Capture1-4 例えエゴだとしても
天使の少年の姿は、大きな大剣へと変化した。しかし、柄を握れば、心臓の鼓動が聞えてくるようで、剣が生きているということをツバサは感じていた。そのなんともいえない、生きた剣の感覚に戸惑いつつも、両手で握り込み、高く突き上げる。勇者が伝説の剣を引き抜いたような、そんな高揚感に包まれ、光り輝く大剣にツバサは心を奪われていた。自分の背と大差ないほど大きい剣は、見た目はがっしりと金属の塊のようにも思えるが、天使の羽のように軽く、手を離せば飛ばされてしまいそうなほどの重量だった。
「どういう仕組みなんだ。これ」
『煩い。早く、しろ』
「うわあっ!? 剣が喋った――って、お前、意識」
『あるに決まってるだろ。あまり振り回すな、酔う』
と、剣から声が聞えたと思いきや、声はどうやら脳に直接響いてくるような感覚らしく、ツバサは大事そうに剣を掴みながら、顔が反射するほど美しい刀身を見た。
「酔うって、感覚あんのかよ。てか、これ、何だよ。どうなってんだよ」
『どうって、お前と≪合体≫しただけ』
「≪合体≫?」
『詳しいことは、ここを切り抜けてから話す……この姿のままなの嫌だし、狭っ苦しいから、早いとこ、天使を殺して現実世界に帰るぞ』
剣に変化した少年は、早くしろと急かした。狭いという感覚があるのかと、ツバサは驚きつつも、彼の言葉に頷き、大剣を担ぐように持って構えた。重さなど感じず、まるで身体が剣に見合ったようなそんな感覚だった。正面で天使が手を翳しているのが見えたので、息を呑み込んだ。身体を低くし、駆けだすのと同時に足を踏み込み加速する。風圧すらも振り切りそうなほど素早く、大きな剣を抱えたまま走り抜けるツバサは、二体の天使の間を潜り抜けるように走り抜けた。そして、剣を思いっきり横に振ると、天使の首が吹っ飛び、霧散する。
「ふわっ!?」
ツバサは勢い余って前のめりになりそうになるも、足を踏み出して耐えてみせる。背後をみれば、もう一体の天使が風を発生させているのが見えて慌てて数歩下がった。
「ほんと、精神世界って勝手が分かんねえ。え、今の俺? 音速ではしってねえ?」
自分の身体が妙に軽いこと、身体強化が施されているような気がしたこと。ツバサは、その全てに驚き、喜びのあまり跳ね上がった。ただその場でとんだだけなのに、軽く一メートルは上に飛躍する。
『おいっ』
剣から少年の声が響く。
「何だよー今、最高の気分なのに」
『前見ろ。ちゃっちゃとしろ。くるぞ』
確実に殺意を持って、殺しに来ている天使を目の前に、剣と体一つで戦っている自分も、また異常なのだが、と理解しつつツバサは、少年の声に応答する。
「くるって……あ、また増えてる?」
『天使は、無限に湧いてくるぞ。宿主を探せ』
「宿主? 何……ああ、母親」
『そう。精神世界の中心には、『天使病』にかかった患者、宿主がいる。必ずじゃないけど、患者だったり、ウイルスの大本である天使だったり。それはまちまちだと思うけど……そいつの元に行って、そいつを精神世界に繋ぎとめてる天使を切れ』
「りょーかい。詳しいなあ、相棒」
『誰が、相棒なんか……早くしろ。どんどん湧いてくるからな』
と、急に饒舌になった少年に対して、ツバサは苦笑いを浮かべる。さっきまでは、面倒くさがっていたのにどこでスイッチが切り替わったのだろうか。何はともあれ、やる気になってくれたことは、ツバサにとっても好都合だった。
少年は、ツバサに宿主の居場所を教えるために言葉を掛けてくれたのだ。
背後には二体の天使が待ち構えている。しかし、先ほどのような絶望感はなく、ツバサは剣を振り上げた。そして、再び、体勢を低くし足を踏み込み走り出すと、少年が言う通り天使たちは襲い掛かってくるので、その首を斬る。頭部を失った天使は、光の粒子となって消えていく。そこに、血や、臓物のようなグロテスクな物は残らない。散る最後の瞬間まで美しく儚かった。
しかし、少年の言うとおり、天使は切っても切っても無限に増え続け、どこからともなく湧いて出てくる。それを、切っては走り、切っては走りを繰り返し小麦色の草原をかけていく。果てしなく続いているんじゃないかと錯覚するぐらい、また同じ所をぐるぐると回っているのではないかと錯覚するぐらい、どこを見ても同じ景色だった。これでは、どこに宿主がいるのか分からない。
「どことか……」
『今探してる。西に、五百メートルほど』
「西ってどっち!?」
『頭悪いな、アンタ! 今アンタが走ってるのが北……ああ、もう左に向かって走れッ!』
「最初からそう言えよ……りょーかい、りょーかい。左、五百な」
ツバサは、少年の指示の通りに走った。切り刻みながら走り、時折目の前から襲い掛かってくる天使の首も刎ねていく。そうしていると、声が聞えてくる。
幸せそうな、家族の笑い声のようなものが。
聞きたくないような、嫌悪感を覚えるような声だ。ツバサには、そんな思い出がなかったから。ツバサは思わず顔を顰めてしまうが、この声だけは絶対に宿主のものであると直感的に察した。
その宿主がいる方向に進めば進むほど増える天使に嫌気を覚えつつ、大剣を振るい続ける。そしてついに声が聞こえたところだと思われるところに立つ一人の女性と他とは違う、顔のある天使がいた。といっても、顔があると認識できるだけであり、不思議なことにその顔が男なのか女なのか、判別できないのだ。ただ、その天使が、この精神世界を形作っている天使ウイルスの親玉だと、ツバサはゆっくりと近付く。家族の笑い声が聞えたはずなのに、そこにいるのは、女性だけなのだ。しかし、その天使と女性は自分に気付くことなく、二人で楽しそうに会話を続け、ツバサの事は視界に入っていないようだった。我慢という言葉が苦手なツバサは、思わず声を荒げてしまった。
「おいッ!」
すると、ようやく、女性と顔のある天使がこちらを振向く。明らかに、天使は顔を歪め、威嚇のように大きな白い羽を広げる。
「だれ、誰?」
「……穴津子こむぎちゃんの、お母さんですよね」
「……っ、あなた、誰? こむぎの、何?」
女性――こむぎの母親は眉を潜め、ツバサを見た。また、彼が握る大剣を見て恐ろしそうに天使に身体を寄せる。母親には、天使が何かに見えているのだろうか。
「貴方を連れ戻しに来ました。こむぎちゃんが待ってます」
「こむぎは、ここにいるわ。それに、ここにいた方が幸せなの。皆、ここにいるほうが、幸せなのよ」
「それは――貴方の、触れているそれは天使です。人を殺す、天使です」
「天使? 違うわ。彼は、私の夫よ」
と、女性は、天使の首に腕を回した。すると、天使は嬉しそうに目を細め、母親の手に口づける。
それを見てツバサは、思わず気持ちが悪くなりそうになったが、唇を噛みしめて堪えた。母親はきっと幻覚か何かを見せられているのだろう。『天使病』の特徴として、感染した人間は幸せそうに息を引取る。その理由が今分かった気がしたのだ。彼ら彼女らは、精神世界で、幸せな夢を見て、現実を捨てて死んでいくのだと。だから、自ら『天使病』を克服し、戻ってくるものはいないのだと。『天使病』、別名・安楽死病。
そんなのまやかしだ。しかし、『死にたい』くらい辛い現実から逃げたくなる気持ちは、分からないでもなかった。それでも、自ら”死”を受け入れることは――
母親は幸せそうだ。死にたくなるような現実から切り離された、幸せな精神世界で息を引取ることが、母親にとって幸せなのかも知れない。ツバサの母親も、きっとそれを受け入れて息を引取った。
だからといって、それが許されていいのか。
――分かっている、分かっている。エゴだと。
ツバサは剣の柄をグッと握りしめた。
他人の痛みは、理解できない。その人にしか分からない痛みなのだから。尺度は、人それぞれだと。
でも、『死にたい』くらいの苦痛に追いやった人間もいれば、その『死にたい』人間に生きて欲しい人間もまたいるわけで。その人の死が、他の人の死に繋がるようなことはあってはならない。この負の連鎖は断ち切るべきなのだと。例え、辛い現実に向き合うことになったとしても。
ツバサはふぅ……と大きく息を吐き、剣を構えなおし、女性に向かって叫ぶ。
「貴方に何があったか知らねえけど、貴方に生きて欲しいって叫んでる人間がいるんだ。だから、貴方のまやかしの幸せをぶっ壊させて貰うぜ」
そして、ツバサは女性に向かって走った。いつの間にか湧いていた、顔なき天使が手を伸ばすも、それを避けながらすれ違いざまに横一閃に切り落とす。
そのまま速度を緩めずに、母親の前に回り込むと剣を振り上げた。その母親の顔は、驚愕というよりも恐怖に満ちていて、今更何を怖がる必要があるんだか、とツバサは鼻で笑った。死にたいって思ってるのに、死が怖いのかと。
そして――ザシュッと肉を切り裂く音が草原に響いた。それと同時に、ツバサの目の前に天使の羽が舞い散る。
「え……ああ、ああああああっ」
母親は、わななき、泣き叫び、崩れ落ちた。
ツバサが切ったのは母親ではなく、母親にまとわりついていた天使なのだ。天使は、最後の最後まで母親を守ろうとしていた。まるで、本当に彼女を愛しているように。庇ったのだ。攻撃などせずに。
「なんで、なんで……死なせてよ。お願い……っ、私はここにいたいのっ」
「それでも、貴方を待ち望んでいる人がいるんだよ。死にたくても生きろ」
「酷い、酷いわ。私は、死にたいのに……こむぎを産んだ日に、夫は亡くなったの。こむぎから、どこまで話を聞いているか分からないけれど、私達に暴力を振るっていたのは、夫の兄よ」
「離婚したって、こむぎちゃんは言ってました」
「……そうね、そういうふうに伝えたわ。まだあの子に、本当の父親が亡くなったなんて酷すぎるもの。でも、暴力を振るっていた夫の兄を、父親だなんて……そう教えている方が辛かったわ」
「……生きて下さい。こむぎちゃんのために」
「また、辛い現実に向き合わなきゃ駄目なの?」
「職場を変えるとか……色々、方法はあるんじゃないですか」
ツバサは、まともに働いたことがないので、それが一番の改善策だと母親に伝える。しかし、母親は、涙を拭いながら答える。
「現実って、甘くないわ。次の働き口を探すまでに時間がかかるでしょ。その間も、また苦しまなきゃいけないの。こむぎの将来だって――お金がなきゃ、何も出来ないわ。頼れる人もいないの。こむぎを幸せにできない、母親も失格よ。生きている価値なんて、もうないのよ」
「そう、ですか」
「貴方は、私を助けるべきじゃなかったわ」
と、母親がいうと、風が吹いていた小麦畑は白い光に包まれ始めた。精神世界の崩壊が始まったようで、パラパラと、蛍のような光の粒子が空へ吸い込まれていく。
剣の姿をとっていた少年は、ふわりとその身を人間の形に戻し、ツバサの手を握る。ツバサは、自身では気づいていなかったが震えていて、少年はそれに驚きツバサの顔を見た。ツバサは、母親の方をじっと見つめていて、何も言わなかった。
「……有栖」
「……帰ろう。現実に」
ツバサはそう呟き、少年の手を握り返した。精神世界は瞬く間に崩壊し、ツバサと少年の意識はゆっくりと解けるようにしてそこから消滅していった。