Capture7-4 雨の中二人
「うわ……すげえ、雨」
「……傘持ってきて正解」
ネガウを追ってやってきたのは、第八支部の屋上回だった。屋上は、天気がいい時にはここで弁当を食べる社員や、日向ぼっこをする社員がいるほど日当たりのいいところだ。また、社員寮ではなく、第八支部で使ったシーツや、服などを干す物干しざおが置いてある。
しかし今は土砂降りの雨、きれいに整備されているとはいえ、くぼみには水たまりが出来、鉛色の空から絶えず跳ね返るほど強い雨が降り注いでいた。そんな屋上回のフェンスを掴み、一人、ネガウは雨に打たれていた。
先をいったツバサに合流したミカヅキは、まだツバサがネガウに話しかけていないことに安堵しつつ、雨の中傘もささずに濡れているネガウのことが、多少は心配になってきた。持ってきた、ビニール傘を掴み、渡すべきか、と考えていると、ツバサがミカヅキの方をちらりと見た。鉛色の景色に見合わないほど、鮮明な青が自分を捉え、不本意にもドキッと心臓が飛び跳ねる。雨の湿気のせいか、ツバサのツンツンの髪の毛も、いつもよりしなびてしっとりとしているような気がした。
「俺、話しかけてくるわ」
「正気? 雨すっごく振ってるんだけど……で、傘」
「傘持ってきてくれたのか? サンキューな。マジで、気が利くわ」
「アンタが、気が利かないだけだろ」
と、いつものように毒を吐くが、ツバサもまたいつものように毒を吐かれたことには一切気づいていないようで、ありがとう、なんて晴れたような笑顔を向けてくる。ポジティブもいいところで、落ち込んでいるときにこんな風に話しかけられてもな……と思ってしまう。ネガウがどうかは知らないが、自分と同族だと思っている彼女が、元気はつらつなツバサに話しかけられても鬱陶しいだけなのではないかと思った。やはり、日を改めた方がいいのでは? と、ツバサに言おうとすると、ツバサは、すでにネガウを見据え、いつもは見せない真剣な表情で彼女を見つめていた。
ただの馬鹿ではない。人の痛みに寄り添える馬鹿だと、ミカヅキはツバサの方を見る。しかし、何て彼が声をかけるのか、想像がつかないため、恐ろしい。余計なことを口走るのではないかと、保護者のような感覚で見てしまう。
「おい、傘」
「んー持ってきてくれたのはサンキューだけど、俺このままいくわ」
「何で!?」
「俺、たぶん、そういうの似合わないから」
そういうと、ツバサは、雨が降り続ける鉛の空間に足を踏み入れ、パシャパシャと水たまりの水をはねさせながらネガウのもとに向かった。白黒の世界でも、その鮮血の赤はバカみたいに目立っていた。
「――ネガウ!」
「……」
「ネガウって。ネガウだよな? よかった。ここ一週間、顔見れてなくてさ」
「……何しに来たの?」
雨に濡れた彼女の顔は、張り付いた前髪で少し見えにくかった。視界も悪いこともあり、ツバサは何度か瞬きをしてピントを合わせる。幸い、というか、ネガウは泣いてはいなかった。けれど、食事をとっていないのか、少しやつれているような気もした。
「いーや、何しに来たっつうか。うーん、そうだな。ネガウに会いに来た」
「何それ。馬鹿じゃないの。こんな雨の中」
「それを言うなら、ネガウだって濡れてるだろ?」
「……用がないなら帰って」
ツバサの調子に、ネガウは冷たくそういうと、銀色のフェンスをぎゅっと握った。あとになるのではないかと、ツバサは手を離させようとしたが、触れて、拒まれるのが嫌で行動に移すことが出来なかった。
いつも冷たく、虫でも見るような目をしていた彼女の瞳が陰っていた。落ち込み、悲しみの色が見えるそのオパールの瞳には、亡き相棒の影移りこんでいる。
「話がしたい」
「話すことはないから帰って。一人にして」
「んなこといったら、一人にできない」
「……どうせ、馬鹿なあなたのことだから、心配で声をかけに来たんでしょ。そういうの、本当に余計だから、おせっかいだから……」
一人にしてほしい、と心から絞り出したような声に、ツバサは一歩後ろに足を引きそうになった。ミカヅキの言った通り、時間が解決してくれることなのかもしれない。今何を言っても彼女に届かないかもしれない。けれど、それでも、声をかけてあげることしかできないし、考えられないツバサは、ここで引き下がることはしなかった。
体の体温が、雨で奪われていく。自分よりも先に雨に打たれていた彼女は、もっと冷たくなっているはずだろう。心だけではなく、体まで冷たくなったら、誰がそれを温めてあげることが出来るのだろうか。
彼女を癒すことが出来る人物はもうこの世にいない。彼女の心をいやすことが出来るあの笑顔を振りまく、ちょっと内向的な花のような少女はもういないのだから。
じゃあ、誰も埋められないのだろうか、彼女の穴を。いや――
「おせっかいだって、分かってる。つか、言われるってわかっててここに来た」
「……本当に、貴方は。一人にしてっていったの、聞こえなかった? 耳もついてないの?」
「俺が、ネガウと一緒にいたいから、いるじゃ、だめ?」
「はあ!? 意味わかんない! もう、帰ってよ。ほんとう……」
「――俺だって悲しい」
「……っ」
「――って、いったら、ネガウを傷つけるだろ? 相棒を失って悲しいのはお前だし、お前が一番牡丹の近くにいたんだから、一番悲しいのはお前だよな。その悲しみを、別に俺は分かち合うためとか、軽くするために来たんじゃない」
「……じゃあ」
「話聞くの、下手くそだけどさ。話してほしいって思って。話し相手になら、慣れると思って。もちろん、一番悲しいのはお前って前提で、話聞くぞ?」
ツバサはそう言ってネガウに手を伸ばした。
伸ばされた手を見て、ネガウは困惑の表情を浮かべる。言っていることは、かなりめちゃくちゃなのに、どこか筋が通っていて、心に寄り添っているものだと感じたからだ。もちろん、おせっかいで、余計なことで、今はまだ一人で頭の中を整理したかった。けれど、一人で整理させてくれないのがツバサだと。
差し出された手は、救いの手ではないかもしれない。自分を、悲しみから救ってくれるものではないかもしれない。でも、空いた穴を埋めることが出来なくても、そこに新しい種を植えることはできるのではないかと。同じようにふさがらなくとも。
「……貴方、馬鹿そうだから、何を話しても、うん、とか、そうだな、とかしか返ってきそうにないのよ」
「え、なんでわかるんだよ」
「本当に、話し相手になってくれるの? それで?」
と、ネガウは、伸ばした手を止めてツバサを見る。青空の瞳は泳ぎつつも、すぐにぶんぶんと頭を横に振って「聞く! 聞くことならできる!」とぐっと手を前に突き出した。
まっすぐなその手に、馬鹿みたいに緊張している顔に、ネガウはおかしくなってその手にスッと触れる。小麦色の肌に、自分の白い手が重なり、そして、ぐっとひかれる。
「ちょ、ちょっと……強引が過ぎない?」
「わ、わりぃ……思った以上に、引っ張りすぎた…………って、ネガウちゃんと女の子なんだな」
「何よそれ」
「いや、精神世界でめっちゃ強いし……いや、だからって女の子としてみていなかったわけじゃなくってさ。ほら、か弱いっていうイメージが俺の中にあって」
「女の子がか弱いって、いつの時代のイメージよ。私は……私は、強いわ。でも、弱いところだってある……人間だれしもそうじゃない」
ネガウは、自分の白い手に重なった小麦色の手をまじまじと見つめた。雨に濡れて冷たくなった手は熱を宿し、徐々に温かくなっていく。
「そうだな。人間だもんな」
「…………私、牡丹に言えなかったことがあるの」
「言えなかったこと?」
降りしきる雨の中、かき消されるような声でネガウは続ける。
「牡丹が、私の相棒……隣に立てるように頑張るって言ってくれていたの。ずっと、ずっと……ね。でも、そんなに頑張らなくても、私の相棒は彼女だったし、私だって、牡丹に心配かけないように、早く治療してかえってこようって頑張ってた。でも、すれ違っていた。言葉に出さなかったから」
「確かに、牡丹……」
「貴方たちがうらやましいとも言ってたわ。人間と天使。それでも分かり合えて相棒になれて。自分もそうなれればって。ずっと、私が牡丹のこと不安にさせていたの」
ネガウは、ツバサの手を優しき握り返す。少し震えているようなその手を、もう片方の手で包む。
「私が何で助かったか知ってる?」
「牡丹のおかげ、としか」
「そう、牡丹のおかげよ。あの日の『天使病』の患者は治療できなかった。牡丹は、死ぬ直前、私が現実世界に帰ってこれるようにと≪強制帰還≫を使って私を、こっちに還してくれた。もし、彼女がそうしてくれなければ、私はあの精神世界で彷徨うことになっていたでしょうね。彼女が、命がけて、私を助けてくれた――」
でも、とネガウはそこで区切る。ソロを見上げ、白い雨に数度瞬きした後、目を閉じた。
「助けてくれた命の恩人に、私はありがとうって言えなかった。帰ってきて、隣で血を流している彼女に、私は何もしてあげれらなかったの」
「ネガウ……」
「一緒にいて楽しいこととか、一緒に買い物に行こうねとか、未来の約束をしたかった。私は、臆病で、プライドが高くて、彼女に何も言葉をかけてあげられなかったの! 牡丹の優しさに、私は甘えてた。だから……」
「そう思ってるだけ、お前は強いだろ……牡丹も、そう思ってくれてるって、お前の心に、牡丹がいるだけで、あいつは救われるんじゃないか」
「そんなこと……」
「あるだろ。お前は、別にあいつに対して何も思っていなかったわけじゃなかった。確かに、一歩踏み出せなかったかもだけど、お前の心に、あいつがいた。だから、シンクロ率も高くて、二人で一つ……≪対天使専門医師≫として戦えたんだろ」
と、ツバサはネガウを抱きしめた。
いきなり前から抱きしめられ、前に伸びた手は宙を切る。自分の背中に回された手は優しかったが、振りほどけなかった。抱きしめればいいという問題ではない。けれど、そうしたい、そうしなければ、とツバサを動かしたのは、自分の弱さだろう。
彼に顔が見えないことをいいことに、ネガウは、ツバサの肩に顔を埋める。雨で何もかも流してくれるのなら、今だけは――と、掴むことが出来なかった手を、ツバサの背中に回した。
「私は……そう、≪対天使専門医師≫。でも、牡丹がいなくちゃ、何もできない、ただの愚図」
「そんなことねえよ」
「……知ってるでしょ? 二人で一つ、二人で一人の≪対天使専門医師≫だって、あなたがいったんじゃない。私は、少しの間……相棒が見つかるまで、一緒に戦えない。貴方を助けることもできない」
「助けられなくても、俺強いし」
「天使は強くなっていっている。それは確かよ」
ネガウはそういうと、ツバサの胸を優しくおした。互いに雨でぬれた身体は冷たくなっていたが、ネガウは先ほど見せなかった笑みをツバサに向けた。もう落ち着いたと、そういわんばかりの笑みに、ツバサは目を見開く。
「だから、いざとなった時――私がそばにいてあげられないって考えると、不安になる」
「俺の、こと、心配してくれてんの?」
「さあ、どうでしょう。でも、今あなたに救われたのは事実よ。だから、助言」
「助言って……でも、ネガウは、笑っていた方がいいな。てか、初めて笑ってるとこ見たかも」
「失礼ね」
「すっげえ可愛い」
「……笑うの苦手だから、あまりみないで」
「何で」
ぷいっと、ネガウは顔をそらした。近づき、顔を見ようとしてくるツバサを押し返し「恥ずかしいから」と一言呟くと、耳を真っ赤に染めて、ツバサに背中を向けて歩き出す。その先には、傘を持ったミカヅキがいた。
「……白兎」
「私は、少しの間、戦場から離れるわ。その間、貴方が彼を守りなさい」
「何で、アンタに命令されなきゃいけないわけ?」
「――一緒だから」
「は?」
「貴方にしか頼めないから言っているのよ。貴方は、彼の剣であり盾……有栖ツバサを守護する天使でしょ?」
そう言って、すれ違いざま、ミカヅキの傘を抜き取るネガウ。おい、と引き留めたが、ネガウは振り返ることなく、エレベーターのボタンを押す。チーンと、すぐに来たエレベータに乗り込み、ようやく、その顔をミカヅキに見せた。なんでも見透かしたようなオパールの瞳に、ミカヅキは、その場に縫い付けられたように動けなくなる。
「なあ、アンタは――」
「傘、ありがとう。ミカヅキ。それじゃあ、また」
「おい!」
下に降りるボタンを押したが、一足遅かったようで、扉はしまり、エレベーターは下に降りていった。
「ミカヅキ?」
「……、ベタベタ。そのまま近寄るな」
「ひでえな。ネガウどうだった?」
「どうだったって……まあ、よかったんじゃない? アンタがやったこと、正解だったみたいで」
最初はひやひやしたが、ツバサの行動は、ネガウを勇気づけ、救うものであり、最後観た彼女の顔はすがすがしいほど晴れていた。後ろでふる雨の音も優しくなっていき、もう少しで、晴れそうなクモの隙間から光が漏れていた。
しかし、濡れて肌が透けているツバサを見て、このままじゃ風邪ひくな、とミカヅキは息を吐く。
「馬鹿でも、風邪ひくから、部屋帰って風呂入れ」
「風呂沸かし方わかんねえから、ミカヅキがやってくんね?」
「……まあ、それくらいならいいけど。べたべたなまま部屋の中歩くなよ」
「りょーかい! 相棒!」
都合のいい時だけ……
ミカヅキは、先ほど持っていた傘の感覚がまだあるのか、手を握ったままだった。白い手、ツバサの血色のいい肌とは違う天使の手に、また嫌気がさしつつも、相棒がいいことをしてきた後だ、いやな顔はしないでおこうと、非常階段を指さし、それで降りようと、ツバサに提案し、二人で、長い階段をゆっくりと降りていった。




