。


「お前の内に眠る力、それは世界を揺るがす可能性を秘めている。我々はその可能性を評価している」

「何の話だ……俺の力だと?」


ゼノンは自身の「視界」のことを言われているのだと悟った。この者たちは、彼の能力を知っていたのだ。


「そうだ。カルナスの惨劇がお前を目覚めさせた。お前がその力をどう使うか、我々は注視している。お前は、我々『黙示録』が選定した『種子』の一つなのだから」


黙示録……種子……? 計画の一部ではなく、観察対象、そして育成対象。ゼノンの脳裏に、怒りとは違う、冷たい侮辱感が湧き上がる。自分の苦しみも、リラの力も、全てはこの者たちの計画と評価のために弄ばれていたというのか?


「断る。俺の力は、お前たちの評価のためにあるのではない。俺は、俺自身の意志で、守るべきものを守るために使う。お前たちの思惑など知ったことか」


ゼノンは低い声で言った。


彼の言葉と同時に、ゼノンの「視界」がかつてないほど鮮明に、そして力強く広がった。それはもはや苦痛ではなく、彼の意志と共鳴する確かな力の奔流だった。隣に立つリラの翠色の瞳もまた、強い光を放ち、二人の力が共鳴し、カラスに対峙する。カラスはゼノンの強い意志と、二人の共鳴が生み出す未知の力に、一瞬、その無表情な仮面の下で驚きを見せたように見えたが、すぐにそれを押し殺した。


「……なるほど。予想外の反応だが、それもまたデータだ。お前の選択、記録させてもらう」


カラスの声は、わずかに温度を帯びたように聞こえた。


「力には責任が伴うことを忘れるな。我々の観察は続く。お前がその力をどう使い、どこへ至るのか、見届けさせてもらおう。次の『試験』でな」


そう言うと、カラスは影に溶けるように姿を消した。後には、一枚の黒い羽根だけが残されていた。対決は、決着を見ないまま持ち越された。


***


砂岩のオアシスに、静かな朝が訪れた。人々は、昨夜の奇妙な出来事について噂し合っていたが、自分たちが鉄血団の襲撃から免れたことには気づいていない。

しかし、彼らが通り過ぎた他の場所では、後に「灰色の外套の老人と銀髪の少女が、鉄血団を退けたらしい」「あの老人はただの戦商ではない。かつての銀狼騎士団の生き残りだそうだ」「彼らは弱き者を助ける、影の守り人だ」という根拠のない噂が、静かに、しかし確実に囁かれることがあった。


ゼノンとリラは、オアシスには立ち寄らず、再び西へと向かう道を歩んでいた。カラスの言葉がゼノンの頭の中で反響していた。観察は続く……次の試験……。彼らの介入は、まだ終わらないだろう。そして、自分の中のこの力は、一体何なのか。


「ゼノン、私たちはこれからどうするの?」


リラが尋ねた。その顔には、疲労の色は残るものの、確かな自信と、ゼノンへの揺るぎない信頼が宿っていた。


「さあな。だが、どこへ行くにしても、二人だ。そして、お前には学ぶことがまだたくさんある。俺にもな。この力との付き合い方も含めて」


ゼノンは空を見上げた。鉛色だった空には、少しだけ青空が覗いている。ゼノンの心境は、カラスとの対峙を経て、さらに変化していた。騎士団の名誉回復や、社会的な地位を取り戻すことへの執着は、もはや薄れていた。カラスの言う「計画」や「評価」など、どうでもいい。重要なのは、自身の内にある力とどう向き合い、誰のために、何のために使うかだ。そして、その隣には、この力を理解し、共鳴してくれるリラがいる。

彼は公式には依然として「追放者」のままだろう。それでいい。彼は「名誉ある追放者」としての道を選んだのだ。権力や地位ではなく、自らの行動と信念によって示される価値。それこそが、彼がこの荒廃した世界で見出した、真の名誉だった。


過去の贖罪のための巡礼は、自身の信念に従い、制御し始めた力と共に歩む、誇り高き旅へと変わった。力だけが支配するのではない、知恵と慈悲、そして覚醒した力が息づく未来を、この手で切り開くために。

灰燼の中から拾い上げた小さな種は、今、確かな意志を持って芽吹こうとしていた。老いた追放者とエルフの孤児の前には、静かな変化を告げる風が吹き始めていた。それは、絶望の荒野に希望の兆しを運ぶ、暁の風だった。


カラスが残した羽根は、その風に舞い上がり、彼らの行く末を――あるいは、次なる試練の始まりを――静かに、そしてどこか興味深げに見守っているかのようだった。


<了>

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ