七
千鶴の話を黙って聞いていた恵都は、内心ひどく驚いていた。まさか、自分の意思で彼女のもとに戻り体を貸すと約束していたとは思っていなかった。予想外もいいところだ。それならば、変な目撃証言がなかったことも頷ける。いなくなった時には誰かに連れ去られたわけでも、取り憑かれて変な行動をしたわけでもない。それではよほどのことがない限り人目を引くようなこともないだろう。学校の制服を着て竹刀袋を持っている人は多くはないが、それでもとても目立つ、というほどではない。
千鶴と杉は波長があったのも事実なのだろうが、それよりもお互いの望みがうまく噛み合ったのだろう。話を聞いている限り、教わっていた千鶴もだが、それ以上に杉が教えることを楽しんでいたように思う。千鶴を害するつもりはなかったのだろう。ただ、一緒にいる時間が長すぎた。特に合宿が終わった後は、ほぼ四六時中ともにいた。そんな状態で波長があってしまったので、何の違和感もなく、するりと杉が千鶴の体に入ってしまったのだろう。そこに悪意はなかったに違いない。ほんの一瞬しか見ていないが杉とはそういう人のような気がする。
本当は他にも色々と聞きたいことがあった。だが、それはまだ早い。全て吐き出させるのが先決だ。時間はまだあるのだ。焦ることはない。
言いたいことを言ってスッキリしたのか、泣きすぎて疲れたのか、病室へ戻って眠ってしまった千鶴の枕元に名前と連絡先、また来る旨のメッセージを残して一旦帰ることにした。
「うーん、やっぱないな」
パソコンを前に首を傾げている恵都の背後から赤いワンピースを着た少女がのぞき込んできた。
「恵都? 何してるの?」
赤い頭巾とワンピース、手には籐でできたバスケット、世間一般でイメージされているであろう赤ずきんちゃんと同じような格好をしている。赤ずきんちゃんの物語から作られた神の使徒だ。ただ、イメージと違うのは、頭巾にもワンピースにも薄い半透明な花のイラストが描かれている点だろう。このワンピースも頭巾も、もともと恵都がパソコンで描いた絵を元に使徒が作成したものだった。初めて見た時には驚くと同時に自分が描いた絵を気に入って、身につけてくれることが嬉しかった。実はこのカウンセリングルームの家具や小物はほぼ恵都が描いたイラストをもとに彼らが作ってくれたものだ。魔法のように一瞬でできるわけではなく、彼らが楽しそうに作るので、それを見ているのも楽しくて色々と描いている。恵都はPowerPointでイラストを描くことが好きだったが、母のようなイラストレーターとしての才能も、父のようなカメラマンとしての才能も、そして、兄のようなDTPデザイナーとしての才能もない。ただ、下手の横好きだ。それに、イラストを描くのに他の家族のようにずっと集中することもできない。あの集中力も一種の才能だと思う。
「ちょっと調べ物、だけど出てこないな」
恵都は豊臣秀次の側室について色々と調べているのだが、有名どころ以外は名前しか出てこないものも多い。それを題材とした小説や漫画もあるが、そこに杉のものはない。お杉の方という側室がいたのは事実らしいが名前以外何もわからない。専門家が使う資料ならばもっと詳しく載っているのかもしれないが、インターネットで調べるにはこれが限界だった。
「豊臣秀次の側室?」
不思議そうな赤ずきんちゃんの声の響きに顔を上げる。
「知ってるの?」
「うん。一応その頃にはもういたから」
その言葉にパチリ、と目を瞬いた。他の誰の目にも見えていないことは知っているし、不思議な力があることも知っている。でも、恵都の目には普通に映っているし、ちょっと変わった人という印象しかないので、神の使徒が言葉通り神の使いで、人のように短い一生を生きているわけではないことを忘れてしまいそうになる。
「その頃って、戦国時代?」
「うん。それに時を渡れるから」
「は? え? 時を、渡れる?」
「見るだけで、過去を変えたり触れたりはできないから、ヒトで言うところの映画を見ているようなものでしかないし、女神さまでさえ時を渡るには面倒な手続きと細かい準備がいるから渡ったことはないけどね。渡りたい?」
その言葉に慌てて首を振る。時を渡るなど人の範疇を超えている。絶対にろくなことにならない。そもそも神でさえ面倒なことを普通の人でしかない恵都にできるはずがないし、渡りたいとも思わない。
「いい。でも渡らなくても見たなら、知ってる? 側室にいたらしいお杉の方」
「赤や青が見た? ううーん、秀次は覚えてるけど、側室はなー、いっぱいいたし。お杉の方か、ごめん記憶にない」
すまなそうな表情を浮かべている赤ずきんちゃんに恵都が小さく笑う。いくら使徒でも全てを記憶などしていないだろう。
「ま、そうだよね」
「あ、でも、書庫見る? 多分あそこになら情報あるよ」
「書庫?」
「便宜上そう呼んでるけど正確には記憶の溜まり場かな。結構混沌としてるけど、面白いよ。過去にわたるほど細かくは調べられないけど、ちょっとした情報を調べるなら十分だと思うよ。女神さまの許可はいるけど、恵都なら大丈夫だと思う。許可、取ろうか?」
その言葉に一瞬大きく心が揺れた。だが、女神さまの許可がいる場所が、普通の人が普通に出入りできる場所だとは思えない。事実、恵都以外には許可は出ないと言っている。なんとなく、その場に行ってしまったら、もう人ではなくなってしまうような気さえした。
「赤ずきんちゃんが調べては、くれないよね?」
「別に構わないけど、恵都が欲しいものが手に入るとは限らないよ? 私、あんま興味ないし」
「お杉の方について多少でも情報が入れば、いいから」
思わず目をそらした恵都を赤ずきんちゃんが冷たさを孕んだ瞳で眺めた。どこかピリピリとした空気にこの場から逃げ出してしまいたい心地がする。
どのくらいそうしていたのか、赤ずきんちゃんが発する空気が突然四散した。
「しょーがないな。じゃあ調べるよ。代わりにさ、可愛いワンピースが欲しいな。ね、描いてよ」
ニコニコと笑っている赤ずきんちゃんにはさっきまでの冷たい雰囲気はもうない。
「どんなのがいいの?」
「お任せ。恵都が私に似合うって思うものを描いてよ」
「了解! じゃあよろしく」
「お任せあれ」