Capture1-2 ヒーローごっこ
「てか、アンタ、名前は?」
「あー、ああ、そっか。名前……売り飛ばすつもりだったから、自己紹介とかいいと思ってた」
「何か言ったか?」
「いーやなにも。俺はツバサ、有栖ツバサ。えーっと、お前は?」
「……天使になったら、人間だったときの記憶は忘れる。だから、名前、思い出せない」
「そーいや、そうだった」
「忘れてるなよ」
「わりぃ……っていわれても、天使って呼び方嫌だしな。名前がないのも不便だし」
「……」
「じゃあ、思いついたら名前つけてやるよ」
「なんで、アンタなんかに」
少女に案内されながら、嫌々ながらも天使はツバサについて行く。手錠が繋がれたままで、逃げることができないからだ。ツバサによると、手錠の鍵は家に置いてきたといって外すことはできないらしい。また、少女の家とは真逆の方向に家があるようで、ツバサの家に寄ってから少女の家に行くでは、少女の母親の病状が悪化するかも知れないから――とそれっぽい理由で言いくるめられた。
少年は、はあ……と何度もため息をつきつつ、上機嫌なツバサの背中を見つめるしかなかった。
「お兄ちゃん、有栖って苗字なんだ。不思議の国のアリス?」
「んー、確かに珍しいよな。そ、有栖」
「わたしは、穴津子こむぎ!」
「こむぎちゃんか、可愛い名前だなあ」
「うん、可愛いでしょ」
と、ツバサとこむぎと名乗った少女は楽しげに会話を進める。先ほど泣いていた少女とは思えないくらい、こむぎはツバサとの会話で笑顔になっていた。彼が≪対天使専門医師≫だと分かったからか、それともツバサの話しやすい性格からか。
しかし、少年は、先ほど泣き真似されて捕まったためあまりいい気分ではなかった。人畜無害そうに見えて、天使を金稼ぎの生き物だと思っている男を、少年は好きになれなかった。後ろから殴ることもできたが、自分の白い手は非力で殴ってもピコピコハンマーくらいの威力しか出ないだろう。
天使というのは元々温厚であり現実世界では力を持たない。死ぬことも、苦しいとも感じないし、直接的に人間を殺す事も出来ない。平和な存在なのだ。しかし、天使が存在するだけで、死にたい人間の精神世界に入り込みウイルスをばらまくため、どうしても駆除の対象になってしまう。
「わたしのお母さんね、お父さんと離婚したんだって。半年前、くらいかな……? お引っ越しして。お父さんはね、毎日怒って、お酒飲んで……それでね、離婚したんだって。お母さん、わたしのために仕事頑張ってくれていたみたいなんだけど、仕事場でいじめられて……」
こむぎは、母親が『天使病』にかかった経緯について話した。小さな五階建てのマンションの四階まで、エレベーターで上がり、鞄から鍵を出したこむぎは、話を続けながら歩く。
「わたしが家に帰ったら、お母さん倒れてて。仕事も辞めちゃって。それから、ずっと眠り続けてるの」
「それって、いつ頃から?」
「三週間前くらい、から……お母さん、大丈夫だよね。助かるよね」
こむぎは、心配そうにツバサの方を見た。ツバサは、落ち着かせるために、こむぎの頭を優しく撫でて「大丈夫だ」と言い聞かせる。しかし、ツバサの顔は少し険しかった。
「三週間……か」
「『天使病』は発症から、十三週間後には天使になるっていわれてる。でも、殆どの人間は『天使病』によって引き起こされる天使化に耐えられず息を引取る。三週間、大丈夫だといね。その母親」
「必ず助けるさ、助ける。約束したし」
少年は、嫌味のつもりでいったが、ツバサは現状を把握しつつも、助けると頑固たる意思を見せた。少年は呆れつつも、助かるといいな、と呟き遠くの空を見る。マンションの四階とはいえ、まだまだ空は高く、雨が降りそうだった。暗雲が都内を覆い被さるようにして湧いてくる。
こむぎは小さな鍵で、家を空けると、どうぞ、と扉を開けて部屋の中に入っていった。おじゃまします、とツバサは丁寧にいいつつも、行動はがさつで、靴を脱ぎ散らかしていく。少年はそれを丁寧に揃え端の方に寄せ扉をくぐった。しかし、羽が引っかかり前へ進もうとするとぐいっと後ろに引っ張られるような痛みが走る。手錠は、三メートルほど伸びるようになっているが、伸びたところでちぎれるわけもない。特殊なものになっているため、逃げることはできなかった。
「チッ……」
少年は、舌打ちをしつつ、羽を折りたたみ、部屋の中に入る。部屋の中は、ピンクの絨毯が敷かれており、可愛い内装だったが、何処か寂しく、部屋の奥の方のベッドには、死んだように眠る白い肌の女性が眠っていた。
女性――こむぎの母親は息をしているが、目を覚ます気配はなく、ベッドの上には数枚の数枚の天使の羽らしきものが散らばっていた。三週間とはいえ、かなり症状が悪化しているようだ。この母親が、天使になるか、それとも天使化に耐えられず息を引取るか、それは少年にも分からなかった。ただ、治療しなければ目を覚まさないことだけは、ツバサと同じ認識だった。
「ネットでね、お水は飲ませた方がいいって……『天使病』になったら、飲むことも食べることもしなくなるから、栄養失調でって。病院に電話したんだけど、自宅りょうよう……? でって。点滴、とかないから。お水、でも、お水もここのところ飲んでくれなくて」
どうしたら良いか分からない、とこむぎはベッドに横たわる母親を見てまた涙を浮べる。
こんなにも母親を思ってくれる子供がいるというのに、『天使病』にかかってしまうとは。それでも、こむぎの母親がそれほど思い詰めて『死にたい』と思ってしまったのだから、苦しい事だったのだろう。
ツバサは、大丈夫だから、とこむぎを安心させつつ、少年の方を見た。青色の瞳は、吸い込まれそうで、またヒーローのような正義の灯火が燃えている。
「天使、ちゃっちゃと治療するぞ」
「やり方、分かってるの?」
「分からん」
「分からんって……そもそもさあ、≪対天使専門医師≫は選ばれし者しかなれない貴重な――」
「大丈夫だって。適性はあるって、いってたし」
「誰に……」
「俺の憧れの人」
と、少年の言葉に重ねるようにツバサはいう。ツバサの目には、こむぎを心配させるな、という意も込められており、少年はため息をつくことしかできなかった。
馬鹿だ、馬鹿。
しかし、ここまできて、幼い少女の願いを無視するわけにもいかず、少年は母親の前で膝をつき座り込み、母親の手をそっと握ると、もう片方の手をツバサにむかって差し出した。
「ん」
「手……?」
「≪対天使専門医師≫なんだろ。早くしろ」
少年は、ツバサを急かし、手を取るよう催促する。
ツバサは、驚きつつも、自分の知っている知識に従い、ツバサの手を掴む。病弱な白い手に気味悪さを覚えつつも、ツバサは少年の手をがっしりと掴む。少年は、それを確認し、母親の手に触れた。脈が細く、今にも止ってしまいそうな音に顔をしかめつつも、目を閉じる。ツバサも同じように目を閉じようとすると、こむぎが心配そうにツバサを見た。ツバサは、目を閉じる最後、こむぎに「必ず助けるから」と優しく微笑み、瞼を閉じた。
「≪接続≫――」
少年の凛と鈴のような声と共に、ツバサと少年は意識が混じり合うような、遠くにとんでいくような感覚を覚えつつ、意識の……精神の波にのまれ、現実世界から飛びだった。